「・・・・くん、久保田君、レジお願います」
そんな声に、いつの間にか物思いに沈んでいた時任がハッとして顔をあげると、視界にイライラしながら、清算を待っている客の不機嫌な顔が入る。今はコンビニでバイト中だったが、いつの間にか、ぼんやりと自分の思考の中に意識が沈み込んでしまっていたらしかった。
最近、こんな事が多く、昨日も店長に注意されたばかりで、自分でも気を付けているつもりなのに、どうしても治らない。ふと気づくとぼんやりとしてしまっていて、こんな風に一緒にバイトをしている人に迷惑をかけてしまう。
しっかりしろ…、何やってんだと心の中で呟きながら、すいませんと客にあやまって急いでレジに向かうけれど、気分は上向かず沈んでいくばかりだった。
外での生活は順調なはずだったのに、夢が暗い影を落とし始め…、
リビングに置かれた鏡を見つめるたびに、胸が痛くて苦しくてたまらなくなる。
つらくなりますよ…、そう言った鵠の言葉そのままに、日々が月日が経つにつれて痛みも苦しさも強くなっていく…。
けれど、それでも絶対に鏡を手放すつもりはなかった。
たとえ姿も顔も何も見えなくても、久保田は鏡の中に居る。だから、今も鏡から離れて暮らすなんて、他の誰かの手に渡すなんて考えられなかった。
「最近、ずっとぼんやりしてるみたいですが、大丈夫ですか? 何か悩みごとがあるなら、僕でよければ相談に乗りますよ?」
バイトが終わった後、時任が控室に行くと同じバイトの橘が心配そうに声をかけてくる。橘は時任と同じ時期に入ったバイトで、そのせいか、こうして話をする事も多かった。
時間が合うのかシフトも同じ事が多く、自然と仕事でわからない事があると橘に聞いてしまう。やはり生きてきた時代が違うせいか、時々、ずれた事を言ってしまう所のある時任だが、橘はバカにしたり、からかったりする事もなく、いつも親切に教えてくれた。
未だ友達とは呼べないものの、信用はしている。
でも、それでも鏡のことや夢のことを話すつもりはなかった。
「悩みゴトとかじゃなくってさ、ちょっと寝付けないっていうか寝不足なだけだから、そんな心配いらねぇし、ぜんぜんダイジョウブ。つか、またぼーっとして迷惑かけちまって悪かったな…、マジでごめんな」
ダイジョウブと軽く右手を振りながら、時任は沈んだままの気分も夢の暗い影も感じさせない笑顔を浮かべる。けれど、橘は笑顔で誤魔化されてはくれず、ますます心配そうな顔になり、大丈夫ではなさそうですね…と呟いた。
誰の目から見ても美形と呼べるほど、整った顔立ちをしている橘がそんな顔をすると、そんな気は無くてもほんの少しだけドキッとしてしまう。店の客や同じバイトをしている女の子にやたらと人気なのは、顔立ちが整っているだけではなく、こんな風に微笑みも声も雰囲気もすべてが優しいせいだ。
橘の優しい色の瞳に見つめられると、まるで、何もかも見透かされてしまいそうで怖くなる。時任はそんな橘の視線から逃げるように俯くと、今日は用事があるからと荷物を入れているロッカーに向かった。
「今日はちゃんと寝るし、心配いらねぇよ」
「ですが、寝付けない…のでしょう? それも一日や、そこらじゃない」
「・・・・・」
「それは、やはり何か悩み事があるから…、ではないのですか? だから、眠れなくて顔色も悪いし、今日は特にふらついているようにも見えますし…、心配で…」
「・・・・・・」
「何の力にもなれないかもしれませんが、話を聞くくらいなら僕にも出来ます。聞いた事は誰にも言わないし、忘れて欲しいなら聞いた後で、すぐに忘れると約束しますから…」
・・・誰にも言わないし、忘れる。
その言葉に俯いていた顔をあげると、すぐ近くに橘の真剣な瞳があった。
時任はその瞳を見て、橘の言葉に嘘は無い…と感じた。
それに、鏡の話を信じるか信じないかはわからないが、きっと橘は妄想だ、バカバカしい話だと笑ったりはしない。きっと、今のように真剣に話を聞いてくれるだろう。
連日、あの夢を見ていたせいか、橘の真剣な瞳と向けられた優しさに、ぐらりと心の中で何かが揺れた。近くにある真剣で、優しい瞳を見つめていると目眩がする。
鵠にも話せない…、あの夢…。
あの夢のせいで、毎日、毎日…、久保田を穢して…、
強く大きくなっていく罪悪感と嫌悪感に、胸が押しつぶされてしまいそうだった。
「・・・・・俺は」
じっと見つめてくる橘の瞳を見つめ返して、時任がゆっくりと口を開く。けれど、その瞬間に控室のドアが開き、次のシフトのバイトが一人、中に入ってきた。
それに気づいた時任は、反射的に驚いたようにそちらの方を見る。
すると、二十歳くらいのバイトの男は、きょとんとした顔で時任を見た。
「あの…、どうかしたんですか?」
「い、いや、これから帰るトコだし、ベツに何も…」
「なら、いいんですけど」
男は不審そうな顔で時任と橘を交互に見て、お疲れ様ですと挨拶をしたが、橘はいつもと変わらない調子で、お疲れ様と軽く挨拶を返した後、着ていたエプロンを外す。そして、そんな橘を眺めてから、自分もまだバイト用のエプロンをしたままだった事に気づいた時任は、慌てて外してロッカーを開けた。
そうしながら、小さく息を吐いてしまったのは、疲れからではなく…、ほっとしたから…。橘に何も話すつもりはなかったけれど、あの時、自分でも何を言おうとしたのか、何を口走りかけたのかわからなかった。
・・・きっと、寝不足で疲れてるだけだ。
心の中で何かがぐらりと揺れたのは、きっと疲れているからだと思いながらロッカーを閉じ、また小さく息を吐く。でも、今度のそれはその思いまま疲れを感じさせた。
このままでは、身体を壊してしまうかもしれないという自覚はある。
でも…、あの夢は自分でもどうにも出来ない。
いくら頭の中から追い出しても、昔の事だと思っていても、目を閉じると蔵の中にいて男に組み敷かれている。暴れても叫んでも、過去を再生するように時任を犯した。
「どうすりゃいいってんだよ…、わかんねぇよ…、こんなの」
それじゃ、お先にと声をかけてコンビニを出ると思わず、そんな呟きが時任の口から漏れる。すると、その瞬間に何者かに右肩を叩かれ、時任は驚きのあまり短く叫んで、大きく身体を揺らした。
「すいません。驚かせるつもりではなかったんですが、いくら呼んでも気づかないので…、つい肩を」
「あ、うん…、こっちこそゴメン。ちょっと、またぼーっとしてたみたいでさ」
「だから、途中まで送りますよ」
「え…? いや、けどっ」
「このまま一人で帰してしまったら、僕が心配で眠れなくなりそうなので…。お願いですから、送らせてください」
「・・・・・・・」
橘にそう優しく微笑みながら言われて、そうしたら、また心の中で何かが揺れてしまいそうな気がして…。時任は自分を見つめる瞳から目を逸らし、何も言わずに歩き出す。
すると、何も言わないのを了解と取ったのか、橘も暗い夜道を歩き出した。
時任の影の横に、自分の影を並べながら…。けれど、そうして横に並んで歩きながらも、さっきのように寝つきが悪い原因を聞いたりはしなかった。
でも、しばらくすると空に輝く三日月を見上げながら、橘が再び口を開く。
その瞬間、また寝付けなかったり、ぼんやりしている理由を追及されるのかもしれないと身構えたが、ぽつりぽつりと話し始めたのは時任ではなく、橘自身のことだった。
「実は、僕も眠れないんです…。だから、貴方と同じように、夜間のシフトを増やしたりして…。ですが、いくら忘れようとしても、忘れたフリをしていてもダメなんです。どこにいても何をしていても…、ただ思い知るだけなんです…。誰よりも、あの人が好きだと…、
・・・愛しているんだと、ただ、ひたすらに思い知るだけなんです」
そう告げた橘には、高校生の頃から付き合っていた人がいた。
告白したのは橘からで、一度は無理だ、付き合えないと断られ…、
でも、その理由は他に好きな人がいるとか、その気がないからではない。
自分も男で相手も男で、そんな関係に未来はないから…、
だから、いくら好きでも愛していても、それを認める訳にはいかない。
何度も何度も好きだと告げて抱きしめて…、やっと、そんな告白にも似た言葉を聞いた橘は、未来は無くてもいい…、今だけでもと哀しく揺れる瞳を見つめながらキスをした。
それから、二人は付き合い始め、大学も同じ学校へと進み…、
けれど、やはり別れの時はやってきた。
大きな病院の跡取り息子だった相手が、見合い相手と婚約したのだ。
『俺は、お前のことが嫌いだ…、大嫌いだ…。誰よりも嫌いになったから、別れよう…』
唐突に告げられたそれは、下手な嘘だった。
けれど、それを嘘だと言ってしまえば、相手を追い詰めてしまう。相手の未来を潰してしまう…、それがわかっていたから、橘もそうですね…と返事をした。
誰よりも大切だったから、愛していたから…、
自分のために未来を捨てさせるなんて、そんな事はできなかった。
『僕も貴方のことが嫌いです、大嫌いです…。誰よりも嫌いになったから、別れましょう』
お互いに嫌いだと言った、大嫌いだと言った。
なのに、次の瞬間にはどちらからともなく腕を伸ばし、お互いの身体を引き寄せ抱きしめて…。身体のぬくもりを感触をすべてを刻み込むように、長い長いキスをした。
それは今までで一番苦しく…、わずかに涙の味のする哀しいキスだった。
「なんで、俺にそんな話…」
そこまで話して黙り込んでしまった橘に、時任がそう問いかける。すると、橘は相変わらず視線を空の三日月に向けたまま、なぜでしょうね…と言った。
一瞬、泣いているのかと思ったが、橘の瞳に涙は無い。
でも、月を見上げ続ける橘の横顔は、時任の目には泣いているように見えた。
「すいません。いきなり同性と付き合っていたとか、そんな話を聞かせてしまって」
「いや、ベツに俺は好きだったら、関係無いって思うし…、それに…」
橘の話を聞きながら脳裏に思い浮かべていたのは、橘と恋人ではなく、自分と久保田の姿。微笑む久保田と自分の間には、鏡や同性だという事実や、そんなものがあったのかもしれない。
けれど、それでも久保田の事が大好きだった。
それだけは、何があっても変わらない。それに…に続く言葉は声にならなかったが、伝えたい思いは伝わったらしく、橘は穏やかに柔らかく微笑んだ。
「貴方と僕はどこか似ている、そんな気がしてましたが、きっと本当はそんな理由ではなく…、もしかしたら僕が貴方に話したかっただけなのかもしれません。貴方に話して欲しいと言いながら、実は話したいのは僕の方だった。貴方なら、きっと…、そんな風に言ってくださるのではないかと思っていたから…」
「・・・橘」
「ありがとうございます…。現実は何もかも変わらないとわかってはいるのですが、自分以外の口から聞きたかったんです…、その言葉が…」
「・・・・」
夜の冷たい風が近くの街路樹の葉をざわめかせ、その音に混じって聞こえる穏やかだけれど、哀しく切ない橘の声を聞きながら、時任は空を見上げる。そして、橘の視線の先にある三日月を見つめた。
欠けて細くなった月は綺麗だが、どこか寂しい。やがて、また日々が過ぎて丸くなっていくのだとわかっていても、それでも橘と見上げる月は寂しかった。
「・・・・・忘れてください」
今日の事は忘れてください…、すべて…。
マンションの前で別れ際、橘はいつもの微笑みを浮かべ、そう言って時任に背を向ける。けれど、恋人の話しを聞いた時のように、その言葉を聞いた瞬間、久保田の事が脳裏に浮かんだ。
・・・・・忘れてください。
そう言ったのは橘のはずなのに、なぜか、その言葉は久保田の声になり耳に響く。そして、それは残響となり耳に残り、忘れて欲しい…、もう二度と会えないから、忘れて幸せになって欲しいと、寄せては返す波のように哀しく響いた。
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