橘が歩き、その橘に腕を引かれながら時任も歩く。
そんな二人の姿は、道行く人々の目には奇妙に映るのだろう。通りすがりにチラリと視線を向けてくる人間は、一人や二人ではなかった。
けれど、時任は橘の手を振り払わない。それは人々の視線より、普通ではない橘の様子が気がかりだからだ。
あれから、橘は一言も口を聞いていない。
だから、どこに向かっているのかもわからない。
しかし、前を歩く橘の背中を見ていると、三日月を見上げながら言った橘の言葉を思い出し…、時任は再び開きかけていた口を閉じた。
『どこにいても何をしていても…、ただ思い知るだけなんです…。誰よりも、あの人が好きだと…、愛しているんだと、ただ、ひたすらに思い知るだけなんです』
あんな姿を見ても、それでも、ただ思い知るだけなら…、
好きだと愛しているんだと、ひたすらに思い知るだけだとしたら…、
・・・・・それはあまりにも哀しい。
泣き言も恨み言も何も言わず歩き続ける橘は、決して振り返らないけれど、もしかしたら今も心はあの場所に…、隆久という男の傍にいるのかもしれなかった。
時任の心が今も、ずっと片時も離れずに久保田の傍にあるように…。
どこにいても離れていても、傍にいて寄り添っている。
たとえ、その手が他の誰かを抱こうとも…、
心だけはいつも…、いつまでも…。
やがて、どれくらい歩き続けただろう。
長いようで短い、短いようで長い道行を振り返ることなく歩き、あの三日月の日のように空を見上げ立ち止まった橘は、ようやく、時任の腕から手を離した。
「いつの間にか曇ってしまいましたね…。あんなに晴れていたのに、にわか雨でも降りそうです」
「・・・橘」
「すいません、こんな所まで付き合って頂いてしまって…。お詫びに家まで送ります」
「あぁ、うん…、ココがどこかいまいちわかんねぇし、それはちょっち頼みたいけどさ。・・・大丈夫なのか?」
「大丈夫です、大丈夫ですよ…、心配はいりません…。だから、今日のことは、どうか忘れてください」
「・・・・」
・・・・・忘れてください。
橘の口から、その言葉を聞くのは二度目だった。
自分は何一つ忘れられないクセして、何一つ忘れないクセして自分の事は忘れろと言う。さっきの事は何一つ話さずにいつものように微笑んで、さぁ、雨の降りださない内にと歩き出す橘の横に並んで歩きながら、時任は何度も何度も読み返した久保田の手紙を思い出していた。
・・・・・・大丈夫。
俺が居なくても、お前は一人じゃない。
お前はこれから、たくさんの人と出会って、友達や恋人も出来て…、
そうして、結婚して子供が出来て、きっと幸せになる。
そうなるって俺が保証するから、心配しないで、振り返らずに歩いて行って。
たとえ傍にいられなくても…、俺はいつでもお前の幸せを祈ってるから…。
何事もなかったかのように微笑む橘の横顔に、なぜかそんな手紙を時任に残した久保田の横顔が重なる。
久保田の手紙にはさよならと、別れの言葉は書かれていない。
けれど、その内容は時任に別れを告げるものだった。
今のマンションへの引っ越しと、捨てられるはずだった久保田の物も、思い出すら残さず鏡の中に消えてしまおうとしているようで…、
忘れて欲しいと言われているようで、苦しく哀しく胸が締めつけられる。
そうして、橘と久保田を重ね合わせて見つめながら、雨が降り出しそうな空の下を歩き続けている内に、気づけばマンションの近くまで来ていた。
「ここまで来れば、道はわかりますか?」
そんな橘の言葉に、時任はわかるとうなづく。
けれど、その瞬間に空から落ちてきた大きな雨粒が頬をかすめて落ちて、黒いアスファルトの上に染みを作った。このままだと、すぐに大降りになる。
なのに、橘はまたバイトで…と微笑みを深くし、時任に背を向けた。
あんな事があったのに、橘はいつものように微笑んでいる。
様子がおかしかったのは、腕を引かれて歩いていた間だけだった。
大丈夫です、大丈夫ですよ…、心配はいりません…。
橘はそう言ったけれど、去っていく橘の背中はとても寂しい。
降り始めた雨粒が、橘の寂しい背中を肩を濡らしていくのは哀しい。
マンションではなく、橘に向かって走り出した時任は、さっき橘がそうしたように手を伸ばし、橘の腕を掴むと早足で歩き出した。
「久保田くん?」
「走るぞっ、すぐに大降りになりそーだし。どうせ雨宿りすんなら、ココまで来たんだし俺んちでいいだろ?」
そう言いながらも、少し迷う気持ちはあった。
あのマンションの部屋に、事情を知っている鵠以外の人間を入れるのを…。
でも、橘は初めてできた友達で、いつも時任の心配をしてくれている。
そんな友達を、こんな哀しい雨の中に置いては帰れなかった。
|
|
|
|