・・・・・・・見開かれた橘の瞳、その瞳が見つめる先。
そこにあるのは、何も映らない鏡。
何日も何か月も見つめ続けた…、大切な鏡。
けれど、本当に大切なのは鏡ではなく、鏡の中にいるはずの人。
その人を…、久保田を橘の瞳が映していると感じた瞬間、時任の胸の奥にある感情があふれ出し、思考が混乱し、とっさに伸ばした手の意味すら自分でわからなかった。
橘を巻き込みたくなかったのか、久保田を誰にも見せたくなかったのか…、
この部屋に、自分以外の人間が居るのを久保田に知られたくなかったのか…。
自分を押し倒そうとしていたはずの橘を逆に床に押さえつけ、その瞳が久保田を見ることがないよう防ぎながら、しめつけられるような胸の痛みに歯を食いしばる。
わかっていた…、最初から…。
他の誰かの瞳に映ることはあっても、自分の瞳に映ることは無いと…、
それが現実だと、白い表紙を読むまでもなく知っていた。
時にはうっすらと、時にはハッキリと映ることもあった人々の姿は、一度消えてしまえば二度とは映らない。鏡の中に居た時、何度も何度も繰り返した短い出会いと別れが、それを証明していた。
「だからって、あきらめてたまるもんか…。あきらめてたまるもんかよ…っ」
橘の瞳には映るのに、自分の瞳には映らない。
その現実を前にして、時任はかすれた声でそう小さく呟く。
そして、床に押さえつけたままの橘に、ゴメン…と頭を下げた。
「ワケは言えねぇけど、あの鏡は見ないでくれ」
「・・・ですか、あの鏡には貴方が映っていました。貴方が前に立っていないにも関わらず、貴方と見知らぬ部屋が…」
「・・・・・」
「あの鏡は一体、何なのですか?」
・・・・・鏡に貴方が映っていた。
そんな橘の言葉に、動揺した時任の肩が揺れる。
橘の言う貴方は時任でなく、鏡の中の久保田のこと。
凪の日から会えないでいたが、時任の時と同じように閉ざされた鏡の中に居た。
ちゃんと消えないで、そこに居てくれた。
自分が体験したことでも、久保田も同じとは限らない。そんな可能性を心のどこかで希望に変えながら、橘の口から変わらない現実を聞かされ安心して…、
自分の中の矛盾した思いに、見えない希望に叫び出したくなる。
けれど、時任は軽く頭を振り、一度、深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから尋ねた。巻き込みたくなくて、見せたくなくて目を右手で塞ぎながらも、どうしても聞きたくて尋ねずにはいられなかった…。
「こんな風に押さえつけて聞ける立場じゃねぇのはわかってっけど、頼むから教えくれ…。鏡の中の俺は、元気…そうだったか? 鏡の中で苦しそうだったり、辛そうだったりしてなかったか?」
それは、とても奇妙な質問だった。
たとえ、普通とは違う映り方をしていたとしても、鏡の中の自分を心配するなんて、どうかしている。何も事情を知らない人間が聞けば、どこか頭がおかしいのかと眉をひそめるに違いない。
それでなくとも見られたくないと目を覆ったり、床に押さえつけたり不審な行動を取ったのだから、怖がって嫌がって答えてくれないかもしれない。もしかしたら、ここから…、時任から逃げ出したいとさえ思っているかもしれなかった。
けれど、橘が久保田を見る事が出来るとわかった今は、その方が好都合なのかもしれない。ここから逃げ出してくれれば、二度と部屋に入れなければ良いし、鏡のことを聞かれても錯覚と答えるだけだ。
それでも納得しないなら、会わないようにバイトを変えるしかない。
もしかしたら、引っ越しもしなければならないかもしれないと思いながら、雨さえ降らなければ、部屋にさえ連れて来なければ…と後悔せずにはいられないけれど、無関係な橘に鏡のことを知られる訳にはいかなかった。
鏡の事を知れば、必然的に選択をしなくてはならなくなる。
凪の日に手を取るか取らないか、助けるか助けないか…。
そして、そのどちらを選択したとしても、たとえ凪の事を知らなくても関われば苦しむことになる。きっと、忘れられない記憶になる。
橘だけではなく、他の誰にも、そんな選択はさせたくなかった。
もう誰も…、苦しませたくはなかった。
けれど、抵抗もせずに床に押さえつけられたまま、静かに橘が鏡の中の久保田の様子を告げた時…、瞳から零れ落ちた涙がぽつりぽつりと橘の頬を濡らし…。泣くつもりなんて少しもなかったのに、今も降り続く雨のように涙は止まなかった。
「僕が鏡を見た時、貴方の方も、こちらをじっと見ていました。ですが、すぐに興味をなくしたように、視線は逸らされて…。けれど、苦しそうな様子もなく、元気そうでしたよ」
「・・・・そっか」
「えぇ、どこかの古いアパートの部屋のような場所で、畳に置かれたオレンジ色のマグカップを見つめながら、貴方はとても穏やかに微笑んでいました。すぐに目隠しされてしまったので、少ししか見えませんでしたが…」
「・・・・・・・・」
「とても幸せそうに・・・・・」
橘の見たマグカップは、この部屋にもある。
夕焼け色で、久保田のものと自分のものと二つ。
そのマグカップにコーヒーを入れるのが、今も時任の日課だった。
「そんなはずない…。きっと、見間違いだ…」
鏡の中で一人きりで幸せそうに微笑むなんて、そんなのは見間違いに決まっている…、嘘だ。そう思うのに胸が熱くて痛くてしめつけられて…、会いたくて…、ただ会いたくて…、久保田のことだけでいっぱいになってしまった心が壊れしまいそうだった。
離れれば離れるほど、愛している。
遠くなれば遠くなるほど…、恋しくなる。
そう橘が思い知ったように、時任も会えない時間が増えれば増えるほど会いたくなって、二人で過ごした温かな日々が恋しくてたまらなくて…。鏡の中、一人でも二人の思い出を胸に抱きしめていられるなら、きっと笑顔でいられると思っていた日々が、とても遠く感じられた。
鏡の中でも外でも、久保田のいない世界はとてもさみしい。
どんなに人がたくさんいても、友達と呼べる人がいても…、
それでも、とてもさみしくて…、さみしくて…、
見上げる空が晴れ渡り青くても、心の中では止まない雨が降り続いていた。
「・・・・・・くぼちゃん」
思わず呟いてしまったのは、いつもの呼び名。
すると、久保田と呼んだ訳ではないのに橘は何かに気づいたのか、そう言えば貴方は鏡が苦手でしたね…と言った。
「自分の目で見た今もにわかには信じがたいですが、鏡の中に映っていたのは、やはり貴方ではない別の人間…。そして、慌てた貴方の様子からイタズラではない、何の仕掛けも無いことがわかります」
「・・・あんなのが現実であるはずがねぇし、錯覚に決まってるだろ」
「今更、そんな事を言っても無駄です。貴方が何を言おうとも、僕は自分の目で見たものを信じます」
「橘には関係ない、忘れろ。そうしたら、解放してやる」
「解放? このまま、何も聞かないまま帰れということですか?」
「その方が、アンタのためだ…。後悔したくないなら、このまま帰れ」
そう言いながら、時任の心の中で、胸の奥で感情が想いが複雑に絡み合う。
けれど、鏡の苦しみと哀しみの連鎖を止める…、その決意は変わらない。
何があっても、絶対に変わらない。
頬に涙が伝い落ちても、どんなに久保田を想っていても、他の誰かを犠牲にするなんて許される行為じゃない。どんな理由があっても、許してはならない。
ゴメン、くぼちゃん…、ゴメンな…。
心の中でどんなに詫びても、久保田には聞こえない。
声に出して叫んでみても、その声が届くことは無い…、もしかしたら永遠に。
しかし、やっと小さくなってきた雨音を聞きながら、時任が本格的に部屋から追い出すために動き出そうとする前に、橘は素早い動きで自分を押さえつけていた手を払いのける。そして、その手で時任の足を掴むと持ち上げ、バランスを崩した隙をついて体制を逆転した。
橘のあまりにも急で素早い動きに、時任は抵抗も忘れて呆然と上から自分の顔を覗き込んでくる橘を見上げる。すると、橘は伸ばした右手で時任の両手を頭の上で押さえつけながら、右手で頬をすべり伝う涙を拭った。
「この涙は…、鏡の中の彼のために貴方が流した涙なのでしょう? 聞いたことはありませんでしたが、前から思っていました。貴方にも僕と同じように想う人がいるのではないかと…、寂しそうな貴方の横顔を見るたびに、そう感じていました」
「・・・・・・・」
「僕も、貴方と同じです…」
「橘と俺が…、おなじ?」
「泣いている貴方を放っておけない僕と、僕を放っておけなくて、ここに連れてきてしまった貴方と…。ですから、今、僕が後悔する事があるとしたら、何も聞かないままに貴方から離れてしまった時…。その時の事を、きっと僕は一生後悔することになるでしょう」
「・・・そんな後悔なんか、するな」
「するなと言われてもしますよ、必ず…。僕と貴方は友達ですから…」
「・・・・・・・・・」
「貴方なら言ってくれるだろうと、貴方なら殴ってくれるだろうと…、そう信じて甘えてしまうくらいに、僕にとって貴方は大切な存在です。あの人の事は誰よりも大切ですが、貴方の事も大切なんです…。だから、聞かせてくれませんか?貴方のためではなく僕のために…」
・・・・・・・後悔したくない僕のために、涙の訳を。
そう言った橘の表情も瞳も、怖いくらい真剣で真っ直ぐで…。時任はそんな自分を心から心配してくれている想いから、後悔したくないという気持ちから逃げられなかった。
このまま逃げてしまえば、追い出してしまえばと思っていても、見つめてくる瞳の哀しい色に捕まって動けなくなる。二人でいても寂しくて、けれど…、二人でいると寂しさを哀しみを抱えていても膝をつかずに立っていられた。
それは紛れもない事実で…、時任にとっても友達で大切だったから…、
橘の気持ちも痛いくらいにわかる、感じられる。
このまま離れても、橘は追ってくるだろう。
大切な友達だから…、そう思ってくれているから…。
「出会わなければ良かったなんて、思わないでいてくださいね。大切な人にそう思われてしまったら…、もう世も末もなく泣くしかありませんから…」
誰も苦しませたくない、哀しませたくない。けれど、そう言われ時任は唇を噛みしめて、押さえつけられたままの両手の拳を強く強く握りしめた。
「・・・・わかった」
「ありがとうござ・・・」
「ただし、何があっても絶対に、二度とあの鏡を見ないと約束しろ。そうしたら、何もかも隠さず話す。約束しないなら・・・、これでサヨナラだ」
「・・・・・・・・」
橘の真剣な瞳を同じくらい…、それ以上に真剣に見つめ返す。すると、橘は少し考えるように瞳を閉じた後、両手を押さえつけていた手を放して立ち上がり、時任を解放した。
「・・・二度と見ないと約束はできません」
「ならっ」
「ですが、貴方の許可なく、鏡は見ないと誓います。その誓いは必ず守ります…、それではいけませんか?」
二度と見ないとは誓えないが、時任の許可なく見たりしない。
そんな橘の誓いを聞いた時任は小さくうなづき、目を閉じているように言うと鏡を移動し、ベッドから剥いできたシーツを被せた。
「信用してねぇワケじゃねぇけど、何かの拍子ってコトもあるからさ…」
「話して、くださるんですね?」
「・・・たぶん、長い話になるけど」
「構いません…。まだまだ、雨は止みそうにもありませんから…」
小さくなったと思った雨音は、二人で話している間に、また大きくなる。
激しく降り続く雨に、見つめる橘の真っ直ぐな瞳に背中を押されるようにして、時任は重い口を開き話し出した。
鏡のことを久保田のことを…、自分自身のことを…。
・・・・・・・・・・そして、その想いを。
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