「・・・・・・幸せになんて、ならなければ良かった」
時任が死んでしまったなんて、もういないなんて信じたくない。
なのに、自分を見つめる橘の瞳に嘘は感じなかった、感じられなかった。
そのことに絶望しながら、呟いた声は鏡の向こうには届かない。
でも、それは橘に向けた言葉ではなく、自分自身に向けた言葉だった。
鏡の向こう側に見える、小さな絵。
その夕暮れのオレンジ色に時任の幸せを願ったはずなのに、結局、幸せでいたのは鏡に手を伸ばした久保田だけで、時任は鏡を出て一年もしない内に、いなくなってしまった。鏡の外に出たりしなければ、今も鏡の中にいたに違いないのに、久保田が手を伸ばしたせいで子猫のように…、きっと苦しんで…、
そう思う久保田の気持ちが声が聞こえなくても伝わったかのように、橘が首を何度も横に振る。そして、貴方のせいじゃありません…、違うんですと言った。
「確かに、貴方は過去に暴力沙汰を起こしていた…、しかもたくさん。それらがすべてが噂通りとは思いませんが、間違いなく事実なのでしよう。けれど、その事と時任君の件とは無関係です」
それに、もう昔のことなのでしょう?
今の貴方には、その頃の面影は見えませんから…。
そう言い切った橘は、鏡の中ではなく外のオレンジ色の表紙を手に取る。
そして、久保田が開いているのと同じページを開いた。
そこは何も書かれていない、真っ白なページ。けれど、その一ページ前までは久保田のことを知ろうとする、時任の文字で埋め尽くされていた。
「それはたぶん…、偶然が重なった結果だったんだと思います。一千万円のことを知ったのも、その事を聞きに行ったタイミングもあまりにも悪すぎて…。本当に…、とても悪い夢でも見ているようでした…」
・・・・・悪い夢。
橘がそう言った現実は、本当に悪夢のようで…、
久保田を狙ったものでも、時任を狙ったものでもない凶器によって、時任の命も幸せも奪われてしまったのだと橘の口から知った時、久保田はただひたすら何かに耐えるように手にあるオレンジ色の表紙を握りしめていた。
そうしていなければ、震える拳を鏡に叩きつけてしまいそうだった。
ナイフを持った男に狙われていたのは、本家の当主。
地位や名誉のためなら、かつての恋人だった女を簡単に捨ててしまえる男。
そして、母親が言っていた通りなら、久保田の父親。
久保田と同じように悪い噂しか聞かない男が、もしも恨みを持つ男のナイフに倒れたなら、ふさわしい末路だったに違いないのに…。
そこに居合わせてしまった時任が、その身をかけて男を庇って、男の代わりに死んでしまった。自ら鏡に手を伸ばし、その永遠に繰り返される哀しみの輪を断ち切ろうとした時任らしい、終わりで結末だった。
「だから、貴方のせいではありません…」
時任の結末を話し終えた橘は、また首を横に振る。
けれど、そんな橘に向かって、久保田を横に首を振り返した。
確かに時任の命を奪ったのは、本家の当主を狙った男のナイフだったのかもしれない。橘が言うように、すべてのタイミングが悪すぎたのかもしれない。
でも、久保田が一千万円なんて大金を手に入れなければ、こんな事にはならなかった。記憶喪失のフリなんてしなければ、時任に過去をすべてを話していれば、従兄弟に会って本家の当主のことを知ることもなかった。
そして…、久保田が鏡に手さえ伸ばさなければ、それらのすべてが起こらなかった。
あの蔵に行った帰りに見た夕焼けの中に見た幸せを、時任の幸せだけを祈っていたはずなのに…、すべては悪い方向へばかり動いて…。誰よりも大切な人の命を、誰よりも好きな人の命を奪ってしまった…。
そう、すべては自分のせいなのだと久保田は首を横に振り…、
オレンジ色の表紙を右手で握りしめながら、もう片方の手で顔の半分を覆う。
その手は子猫のぬくもりと冷たさは知っていても、時任のぬくもりと冷たさは知らない。けれど、凪の日に鏡越しに手を重ねながら、見つめているだけでぬくもりを感じていた。
ぬくもりと幸せを感じていた…。
幸せだった…、とても…。
だけど、その手が招いた現実は、あの何度も夢に見た黒い葬列に似て…、
目指していたオレンジ色の夕焼けも、その中の時任の笑顔も見えなかった。
「・・・・・・・僕は自分の都合で、貴方と入れ替わり鏡の中に入りたいと思っています。そのために貴方と話したいと、説得したいと時任君に申し出ていました。けれど、何も告げずに時任君のいない世界に、貴方を引き戻してしまうことはどうしてもできませんでした…」
たとえ鏡の外に出られたとしても、そこに時任はいない。
もう二度と触れることも声を聞くことも、その姿を見ることすら叶わない。
それを伝えた上で、橘は久保田に向かって右手を差し出した。
久保田のためではなく、自分のために差し出す手だと言いながら…、
そんな橘の手を見つめると、いつかの日に握りしめた石を思い出す。
けれど、久保田は橘の手に向かって、自分の手を伸ばそうとはしなかった。
「もう…、何をしたって時任は戻らない…。もう二度と会えないなら、ずっとココにいるよ。もう誰も鏡の中に取り込まれないように…、ね。きっと、それがたぶん俺に手を伸ばそうとしなかった、伸ばしたくなかった時任の願いだろうから…」
聞こえないことを知りながら久保田がそう言うと、橘は拒絶を感じ取ったのか差し出した手をゆっくりと引く。けれど、それでもあきらめた様子はなく、夕焼けが描かれた小さな絵を手に持って映した。
鏡の外へ、こちらの世界へ帰って来て欲しいと伝えようとするかのように…、
でも、それは無駄なことだった。
もしも、列車の車窓からみたような鮮やかな夕焼けが、田園風景が目の前に広がっていたとしても、そこに時任がいないのなら帰りたいとは思わない。この世のどこにも、居たい場所など在りはしない。
だから、どうしても鏡の中に入りたいと、久保田と入れ替わりたいと哀しい瞳で言う橘に向かって、久保田は唇の動きが読めるようにゆっくりと問いかけた。
そこに会いたい人はいないのかと…、
捨てたがっている、その世界に好きな人は大切な人はいないのかと…。
すると、哀しい瞳をした橘の唇が痛みに耐えるように歪んで、それを見た久保田は目を閉じて深く長く息を吐いた。
「どんなに好きでも大切でも、そのヒトの傍にも近くにもいられないことも、遠く離れていなくちゃならないことだってあるだろうけど…。それと同じ世界にいない、もう二度と会えないってことは同じじゃない…、違うんだ…。ぜんぜん違うんだよ…」
「・・・久保田君」
「俺は大切だったよ。きっと、もしも大切なヒトと同じ世界にいたとしたら、何があっても何が起こっても捨てられないくらい、守りたいくらい、その世界が大切だった…」
「・・・・・・・・・・」
「とても…、とても大切だったよ…」
吐き出した深く長い息は、ため息ではなく…、
胸の奥に降り積もり過ぎて、いっぱいになりすぎた想いのようで…、
言葉を読み取ろうと唇を見つめていた橘は、まるで、久保田の声を聞いてしまったかのように目を伏せる。そうして、橘が呟いた名は、久保田の知らない名前だった。
「・・・僕にも大切な人はいます。いるからこそ、僕は鏡の中へ行きたい。けれど、あの人のいる世界を大切に想わないわけではありません…、大切に思わないはずがない…。けれど、僕はあの人の幸せを・・・」
「幸せを祈るなら、本当に祈りたいと思うなら同じ空の下にいなよ。そうしないと、きっとカミサマだって見てないから…」
「神様なんて、そんなのいませんよ。少なくとも…、僕の世界には…」
「そう…。でも、それでも後悔したくないなら、手を伸ばさない方が良い」
「それを言うなら、貴方の方でしょう? そんな暗い世界で思い出だけを抱いて、永遠に哀しみだけを抱き続けて、それで後悔しないとでも言うつもりですか?」
「・・・・・・・・」
「僕の事なら心配はいりません、僕が望んだことです。たとえ後悔する事になっても、決して凪に手を伸ばしたりしないと誓いますから、だから、どうか僕の願いを叶えてくれませんか? 時任君だって、きっと貴方の不幸なんて望んでいませんっ」
・・・・・・・・・貴方は不幸だ。
薄暗い古いアパートの部屋、窓の外の暗闇。
その中で時任への想いだけを、思い出だけを抱き続ける久保田を不幸だと橘は言う。そんな場所で精神だけになって、消えることも叶わずに永遠に生き続けるなんて、とても哀しくてとても不幸だと言葉だけではなく、見つめる哀しげな瞳で伝えようとする。
けれど、久保田がその瞳を見つめ返し、何か言おうと口を開きかけた時、部屋に吹くはずのない風が強く吹いて…。その風に驚いた久保田の手から、オレンジ色の表紙がこぼれ落ちた。
その中に書かれているのが、自分の過去でも他の何かだったとしても…、
それは久保田にとって、大切な人の書いた大切な物だった。
だから、すぐに拾い上げようとして手を伸ばす。けれど、まるで吹いてくる風が意思でも持っているかのように落ちたオレンジ色のページをめくり…、従兄弟から聞いた話で終わっていたはずの時任の文字の続きを久保田の前に示した。
それは途切れたページと、最後のページのちょうど真ん中辺りにあって…、
ごめんな…と過去を調べたことに対する謝罪の言葉で始まる文字は、誰かに聞いた久保田の過去ではなく、時任のことが、時任自身の想いを綴っていた。
・・・・・・俺は誰かに止めて欲しかったんだ。
もう誰にも、あの鏡に手を伸ばさせたくないキモチも…、
もう二度と、あんな選択を誰にもさせたくないキモチも変わらないのに…、
どんなにくぼちゃんに会いたくても、誰かを犠牲にするような選択をするつもりはなかったのに、迷って止めて欲しくて過去を探して…、
一番良い選択は何か…なんて、バカなコトを考えてた。
怖かったんだ…、もうこれきりで希望が消えてなくなっちまったら…、
もう二度とくぼちゃんと会えなくなっちまったらって…、
鏡の中でその覚悟は出来てたはずなのに、鏡の外に出たら途端に意気地ナシになっちまって、いつも俯いてばっかで…。気づいたら、くぼちゃんのコトも俺自身のコトも何もかもわからなくなっちまってた。
だけど、東湖畔で小さな絵の…、くぼちゃんの夕焼けを見つけて思い出したんだ。
くぼちゃんが俺に向かって、伸ばしてくれた手を…。
あの手は、覚悟を決めてなきゃ伸ばせない手だった。
俺を想ってくれてなきゃ、大切に想ってくれてなきゃ伸ばせない手だった。
・・・・・・・そうだろ? くぼちゃん。
綴られた文字をそこまで読んで、久保田は微笑む。
その微笑みは、橘に不幸だと言われたばかりなのに、とても幸せそうで…、
微笑む久保田の耳に、どうして…という橘の呟きが届く。
けれど、久保田はそのまま、時任の綴った想いを文字を追い続けた。
たくさん聞いたくぼちゃんの過去が、ホントかどうかなんて俺にはわからない。
けど、それがホントでもホントじゃなくても、俺にとってくぼちゃんはくぼちゃんだ。
それだけわかってたら、あとは悪いコトなら怒って叱ってブッ叩くし、そうじゃないコトなら一緒に笑ったり泣いたり…、抱きしめたりするだけだ。
傍にいなくたって、どんなに離れてたって何も変わらない。
今だから言えるのかもしんねぇけど、鏡の中で一人きりでいた時だって…、
窓から見えた空は、きっとくぼちゃんと繋がってた。
繋がってたから、あんなにも空が青かったんだって…、
あんなにもくぼちゃんと初めて会った時、うれしかったんだって思うんだ。
俺は出会う前も出会った後も、この先もくぼちゃんの傍にいる。だから、くぼちゃんも出会う前も出会った後も、この先も俺の傍にいろ。
そしたら、きっと…、ずっとずっと一緒だ。
そう綴られた後に、明日…、きっと伝えに行くから…。そして、一番残酷な言葉を言うから待っていて欲しいと書かれ、それを最後にして想いはしめくくられていた。
けれど、時任は久保田に伝える前に命を失い…、遠く遠く離れて…、
後は白いページがあるばかりのオレンジ色の表紙の中に、一番残酷な言葉は見当たらない。だから、それがどんな言葉なのか想像もつかなくて、久保田は白いページに落としていた視線を、鏡の外にいる橘に向けた。
そして、知っているなら教えて欲しい…と、そう唇に言葉を刻む。すると、橘がその前に聞きたいことがあると、本当に鏡から出る気はないのかと言ったので…、
久保田は微笑みながら、ハッキリと首を横に振った。
時任も俺も…、そんなコトは望んでいないと…。
それを聞いた橘は、何かを想うように考えるように黙っていたが、しばらくしてそうですか…と小さな息とともに哀しそうな声を吐き出した。
「貴方も…、同じことを言うんですね。本当に貴方達は、話した感じも雰囲気もまったく違うのに驚くほど、とても良く似てます。実は貴方が東湖畔に売った食器も、この絵もすべて時任君が買ったそうですよ。何も言わずに、店頭に並べていだけなのに…」
「・・・・・そう」
「そして、本家の当主に会う前日に電話をしてきた時、てっきり最善の選択をしてくれたのだと凪の日に手を伸ばすことを承諾してくれたのだと思っていた僕に、彼は絶対に鏡の中には行かせない…。俺もくぼちゃんも、そんなことは望んでないと…」
「・・・・・・」
「時任君に頼まれたんです。一度だけ貴方と話したいから、伝えたいことがあるから協力してくれないかと…。でも、その伝えたいことというのは、貴方にとってとても残酷なことでしかなく、時任君自身もそう言ってました…」
「ザンコク?」
「時任君は、自分の手で鏡を壊す気でいたんです」
時任は鏡を助けるのではなく、壊すつもりでいた。
それを橘の口から聞いた久保田の表情は、微笑んでまま変わらない。
すると、そんな久保田の表情を確認するかのように、橘は話を止め口を閉じる。
けれど、それで…?と言う久保田の言葉を唇で読み取ると、時任の言葉を伝えるために再び口を開いた。
「時任君は、貴方に選ばせるつもりだったんです。鏡を出るか出ないかではなく、今すぐ鏡を叩き壊して欲しいのか、それとも時任君がこの世を去るまで…、壊すのを待ってくれるのかどうかを…」
「それがザンコク?」
「残酷でしょう? 二度と言葉を交わすどころか顔を見ることも叶わないのに、希望などありはしないのに、苦しみを長引かせるような事を言って選ばせるなんて…」
今を捨てないで…、鏡の中で待っていて…。
そんな時任の想いを、橘は残酷だと言う。
でも、久保田は少しも残酷だとは思わずに、時任らしいと小さく笑っただけだった。
決して、他の誰かを犠牲にしたりはしない。その気持ちは変わらないし、少しも希望なんて見えても来ないけれど、時任はあきらめてはいなかった。
迷っても苦しんでも、あがき続けていた。
蔵の小さな小窓の青空に、その手を伸ばすように…。
だから、時任が書いていた残酷な言葉は、きっと違う。
その確信が久保田にはあったから、再び橘に尋ねた。
それが残酷だと、本当に時任がそう言ったのかと…。すると、橘は僕には残酷ではなく、とても哀しい言葉のように聞こえたと涙のこぼれかけた右目を手で覆った。
「・・・・・好きだ。誰よりも大好きで…、誰よりも愛してる…。たとえ他に好きな人がいても、一番好きで愛してる…」
「・・・・・・・・」
「しなくてはならない事がすんで帰って来たら、そう貴方に、この残酷な言葉を伝えて欲しいと頼まれました…」
・・・・・・好きだ、大好きだ、愛してる。
それは確かに、残酷な言葉だった。
けれど、時任が思うように触れたり話したりするどころか、顔さえ見ることが叶わないからじゃない。時任が橘の口を借りて自分の気持ちを伝えたように、久保田には時任に想いを伝えることが出来ない…。
他に好きな人なんていない、お前だけだよ…。
お前だけが好きだよ…、大好きだよ…。
・・・・・・誰よりも愛してる。
その言葉さえ想いさえ伝えられるなら何でもするのに、何だってしてみせるのに…。すでにこの世にいない時任に伝えるすべはない…、どこにも…。
それはとても残酷で、とても哀しくて苦しくて…、
けれど、その想いと同じ強さで、胸の奥が温かくて熱くてたまらなくて…、
時任を抱きしめる代わりに、手の中のオレンジ色を優しく抱きしめる。すると、鏡にも映っていないのに、久保田の足元に見覚えのあるリュックサックが現れた。
「それは…? どうしてでしょう、そんな物はこの部屋には無いのに」
「わからない…けど、たぶんコレは俺のだから」
「貴方の?」
・・・・・・古いアパートにも、新しいマンションの部屋にも無いリュックサック。
でも、それは久保田の心の中に、いつもあり続けたものだった。
黒い子猫の…、ぬくもりと冷たさとともに…。
オレンジ色の表紙を片手で抱きしめたまま、リュックに手を伸ばした久保田は蓋を開ける。そして、あの日と同じように…、けれど違う想いの強さでリュックの中にオレンジ色の表紙を時任の想いを入れた。
すると、中には他に何も入っていないのに、それだけでリュックの中が満ちて…、いっぱいになった感じがして…。それを見ると抱きしめると、もう時任はこの世のどこにもいないのに幸せだった…。
時任の想いが、自分を想う時任の心が腕の中にある…。
それだけでリュックのように胸がいっぱいで、あまりにいっぱいすぎて…。そのあふれ出した想いが、久保田の頬を今まで流れなかった涙になって流れ落ちた。
「たとえ二度と会えなくても、もうお前がこの世にいなくても…。お前のコトを好きだって、愛してるって想い続けるコトを…、好きだって愛してるって言ってくれた想いを抱きしめ続けるコトを俺は不幸だとは思わない…」
・・・・・・・・幸せだよ。
お前と出会えて、こんなにお前のコトが好きで…、大好きで幸せだよ。
言葉で綴った想いも、言葉にならない想いもすべてを離さず抱きしめながら、久保田がそう言うと橘の叫び声が古いアパートに、鏡に中に響く。けれど、その叫び声に久保田が気づいた時には周囲は見慣れた部屋ではなく、暗闇を打ち壊すかのように辺りを覆い始めた緑によって埋め尽くされかけていた。
あんなにも暗くて寂しかったはずなのに、畳の下からも壁からも鮮やかな緑が、草花が木々が伸びてくる。そして、息を付く間もなく緑に覆い尽くされた世界で、呆然と久保田が空を見上げると…、そこには広く青い空があった…。
鏡の中は心象風景で、久保田はこんな景色は知らないはずなのに…、
それはどこか列車のの中で見た、のどかな田園風景にも似て…。きっと、ここで見る夕焼けは、あのマグカップよりも小さな絵よりも綺麗に違いなかった。
「屋根も壁も、ドアも無いし…。鏡の中なのにまるで、どこまでもどこまでも行けるみたいに見えるけど…」
目の前には、一本の細い道が伸びていて…、
その先はどこまで続いているのか、久保田には見えない。
そして、切り取られていない青い空は、久保田の頭上いっぱいに広がっていた。
でも、ここはやはり鏡の中だから、きっと見えない壁か何かがあって、どこまでも行けはしないのだろう。すぐに行き止まりにたどりついて、やっぱりと思うだけなのだろうと思っていると、まるでそんな久保田の心の声を聞いていたかのように、そんなコトねぇよ…と答える声がすぐ近くでした。
だから、久保田は反射的に鏡のある方向を見た。
けれど、そこにあったはずの鏡が見当たらなくて、どこに行ったのだろうかと首をかしげる。すると、ここには久保田以外、誰もいないはずなのに…、誰かの手が自分の手を握りしめる感触がして…、
その感触を感じて初めて、久保田は自分が抱きしめていたはずのリュックまでもが無くなってしまっていることに気づいた。だから、早く探さなきゃ…と歩き出そうとすると、握りしめられている手を強く引かれた。
「バカ…、俺を置いてドコに行こうってんだよ」
手を引かれると同時に、また近くで聞こえた声は聞き覚えの無い声だった。
でも、確かに聞き覚えはないのに、どこかで聞いた事のある声…。
ドクン…と大きく音を立てた心臓の音は、一体、何を知らせて鳴ったのだろう。
目を閉じてもいないのに、鏡の中に来てから一度も夢なんて見た事もないのに、もしかしたら自分は眠っているのだろうかと思いながら、自分の手を握りしめている手の先を視線で追った。
すると、細く白い手の次に見覚えのある紺色の着物が見えて…、
それから…、その時に自分より背の低いやせた身体が見えて…、
あぁ、やっぱりこれは夢なのだと思いながら、その身体の上にある顔を見る。
すると、これは夢だと思っているのに、きっと夢に違いないのに…、
衝動的に腕を伸ばして、細い痩せた身体を抱きしめた。
「・・・・・・時任」
抱きしめても夢は消えない、呼んでも消えない。
それどころか…、くぼちゃんと自分を呼ぶ声までする。
その声を聞きながら、消えないでと叫ぶように強く抱きしめていると、伸びてきた細い腕が久保田の身体をそっと抱きしめ返した。
「俺は死んだはずなのに、確かに死んだはずのに…、気づいたらココにいて。隣を見たら、久保ちゃんがいて…」
「・・・うん」
「きっと夢だろうけど、夢かもしんないけど、それでも良い…。くぼちゃんと一緒にいられるなら、夢でも現実でもドコでも良い…」
「うん」
「くぼちゃんがいるなら…、それで良い…」
リュックが消えて、時任が現れて…。
もしかしたら、これは久保田の心が生み出した幻想なのかもしれない。まるで、二人の想いを孕むように抱きしめていたから、この閉ざされた世界に…、緑を時任を生んでしまったのかもれしない。
幸せな…、幸せな緑色の夢…。
そんな夢の中で抱きしめていた腕の力を緩めると、久保田は初めて息が触れるほど、近くで時任と見つめ合う。そして、伝えたくても伝えられなかった言葉を、時任の頬を流れ落ちる涙に口づけながら告げた。
「お前だけが好きだよ、大好きだよ、時任…。誰よりも愛してる」
・・・好きだよ、愛してるよ。
好きだ…、愛してる…。
抱きしめ合う二人の間で紡がれる言葉が声が、触れ合う唇に口づけに途切れ…。お互いの頬を両手で包み合った頃、どこからかガラスの割れるような音が二人の世界に響き渡り…。
この世界から、二度と出られなくなったことを二人に告げたけれど…、
時任も久保田も音のした方向を振り返ることも、鏡を見ることもなく…、
決して離れる事がないようにどちらからともなく手を伸ばして握りしめると、どこまでも続く青い空の下を美しい緑色の風景の中、真っ直ぐに伸びる一本の道を二人で歩き出した。
「きっと二人で行くなら、この道だって世界だって、どこまでも続いてる…。だから、どこまでもどこまでも行こう…、くぼちゃん」
「うん…、どこまでも一緒にね」
二人で…、どこまでも一緒に…。
そう言った二人の瞳に、もう涙は無く…、
お互いの手を握りしめ歩き出す二人の顔には、あの夕暮れ色の中に見た微笑みが、頭上には雨上がりのような透き通った青が空を美しく彩っていた。
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