グリーンレクイエム 22








 激しい水音が、時任の耳を打つ。
 けれど、その水音はにわか雨ではなく、シャワーの音。
 結局、にわか雨はマンションにたどり着く前に激しく降り出し、時任も橘もずぶ濡れになってしまった。先にシャワーを浴びた橘は、今、リビングに居る。
 一見、いつもと変わらないように見えるが、やはりいつもとどこか違っていた。
 バスルームから戻ってきた橘に適当に座るように声をかけても、返事が返ってくるまで少し間があって…。冷蔵庫から出したペットボトルを手に、どうかしたのかと声をかけようとして橘を見ると、ぼんやりと立ったまま床を見つめていた。
 その顔には、いつもの微笑みどころか何の表情も浮かんではいなかった。

 「大丈夫…、なはずねぇよな…」

 もう一度、声をかけると顔に微笑みは戻ったが、あきらかに無理をしている。浮かべられた微笑みが完全であればあるほど、綺麗であればあるほど、そんな風に見えた。
 でも、その原因がわかっていても何も言えない。
 本当はあんな奴なんか忘れろと言ってしまいたかったけれど、自分の腕を引きながら、歩き続けた橘の背中を思うと言えなかった。

 そして・・・、たぶん隆久という男にも本当は・・・。

 シャワーに打たれながら、時任は目の前の壁に両手をつく…、
 そして、水が排水溝に流れ込んでいくのを見つめながら、いずれ別れが来ることを知りながら、久保田と話したり笑い合ったりしていた自分自身のことを思い唇を噛みしめる。いずれ別れが来ることを知りながら橘と付き合った男と同じように、時任もやがては凪が来ることを別れが来ることを知りながら、久保田と話したり笑い合ったりしていた。
 でも、それは凪が来ても手を伸ばさないと、そう決めていたから…。
 こんな事になるとわかっていたらと、たとえ鏡に映ったとしても目を背け続けていたらと、そう思っても過ぎてしまった時間は戻らない。
 でも…と拳を握りしめ、絶対にあきらめるもんかと壁を殴り…、
 けれど、誰か見える人間を見つけて凪を待つ以外、何も方法が見つからない。それどころか、どうやって探せば良いのかすらわからない。
 考えても考えても…、思い悩んでも状況は変わらない。
 夢ですら会うことが叶わなくて、過去がまとわり付き続ける身体ばかりが淫らに熱くて…。生理的に吐き出す欲望に、罪悪感と吐き気を覚えた。

 「・・・俺は後悔しない。後悔なんか、何一つするつもりはなかったんだ」

 けれど…と、先に続く言葉は、喉に詰まって苦しくて出ない。ゆっくりと倒れ込むように浴室のタイルの上に膝をついた時任は、温かいシャワーに打たれながら、冷たい雨にでも打たれているかのように唇を震わせた。
 すると、いつから居たのかバスルームのドアの向こうから、聞きなれた声が心配そうに自分の名を呼ぶのが聞こえて、それに気づいた時任はハッとして俯いていた顔を上げる。どうやら、いつまでもバスルームから出てこない時任を心配して、橘がリビングから見に来てくれたらしかった。

 「大丈夫ですか? 久保田君?」

 ドアの向こうから響いてくる声に、時任は大丈夫と返事をしながら慌てて立ち上がる。そして、橘に心配ないからリビングに戻るように言うと、罪悪感も後悔も苦しさも、何もかもを振り払うように軽く頭を振った。
 しっかりしろ…、こんな時に心配かけて何やってんだよっ。
 橘を一人にしておけなくて心配でマンションに連れて帰ってきたのに、逆に心配をかけてしまっている。そんな自分を叱咤するように、時任は両手で自分の頬をバシンと勢い良く叩いた。
 
 「久保ちゃんの顔で…さ、いつまでも情けないツラなんかしてられないよな」

 そう呟いた時任は、ようやくシャワーを止めてバスルームから出る。けれど、出た先に置かれている洗面台の上に置いていた眼鏡をかけながら、いつものように鏡からは意識的に視線をそらした。









 降り出した雨はにわか雨だから、すぐに止む。
 そんな予想は見事に外れて、今も雨は激しい音を立てて降り続いていた。
 バスルームから出た時任はリビングに戻ったが、橘は座ったまま相変わらず床を見つめている。渡したペットボトルも、蓋を開けて飲んだ様子はなかった。
 さっきの男のことを考えているのか、想っているのか…、
 話しかければ、また無理をして微笑むだろう橘の横顔を時任は見つめる。
 そうしながら、俯く橘に何を言えば、どうすればと考えかけて…、やめた。
 でも、それは何も言えないからじゃない、どうすれば良いかわからないからじゃない。久保田との間にある鏡は、橘との間には存在しないからだ。
 鏡が無いのなら、手を伸ばせば届くのなら出来ることはある。
 時任は驚かせないようにゆっくりと近づき、右手を伸ばすと俯く橘の頭に触れた。
 それから、ゆっくり、ゆっくりと頭を髪を何度も撫でる。すると、なぜか昔、一度だけ自分の頭を優しく撫でた女の手を思い出したけれど…、
 何かを想い考える間もなく、伸びてきた橘の腕に身体を引き寄せられ抱きしめられた。
 
 「・・・ダメ、ですね。わかっていたはずだったのに、こうして自分の目で見てしまうと苦しくて、苦しくてたまらないんです。嫌いになったと別れたのにバカですね…、僕は…」

 時任がいきなり抱きしめられて驚いて動けないでいると、橘がかすれた声でそう囁く。両腕を時任の背中に回し、額を胸に押し付けている状態では橘の表情は見えなかったが、小さく震える肩が哀しかった。
 泣いて・・・、いるのかもしれない。
 そう思うと自然に腕が動いて、自分を抱きしめる橘の頭を包み込むように抱きしめた。泣かないで欲しかったから、哀しまないで欲しかったから抱きしめた。
 けれど、橘を抱きしめて気づいたのは、自分自身の寂しさ。
 橘を抱きしめていればいるほど、久保田に会えない寂しさと恋しさが募って…、その感情に表情が哀しみに歪んでいく。震えているのは、橘の肩だけではなかった。
 違う・・・、けれど、どこか似た哀しみが二人を包み込んで…、
 気づけば、何かに耐えるようにぎゅっと瞼を閉じていた時任の唇に、橘の柔らかな唇が触れていた。

 「・・・・・今、何を?」

 触れた感触に気づき、ハッとして目を開くと、驚くほど近い位置にある橘の顔が見える。その目に涙はなかったが、揺れる瞳には哀しい色が滲んでいた。
 でも、その寂しさと哀しみに流されて、こんな真似をして良いはずがない。
 橘のことは好きだが、こういう意味での好きじゃない。
 それは時任だけではなく、橘も同じだ。
 なのに、それがわかっていながら、橘の唇は時任の頬へ首筋へと場所を変えて、抱きしめていたはずの手も明確な意図を持って動き始める。まるで、あの夢の中の男のように触れてくる橘の頬を、時任は反射的に殴りつけていた。

 「・・・・・こんなコトして何になんだよっ。何回キスしたって橘が好きなのは俺じゃないっ、俺が好きなのも橘じゃないっっ!」

 殴られて赤くなった橘の頬を睨みながら、そう叫ぶ。
 そして、橘が触れた唇を、泣きたい気持ちで右手の甲で拭った。
 キスをされたのは自分だった。
 でも、キスした唇は、久保田の唇だった。
 嫌だっ、嫌だっ、嫌だっっ!
 戸惑いと嫉妬と複雑な気持ちが心の中で入り混じって、再び自分に向かって伸ばされた橘の手を唇を拭った手で叩き落とす。すると、橘は何も言わず座っていた床から立ち上がり、それに気づいた時任は、今度は殴るのではなく、行くなというように腕を掴んだ。
 「今の僕は何をするかわかりません…、ですから、離してください」
 「・・・嫌だ。どうせココを出たって、他の相手を探すだけなんだろ? 好きでもなんでもないヤツと寝て、自分を傷つけて何になんだよっ」
 「それでも、貴方を傷つけるよりマシです」
 「橘っ!」
 「お願いですから、離してください。このままだと本当に僕は、自分の欲望と感情を抑えきれずに貴方を傷つけてしまうっ。今にも気が狂いそうなんですよ…、あの人が僕以外の人間と、彼女とキスしたり寝たりしているかと思うとたまらなくなる…っ」
 「・・・・・・」
 「もしも、あの人の子供を彼女が孕んだりしたら、僕はきっと正気ではいられない…。別れた今になって、こんなにも狂おしいなんて…、あの人を愛しているなんて…」

 愛していた…、でも今はもっと愛している。

 離れれば離れるほど、愛している。
 遠くなれば遠くなるほど…、恋しくなる。
 でも、それでも涙を見せずに愚かだと微笑んだ橘は、きっと掴んでいる腕を離せば居なくなる。けれど、引き止めれば、また橘を殴らなくてはならなくなる。
 瞬間的にそう思ったが、時任は迷わず腕を掴んだ手に少し力を込めた。
 「この手は離さないし、何度でも殴ってやるよ…、友達だからな」
 「後悔しますよ、僕は本気です」
 「なら、手加減はいらないってコトだな」
 「えぇ、本気で抵抗してください。そうしなければ、本気の僕に犯されてしまいますよ…」
 そう言った橘は時任の肩を強く押し、その衝撃でバランスを崩した時任を床に倒して上から抑え込む。予想外の橘の素早い動きに、時任はしまったと軽く舌打ちした。
 けれど、それでも橘を殴らなかったのは…、二度目が無かったのは…、
 自分の上にのしかかった橘の視線が、自分の方を見ていなかったから…。
 そして、その視線の先にあるものが何なのか、時任には見なくてもわかる。
 だから、橘の目が驚きに見開かれているのを見た瞬間、時任は殴らず伸ばした両手で橘の両目を覆いながら叫んだ。


 「見るなーーーっっ!!!」


                                                                           2011.8.13
                                                         
                                                                                           次 へ
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