「今日が何の日なのか…、知っていますか?」
時任と自分の想いを抱きしめる久保田を、その心と世界を美しい緑が優しく包み込み…、暗闇を塗りかえるように青い空が広がり…。抱きしめていた想いが光になって、少年のカタチとなって、そっと久保田に寄り添い…、抱きしめ合い…、
そんな光景が産まれるのを、鏡の外にいた橘が見てから数か月。
時任が鏡から出て久保田が鏡に捕われてから、およそ一年後。
切なくなるほどのオレンジ色の鮮やかな夕焼けの中、橘はある人物に向かってそう問いかけていた。その人物は久保田の葬儀の時に挨拶をしただけで、話をするのはこれが初めてだった。
・・・・・・・・宗方誠治。
久保田誠人の中にあるのと同じ誠の字を名の中に持つ男は、時任が命がけで助けた人物であり、久保田の母親の従兄弟でもある。けれど、オレンジ色の表紙の中でも葬儀で聞いた噂の中でも、即座に否定されながらもある噂が囁かれていた。
でも、その噂が本当かどうか調べることをしなかったのは、調べもせずにこの場に立っているのは…、たぶん宗方の口から真実を聞きたかったからかもしれない。そして、もしも答えがイエスなら、今日、この日に、この場所でそう答えるのなら橘は宗方に話したいことがあった。
聞いて欲しいことがあった。
唯一、真実をこの目で見て知る者として…。
けれど、本当に宗方が今日、この場所に現れるとは思っていなかった。
もちろん、橘はここで宗方と会う約束などしていない。
でも、それでも宗方は当然のように、一人、白いユリの花束を持って現れた。
そして、唐突な橘の質問にも動じず、久保田の母親の墓の前に立ち止まり…。白いユリの花束を、先に橘が置いたオレンジ色の花の横にそっと置いた。
「今日は…、彼女の命日だ」
橘の質問に対する返事はとても短く、でも、その声に哀しい響きを感じたのはやはり気のせいなのか…。葬儀で見かけた時のように宗方は無表情で、従兄弟である彼女の墓を静かに見つめる横顔からも、その感情は読み取れなかった。
そんな宗方を見つめながら、橘は再び口を開き尋ねる。
僕のことを覚えてらっしゃいますか?…と、名を名乗らずにそう聞いたのは、何となく自分のことを知っている気がしたせいだった。すると、予想通り宗方は即座に君は橘遥君だろうと、葬儀に来ていたから知っていると言った。
「とても綺麗な青年が来ていると、噂になっていたから覚えているよ。確か誠人の友人だったね…、君は」
「えぇ、僕は彼の友人です。けれど、本当は彼のことは顔を知っている程度で、話したのも一度きり…。友人だったのは彼であり、そうではない人です」
「誠人であり、そうではない人間?」
「その話をするために、僕はここへ来ました。もしも、貴方が今日ここへ来るのなら…、僕の質問にイエスと答えるのなら、僕は貴方に話したいことが…、どうしても聞いて欲しいことがあります」
「・・・・・・・・・」
・・・・・・今日ここへ貴方が来たなら、僕の質問にイエスと答えるなら。
そんな橘の言葉に、宗方の表情がわずかに動く。でも、そのわずかな動きがどんな感情によるものかまでは、じっと見つめていた橘にもわからなかった。
何を想い…、考えているのか…。
けれど、橘の言葉が何を意味するのか、今から何を聞こうとしているのかを、おそらく宗方はわかっている。わかっていながら…、すぐにこの場を立ち去ることもできたのにそうしなかった。
逃げない宗方を前にした橘は、意を決したように口を開く。そして、久保田の母親の墓の前で、彼女の眠る場所で…、噂が本当なのかどうかを尋ねた。
「久保田誠人は貴方と彼女との間に産まれた…、貴方の息子ですか?」
真っ直ぐに…、ただひたすら真っ直ぐに見つめながら…、
同じように自分を真っすぐに見つめ返してくる宗方に問いかけた。
誰もが即座に否定した…、そんな噂の真実を…。
すると、宗方は橘に向けていた視線を彼女の墓に向け…、
それから迷わず、ためらわずにそうだと答えた。
「誠人は、私と彼女の間に産まれた子だ。様々な噂が流れているようだが、間違いなく…、私の子だよ」
宗方は久保田の母親ではなく、別の女性と結婚していて子供もいる。
そして、その子供は久保田と同じ年であるらしい…。
それが何を示すのかは、考えるまでもなくわかることだった。
宗方は妻がいる身でありながら、久保田の母親と関係があった。
不倫…、愛人…。
二人の関係を言葉にするなら、そんな言葉になってしまうのだろう。
でも、その言葉を口にせず飲み込んだ時、橘の脳裏を過ぎたのは宗方と久保田の母親のことではなく、かつて恋人だった松本のことだった。
とても大切でとても愛しているのに、だからこそ別れてしまった人。
別れても離れても幸せを願っているのに…、そのはずなのに今も胸の奥に暗くて冷たい感情が澱んでいる。そんな感情がなぜか宗方と話していると揺れて、このままでは何も話せなくなってしまいそうで…、
橘は宗方に向けていた視線を、沈みかけた夕日に向けた。
「これから僕が話すことは、とても信じられない話で…。けれど、僕が実際に見た現実で事実です。だから、僕は貴方に本当のことを知っていて欲しかった。耳を塞ぎたくなるような噂ではなく、僕が話して感じた…、彼の愛した人の口から聞いた本当の久保田君を知って欲しかったんです…」
本当は鏡が割れて、すべてが終わった今、後は橘の手でオレンジ色のページを閉じて、鏡を誰の手も届かない場所に眠らせれば良いだけだった。けれど、本家の当主を命がけで助けた立派な久保田の墓を…、墓石ばかりが立派で誰も久保田がいなくなったことを惜しんでも悼んでもいない墓を見つめるたびに、鏡の中に見た二人分の想いを大切そうに、優しく抱きしめる久保田の姿が脳裏に浮かんで…、
時任が調べた過去を、オレンジ色の中に綴られた文字を思い出し…、
どうして…、なぜとそんな気持ちが大きくなって哀しくてたまらなくなった。
何がどこで…、間違ってしまったんだろう…。
あんなに優しい微笑みを浮かべる人が、どうしてと思う気持ちがいつまでも消えなくて…。久保田の母親の命日に、ここに来る人があるなら…、それが父親であるなら自分の知る事実と真実を伝えようと決めた。
鏡に…、時任に向かって迷わず手を伸ばした…。
橘の手を取らずに…、時任への想いを抱きしめ続けた彼のことを…。
聞きたくなれば、途中で帰っても構わないと言った後、橘は久保田のことを…、彼の愛した人のことを宗方に話し始める。すると、宗方はこの場から立ち去ることもなく、その話を黙ったまま静かに聞いていた。
決して短くない話を…、夕日が沈んで辺りが暗闇に包まれ始めても…、
彼女の墓の前で、時折、何かを想うように捧げた白いユリを見つめながら…。
そうして、橘がすべてを話し終える頃には、墓石の近くにある灯篭に火を付けなければ辺りが見えないほどに暗くなってしまっていた。
「・・・正直、貴方が最後まで、話を聞いてくださるとは思いませんでした。だからといって、すべてを信じたとは思いませんが…、それでもありがとうございました…。これでようやく、僕の中の彼らのページを閉じることが出来ます」
どうかお幸せに…。
そんな言葉を贈るまでもなく、彼らは今も幸せでいるのだろう。
鏡の中…、あの美しい緑に包まれた二人きりの世界で…。
そして、その世界に伸ばそうとした自分の手が届かなかったのは、当然のことだと橘は仄かな明かりしかない暗がりで微笑んだ。
確かに久保田の姿があんなにはっきりと見えたのだから、鏡に核として選ばれたのは間違いない。でも、鏡が待ち望んでいたのは、あの二人のような…、あの暗闇を青い空と美しい緑で包み込んてしまうような、変わらぬ想いなのかもしれないと…、
そう思いながら、橘は今も彼女の前にいる宗方に背を向けて歩き出そうとする。
暗がりに続く道を、一人きりで…。
けれど、そんな橘の耳に宗方の声が響き、その声が目の前の墓に眠る彼女のことを話しているのだと知ると、橘は踏み出しかけていた止めた。
「彼女は…、初めから知っていた。彼女からの告白を聞いた時、私はいずれ親の決めた相手といわゆる政略結婚をすることになるだろうと、それでも良ければと言った」
宗方の話は、どこかで聞いたことのあるような話だった。
けれど、男と女の話で、橘と松本の間にあったようなしがらみは無い。
しかし、それでも宗方の話す彼女の恋は、決して報われない恋だった。
報われないと知りつつ、うなづいた彼女は宗方と恋人となり、宗方が結婚してからは愛人となり…。そんな彼女に宗方が別れを告げたのは、妻に二人の関係が知られてしまったことが原因だった。
しかも間の悪いことに、その時、彼女も妻も宗方の子を身ごもっていて…。
選択を迫られた宗方は、彼女を捨てて妻を選んだ。
「・・・・・なぜ、僕にそんな話を?」
宗方の話をさえぎるように、そう言った橘の顔にいつもの微笑みは無い。
振り返り向けた視線も、無意識に冷たく鋭くなる。
だが、そんな橘を気にした様子もなく、なぜだろうと無表情に呟き…、
そして、少し何かを考えるように灯篭の明りを見つめた後、再び口を開いた。
「私は彼女ではなく、妻を選んだことを後悔していないし、今、同じ選択を迫られたとしても同じ答えを出すだろう。だから、君に話して楽になりたいとも、彼女に許しを請おうとも思ってはいない…。しかし、今日は…」
「今日は?」
「彼女の命日だ。だからだろう…、彼女のことを話をしたくなるのは…。今日、この日に誰かがここにいるのを見るのは初めてだった」
「・・・・・・・」
久保田の母親の、彼女の両親は高校生の頃に離婚していて、別の相手と再婚して別の家庭を持ってから連絡を取っていなかったらしい。そのせいなのか、時任が久保田の従兄弟から聞いた噂が原因なのか…、一応、兄が連絡を入れたらしいが二人とも葬儀にも顔を見せなかった。
誰の子供なのかわからないと言われていたが、久保田の父親は宗方。
けれど、複数の男と関係を持っていたのは、事実であるらしい。
でも、そうなってしまった、きっかけはわからない…。
それに宗方が気づいたのは彼女が本家に来たと…、別れた後に子供を産んだこと以外は一度も宗方が困るようなことをしたことがなかった彼女が、幼い我が子の手を引いて門の前に立っていたと聞いた時だった。そして、どうも様子が尋常ではなくおかしかったと妻に言われて追い返した家政婦から聞いて、内密に信用できる人間を様子を見に行かせた。
だが…、その時、すでに彼女は正気を失っていた。
住んでいるアパートの部屋を訪ねてくる男は、皆、宗方だと思い込んでいるらしく…、その報告を受けた宗方は、すぐに彼女を知り合いの口の堅い医院長のいる病院へと入院させた。
「噂は確かに事実だが、その噂を誰の耳にも入るように流していたのは私の妻だ」
「それは…、事実と噂とどちらが先に…」
「わからない」
「調べたのでしょう? 貴方は」
「・・・たとえ君の予想通りだったとしても、そうではなかったとしても罪も罰も私にあるもので、妻のものではない。それが事実ですべてだ…」
別の女性と結婚するとわかっていながら、傷つけると知りながら彼女との関係を続けた。だから、きっと妻に知られた時も、少しも迷いはしなかったのだろう。
迷いもせずに別れを告げて、子供も認知しないとあきらめさせようとした。
でも、それでも彼女は宗方との子供を産むことを選んで・・・。
そして、正気を失いながらも子供の手を引き、決して足を踏み入れることの叶わない本家の…、宗方家の門の前に立った時、彼女は何を思っていたのか…。もう、それを知るすべはこの世のどこにもない…。
表向きはそれらしい病名をつけて入院していた彼女は、徐々に弱って衰弱していき仮の病名が真実となり…。それはまるで彼女と、彼女の息子を取り巻く噂が二人を追い込んでいく様に似ていて、橘は目を伏せ握りしめた拳に力を込めた。
「彼女が正気に戻ることは、最期までなかった。院長に頼んで人目につかない時間に、何度か尋ねたことがあったが、いつも彼女は私に同じことばかりを聞いた。私が目の前にいるのに、私が来ないと…、仕事が忙しいのだろうかと…」
「・・・それはきっと、彼女にとって貴方は来るはずのない人だったから。待ち続けながらも、もう…、二度と来ないのだと帰っては来ないのだと知っていたからですよ」
「そう思っているのなら、なぜ私のことなど忘れて…」
・・・・・・忘れて幸せに。
そう続いたかもしれない宗方の言葉をさえぎったのは、橘ではなく風で…。
突然、吹いた強い突風は宗方の言葉と、ユリの花束をさらっていった。
でも、風が吹かなくても、きっと橘がさえぎっていた。
忘れることなど…、できるはずがない…。
それが出来るくらいなら、初めから報われないと知りながら傍にはいない。
報われなくても、それでも…。
そんな橘が思う彼女の想いは、橘の…、自分自身の想いでもあった。
たとえ別れが来ることがわかっていても、それでも傍にいたくて…、
いつも別れの日を思いながら、好きな人をその想いを抱きしめた。
「報われなくても傍にいたかった。ただ彼女は貴方が好きで、愛していて…、傍にいたかっただけなんですよ…。忘れることなど、出来ないほどに貴方のことだけを…」
こんな結末を迎えるくらいなら、初めから出会わなければ…と思いかけて橘は小さく頭を横に振る。彼女の気持ちは彼女にしかわからないことだけれど、きっと、最期まで待ち続けた彼女も同じように首を横に振っただろうと…、
でも、そう思うのもやはり自分と重ねて見てしまっているからだろうと、橘は風に吹かれてもさらわれることのなかったオレンジ色の花束を見つめた。すると、同じ方向に視線を向けた宗方が、ゆっくりと伸ばした手で墓石を撫でた。
「私は何も覚えてはいなかった。告白された日も付き合い始めた日も、彼女の誕生日すら何も…。なのに、なぜだろう…。彼女の命日だけは、一度たりとも忘れたことがない」
墓石を撫でる宗方の手…。
その手が今のように優しく、彼女を撫でたことはあるのだろうか…、
宗方の傍にいて、彼女が幸せそうに微笑んだ日はあったのだろうか。
それもやはり彼女にしかわからないことだったが、どんなに冷たい墓石を撫でても…、もう彼女にはぬくもりも何も届かないことだけは確かだった。
「貴方は…、彼女のことを・・・・・」
好きだったのか…、少しでも愛していたことはあるのかと…、
そう尋ねかけて、途中で口を閉じる。
彼女の墓を撫でる宗方の横顔を見ていると、なぜか、その先を聞くことはできなかった。けれど、たぶん宗方が最後の最期に想うのは、流れゆく走馬灯の中に見るのは、きっと彼女だろうと…、そんな気がして…、
もしかしたら、これから彼女のいない世界で始まる…、もう始まっているかもしれない罰に…。その長い日々を思い、橘はいつの間にか星が瞬いていた夜空を見上げた。
「人はなぜ、恋などするのでしょうね…。恋なんてしなければ、苦しまずにすむのに…」
・・・・・・なぜでしょうね。
橘の呟きにも似た問いかけに、宗方からの返事はない。しかし、橘はそれ以上は何も言わず、今度こそ本当に宗方に背を向けて歩き出した。
夜空の下を一人きりで…。
あの緑に包まれた世界の二人の行く先には、もしかしたら楽園があるのかもしれないけれど、橘の歩く道は暗闇しか続いていないように見えた。鏡に手を伸ばさなくても、こんなにも世界は暗くさみしい…。
そんな道を歩きながら、橘はここに来る前に寄った東湖畔で、鵠が言ったことを思い出していた。
『もしも、もう一枚同じ鏡があったら…、貴方は手を伸ばしますか?』
もしも、今も想い続けている、あの人のいない世界に行けるとしたら…、
そうしたら、誰も傷つけることなく、幸せを願い祈り続けることが…、
鵠の言葉に、また、そんな思いが胸の中で揺れ動いて…。
けれど、それでも橘は首を横に振った。
それはあの時、鏡に向かって手を伸ばして久保田に拒まれた時に気づいてしまったから…。絶対に後悔はないと思いながら言いながらも拒まれて、別れた人を想い続ける苦しみの中でほんの少しだけ…、わずかにほっとしていた自分がいるのを知ってしまったからだった。
緑に包まれた二人を見ていても見ていなくても、鏡に伸ばした自分の手には迷いがあって…。久保田の言う後悔がわからなくても、それは紛れもない事実だった。
『誰も傷つけたくない、あの人の幸せを祈り願っていたい…、心から…。そう思う気持ちは変わらないのに、きっと、あの時も今も僕は迷わず鏡に手を伸ばせない…』
『・・・・・・・』
『だから、考えたいんです。この世界で、久保田君の言う後悔を…』
あの人を想い続けながら、この世界にいる意味を…。
鵠にはそう言ったが、今もまだわからない。実際に手を伸ばしながら迷う自分自身の感じていても、そんな自分がわからなかった。
この世界にいても、鏡の中にいても愛した人は別の誰かと幸せになって…、
そんな現実はどこにいても変わらないというのに…、何を迷うのかと…、
幸せを祈り願う気持ちが、愛が憎しみに変わる前にどこか遠くへ…、手の届かない場所へ行かなければと思うのに、何を今もこんな場所に留まり続けているのかと…、
何度も何度も心の中で問いかけているのに、未だにその答えを出せないでいた。
『自分を信じろよ…、橘…。アイツへのお前の想いは、お前が思ってる以上に大きくて深くて…、きっと、夕暮れみたいな色をしてるって思うからさ』
婚約者と並んで歩く姿を見て、嫉妬に狂って…、
そんな橘の想いを、最後に話した電話越しにそう時任は言った。
夜の暗闇ではなく、夕暮れのオレンジ色をしていると優しく穏やかに言った。
けれど、そんな風には思えない…、思えるはずがない。
本当は嫉妬に狂いながらもわかっていた。
初めから終わりは見えていて、それを知って覚悟の上で抱きしめたのは自分で…。やがてきた別れは当然のことで、隣で微笑んでいた彼女が橘から松本を奪ったわけではない。
松本も橘が久保田の母親のようにならないように、そして、これから一緒に道を歩んでいく彼女を苦しめないように別れを告げてくれた。
なのに、こんな暗い感情を抱く自分が、その想いがあの小さな絵のような優しい色をしているはずはない…。二人と関わった時間のページを閉じて、割れた鏡のことは任せると伝えるために、今日の報告のために東湖畔に足を向けながら、橘は街頭の明りに伸びる自分の黒い影を踏んだ。
「僕は貴方達とは違うんですよ…。ただ一人を想い続ける気持ちは変わらなくても、僕の想いはあんな優しい色はしていない…」
東湖畔に行ってすべてが終わったら、どこか遠くへ…、
鏡に手は伸ばせないけれど、せめて、どこか手の届かない場所へ…。
想い続けることはやめられなくても、今度こそ本当のさよならを…。
そうしたら、久保田の言う後悔を少しは知ることが出来るのだろうかと暗がりの中で微笑む。けれど、初めからわかっていた結末と現実に、何を後悔するというのだろう。
たとえ別れても出会ったことを後悔したことは…、一度もないというのに…。
でも・・・、それでも、もしも後悔することがあるというのならと、次第に近づいてきた東湖畔の方向を見つめながら思い出すのは、別れの日。
・・・・・恋人でいられた最後の日。
大嫌いだと言われて、同じようにそう言ってしまった日のこと。
下手な嘘をつき返して、それがお互いのためだと思った。
大切な人のためだと…、そう今も思っている…。けれど、後悔を考え、あの日のことを思い夜道を一人歩いていると、なぜ…という気持ちが込み上げきて止まらなかった。
あの時はそうするしかなくて、それがわかっていても思い始めると止まらなくて…、
最後の最後だからこそ、本当は好きだと大好きだと愛していると…、あの二人のように叫びたかった…、そんな気持ちが痛みとなって胸をしめつけて苦しかった。
「こんな後悔で…、僕は迷って手を伸ばせなかったっていうんですか…。こんな言ったところで何も変わらないことで…、僕はこの世界に・・・」
違う、そんなはずはない…。
こんな後悔とも呼べない後悔で、この世界に、この街に彼のいる場所に留まって…。暗い夜道を歩いているなんて、そんなことあるはずがない。
きっと、気のせいだと考えすぎて疲れてしまっただけだと首を横に振り、前に足を踏み出し続けながら、近づいてきた東湖畔に視線を向けた。
やはり、どこか遠くへ行こうと…、そう心に決めながら…。
けれど、そう心に決めた橘の視界に東湖畔の前に立つ人影が入り、誰だろう、鵠だろうかと横に振った首を今度はかしげる。でも、近づくに従って鵠ではない誰かの…、良く知る人物の姿や顔や自分を見つめる瞳が見えてきて…、
きっと、偶然だろうと通りかかっただけで、またすれ違うだけだと思いながらも…、胸の奥から込み上げてくる想いに叫び出したくなる。どんなに叫んでも変わらない現実が目の前にあっても、会えたことがうれしくて…、切なくて哀しいのにうれしくて…、
会えただけで・・・、泣いてしまいそうで・・・。
ぎゅっと拳を握りしめて立ち止まって、唇を噛みしめる。
別れてから彼女と並んでいるのを見てから、嫉妬に狂って傷つけたくなくて離れて、逃げ出すことばかりを考えていたから、本当はこんなにも会いたくて会いたくてたまらないでいた自分に気づけないでいた。
「・・・・僕は、まだこんなにも」
離れて、誰よりも好きだと愛していると思い知って…、
なのに、出会っても誰よりも好きだと愛していると思い知って…、
最初に彼女の墓の前に佇む宗方が脳裏に浮かび、次に緑の包まれた二人が浮かび…、それから橘は目の前に立つ人と自分達を包む世界を見つめた。
二人が出会った世界を、こうして同じ空の下にいる今を…。
すると、時任と久保田の言葉が、暗いばかりだった世界に満ちていくのを感じた。
同じ世界にいなければ、声を聞くことも会うことも出来ない。
たった一言の言葉さえ、伝えることが叶わない…。
それがどんなことなのか、胸の奥で叫びたがっている心が想いが教えてくれる。
同じ空を見上げ、同じ大地を踏んでいることの意味を…。
あの鏡に伸ばす手は、もう二度と会えないと…、もう二度と声を聞くことも叶わないと、その覚悟がなければ伸ばしてはならない手だった。
「あの人のためだと、誰も傷つけたくないと言いながら逃げることばかりで…、自分のことばかりで…。そんな覚悟なんて、本当は僕にはありませんでした…、なかったんです…。だから、僕は鏡に手を伸ばせなかった…」
そんな橘の呟きが、松本に届いたのかどうかはわからない。
けれど、立ち止まってしまった橘の代わりに、松本が足を前に踏み出し近づいてくる。それに気づいた橘は胸の奥の暗い感情を恐れて後ずさり、また逃げ出しかけて…、
でも、そんな橘の背中を、自分を信じろと言う時任の最後の言葉と、二度としたくない後悔が押した。
「貴方が好きです、大好きです…、愛しています・・・」
頬を伝う涙と一緒に伝えたい言葉が、橘の喉を唇を心を震わせる。
大切な人と同じ空の下、同じ大地を踏みしめながら、その想いを叫んで…。
逃げ出そうとしていた足を前に踏み出し、歩き出し、走り出す。
すると、そんな光景を東湖畔の窓越しに見ていた鵠は、まるで眩しい夕焼けでも見ているかのように目を細めた。
「この先の結末はわかりませんが…、同じ世界にいるのなら明日も明後日もありますし、絶望の底に希望だってあるかもしれません…。そう、貴方も思うでしょう?」
いつものように茉莉花茶の入った湯呑を手に、鵠がそう呟きながら視線を窓の外から内へと向けると…、そこには壊れた鏡の破片を包んだ緑色の風呂敷包みがある。その中にいる二人は窓の外の二人と違って同じ世界どころか、初めは違う時間を生きていて…、出会うはずなどなかった二人だった。
でも、それでも二人は出会って…、お互いに手を伸ばし合って…、
その果てに緑に包まれた世界へと…。
きっと、そうすることでしか抱きしめ合うことも、指先で触れることすら出来なかった二人を…、お互いを想う二人の横顔を思い出しながら、鵠は店の壁に小さな夕焼けと一緒にかけられた緑に包まれた…、空の綺麗な一枚の絵を見つめた。
「結局、鏡の最初の持ち主も、不思議な現象の理由もわからず仕舞いでしたが…。もしかしたら、あの二人のように誰かを求め続けて、恋し続けた人の…、さみしい誰かの持ち物だったのかもしれませんね…。これはただの想像で妄想にすぎませんが、鏡は人の姿だけではなく、想いまで写し取ると言いますから…」
そう絵に向かって語りかけるように言った鵠の視線の先、見つめていた緑の中に二人の姿を見たような気がして…。鵠は微笑みながら、どうか幸せに…と口ずさみ温かい茉莉花茶を飲んだ。
そして、きっと今も二人一緒にいるだろうと…、
微笑み合いながら笑い合いながら、美しい緑の中、青い青い空の下…、どこまでもどこまでも続く道を歩いているのだろうと思いながら、外にいる橘に代わって開いていたオレンジ色の表紙を…、パタリと閉じた。
『どこまでもどこまでも一緒に行こう…、くぼちゃん』
『うん…、どこまでも一緒にね』
グリーン、グリーンレクイエム・・・。
どうか幸せに…、どこまでも続く想いの緑の中へ眠れ…。
もう誰も、この世界でさえも、二人を隔てるものはないのだから…。
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