グリーンレクイエム 20








 「いらっしゃい…と、おや、外にいらっしゃるのは、時任君のお知り合いですか?」


 下手ではないが、少し特徴のある右上がりの店名が書かれたガラスのドア。
 そのドアを開けて時任が店内に入ると、珍しく店主である鵠が店内に居て、新しく仕入れてきたらしい商品を並べていた。相変わらず、その並べ方にはまとまりも規則性も無いが、時任は灰皿のカエルを見て変な顔と思う事ことはあっても、特に並べ方について感想を持ったことはない。ある雨の日に…、この店に雨宿りに来た人物と違って…。
 久保田の姿した時任を見る鵠の目は、いつも穏やかで優しい。
 しかし、時折、その瞳に複雑な感情が浮かぶのを時任は知っていた。
 そんな時の鵠の瞳は、時任を見つめながらも、どこか遠い。
 自分の祖父の体の持ち主であった時任。
 そして、その時任と久保田と合わせてしまった責任…。
 どちらも、直接、鵠には関係の無いことだ。
 しかし、そんな鵠に頼らずに生活することは、今の時任には無理だった。
 だから、せめてと今月も差し出した封筒を、鵠はドアの外に立つ人物について問いかけながら、いつものように受け取る。時任は鵠が封筒を受け取るのを確認した後、バイト先の友達だと答えた。
 「橘って言ってさ、同じコンビニでバイトしてるんだ。今日はバイトは無いんだけど、一緒にメシでも食おうかって…」
 「でしたら、中に入ってきて頂いたらどうです? お茶を出しますよ」
 「いや、すぐに行くから」
 「そうですか、それは残念です。今日は新しい商品を仕入れたので、良いカモになるかと思ったのですが…」
 「…って、そんな理由で引き止めんなよっ!」
 本気なのか冗談なのか、橘をカモにしようとした鵠は残念そうに軽く肩をすくめながら、それでも微笑みながら時任を見送る。そんな鵠に、また来ると言って外に出た時任は、待っていた橘に軽く手をあげて歩み寄り、二人並んで歩き出した。

 「・・・すべては貴方が望んでいた通り、ですか? 久保田君」

 東湖畔のドア越しに、その様子を見ていた鵠は深く長い息を吐いた後で、そうぽつりと呟く。そんな鵠の脳裏には、最後に見た久保田の穏やかな微笑みが浮かんでいたが、それを時任が見ることは叶わない。
 鏡に映る顔を見ることは出来ても、それは久保田ではなく…、自分自身でしかなかった。そのせいか、いつしか時任は鏡やガラスに映る自分の姿から、目を逸らし避けるようになっていた。
 「また、髪が跳ねてますよ?」
 「あぁ、悪りぃ。ちゃんと毎朝、髪といてるんだけどさ」
 時任の寝癖は、いつの間にか横から伸びてきた橘の手が直す習慣になっている。しかし、鏡が苦手だとは話していても、その理由までは話さなかった。
 未だ逃れられない、あの夢も自分の過去も…、
 それから、久保田のことも何も橘には話してはいない。
 友達と思っている今も話せなかった…、何も。
 けれど、橘は何も言わなくても良いと、話したくなった時に聞かせてくれれば良いと微笑んでくれた。そんな橘との時間は、マンションの部屋に居る時と違って穏やかでいられる。
 でも、それでも鏡の中の久保田のことを、片時も忘れたことはなかった。
 空を見ても風に吹かれても、橘の微笑みに笑い返しても…、
 心の中には、いつも久保田がいた。

 「どうかしましたか? もしかして、どこか具合でも?」

 ふと、気づくと並んで歩いていたはずが、立ち止まってしまっている。橘に声をかけられて初めて、それに気づいた時任は違うと首を横に振った。
 「立ち止まったのは、ちょっち空がキレイだなぁってさ。ただ…、そんだけ」
 「確かに、そう言われればそうですね。今日の空は、とても青い…」
 「きっと、夕焼けも綺麗だろうな」
 「えぇ…。きっと、そうでしょうね」
 橘と過ごす時間は穏やかだけれど、寂しい。
 二人で居ても、お互いの心の中には別の誰かが居た。
 もしかしたら、その寂しさが、埋まらない埋められない心の穴が二人を繋いでいるのかもしれない。けれど、似た寂しさと切なさを…、哀しみを心の内に抱えながらも、時任と橘とでは決定的に大きく違う点があった。
 それが二人の目の前に現れたのは、その日の午後…、
 ファミレスで昼食を終えて、ぶらぶらと当てどなく二人で歩いていた時…、
 道を挟んで向こう側を歩く人物を、橘が視界にとらえた瞬間だった。

 「・・・・・・隆久」

 自分達が歩いているのとは違う、反対側の歩道を歩く男。
 道幅がそれほど広くないので、その男の顔立ちや表情まで時任の位置からでも良く見える。男の背は橘より少し低い程度で、顔立ちは可愛い類ではないが、すっきりと見目良く整っていた。
 橘のような美形でもないが、カッコ良いと言われモテる部類の顔だ。
 そんな男を驚いたように見つめながら、橘が小さく名前を呟く。
 しかし、隆久と呼ばれた男は自分を見つめる橘に気づかないまま、隣を歩く華やかな印象の女に優しく微笑みかけながら、何かを話しかけている。すると、それを聞いた女がうれしそうに、印象通りの華やかな美しい笑みを浮かべた。
 並び歩く二人はどこからどう見ても、カップルにしか見えない。
 しかも、ただのカップルではなく、幸せそうなカップルだ。
 それもそのはず、橘から聞いた話の中の男が、今、横を歩いていく男と同一人物だとすれば、おそらく隣を歩く美人は婚約者。橘の好きな人は、会おうと思えば会える場所にいるけれど…、橘ではない人間と並び歩き愛を囁き合う。
 たとえ、それが偽りであったとしても、目の前の現実は残酷だった。
 大切だった、心から愛していたから別れた…、それでも…、
 橘の肩も握りしめた拳も、哀しみに震えていた。

 「僕も…、あまりに空が綺麗だったので、立ち止まってしまいました」

 そんな言葉が橘の口から零れ落ちたのは、かつての恋人が視界から消えた後、肩に伸びかけた時任の手を拒むように微笑む橘の目に涙は無い。けれど、呟いた声に滲む哀しみや切なさは、浮かべられた微笑みにも滲んでいた。
 「・・・橘」
 「さて、立ち止まってばかりもいられないので、行きましょうか…」
 何事も無かったかのように、橘は歩きだし…、
 かつて恋人だった二人は、決して広くは無い道を挟んですれ違っていく。
 けれど、時任はすぐに橘に続いては歩き出さずに、開いていく二人の距離を感じながら、両手の拳を強く固く握りしめた。

 「・・・こんなの、ねぇだろっ」

 すぐに渡ってしまえるようなこんな道で、橘とすれ違った恋人の胸ぐらを掴んでやりたかった。胸ぐらを掴んで、思いっきり殴りつけてやりたかった。
 嫌いになったのなら、大嫌いになったのなら…、キスの一つもしないで酷い言葉の一つも投げつければ良かったんだ。なのに、あんな風にして橘に嘘までつかせて別れて、想いを引きずらせて、自分は呑気に美人の婚約者と笑っている。
 そんな男が許せない。
 けれど、時任がそう思い走り出す前に、先に歩き出していたはずの橘の手が時任の腕を掴み止める。すると、こちらにようやく気づいたのか、橘の恋人だった男が振り返ったが、橘は即座に首を横に振った。
 
 「・・・・行きましょう」
 「って、おい!」
 
 橘はそう言うと時任の腕を掴んだまま、強引に引っ張り歩き出す。
 その行動の素早さと腕を掴んだ手の力の強さに、時任は驚き成す術もなく引きずられ…、けれど、それでもせめて一矢報いようとするかのように男を鋭く睨みつけた。
 しかし、そんな時任の視線は、男には届いていなかったのかもしれない。遠目なので良くはわからないが、男の表情は歪んでいるように見えた。
 男は歪んだ表情で、ただ、ただ振り返らず去っていく、橘の背中を見つめている。そして、そんな男と去っていく橘と時任を、婚約者が交互に見つめていた。
 だが、何も聞かされていないだろうし、気づきもしないだろう。今、自分の婚約者の見つめている相手が、かつての恋人だったなんて…、きっと思いもしない。
 時任は睨みつけていた男よりも、前を歩く橘の方が気になって、視線を背後の二人から、前を歩く橘の背中に戻した。けれど、声をかけても名を呼んでも、橘は黙ったまま時任の腕を引いて歩き続けるだけだった。


                                                                           2011.7.29 
                                                                    
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