鏡の中に居たせいか、気づかぬうちに忘れかけていた。
何をしていてもしなくても、何かが起こっても起こらなくても…、
日々が、月日が流れ過ぎていくことを…。
久保田に会えない時間はとても長くて、けれど、日々が過ぎていくのはとても早く。
気づけば、あっという間に三か月が過ぎていた。
鏡を見つめるばかりで、何も出来ないままに…。
けれど、外での生活の方は順調で、一週間前から近くのコンビニでバイトも始めた。
外で生きていくために、着実に前に向かって足を歩み出している。名前こそ、久保田誠人と名乗っているが、歩んでいるのは間違いなく、時任としての人生。
でも、それは歩んでいく人生の先のどこかで、また会える。きっと、あきらめずに方法を探し続ければ、必ず会えると信じて歩み始めた人生だった。
「必ず方法を見つけるから、そこから出してやるから…、待ってろ、くぼちゃん」
それは、この三か月で何度も口にした言葉だった。
でも、鵠にも手伝ってもらいながら、何か手掛かりにならないかと鏡の持ち主について調べたが、すぐに行き詰まった。東湖畔に置かれる前の鏡の消息は、たった三つしか遡れなかった。
東湖畔に置かれる前は、あの蔵の中に…、
あの蔵に置かれる前の事は、白い表紙の中にその所在が記されている。それは笹川も時任を鏡の外に出せないかと、色々と調べてくれたからに他ならない。
けれど、笹川は結局、鏡を店に置くことにした。そして、見える人間に売り、再び買い取るという決まりを作り、それを孫である鵠に託した。
つまり他に方法が見つからなかった…という事だ。
誰かを犠牲にしなくては、鏡の外には出られない。
誰かを犠誰かを犠牲にすれば…、外に出られる…。
それは駄目だと心の中で繰り返しながらも、その事実は鵠の言った言葉と同じように、ずっと、時任の頭から離れなかった。
『この先、もしも…、貴方が久保田君を忘れてしまっても、久保田君は決して貴方を責めたりはしません。責めるどころか、むしろ彼は貴方に…』
鏡の中に居たからこそ、本当はわかっていた。調べるまでもなく、蔵の小さな窓から見える空を眺めながら、とっくの昔に知っていた。
でも、どこかに希望があると信じなければ、希望を持ち続けなければ、本当に久保田をあの鏡の中に閉じ込めてしまう事になる。あきらめず信じ続ければ奇跡が起こる…、そんな保証はどこにもなくても…、
それでも、鏡の中の久保田に向かって希望の糸を紡ぎ、繋ぎ続けたかった。
そうしなければ、壊れそうだった。
鏡でも久保田でもなく、自分自身が…、
会いたくて、会いたくてたまらなくて、泣き出しそうな心が壊れてしまいそうだった。
何があっても、どんな事があってもあきらめない、信じてる。
でも、そう強く思っていても時が日々が過ぎていくのを感じるたびに、久保田との距離が遠くなっていくようで…、前を向いて上を向いて流さない涙が、哀しみが、徐々に時任の心を侵食していった。
侵食して隙間を作って、その痛みが夢を見せる。
けれど、その夢の中には久保田ではなく、別の男の姿があった。
『・・・お前は俺が買ったんだ。お前は俺のものだ。それを決して忘れるな』
薄暗い蔵の中、まだ幼い時任の身体を這い回る、ざらざらした男の手。
濡らし吸い付き、赤い跡を残していく…、男の舌と唇。
身体の奥に凶器と狂気を突き入れられ、突き上げられ、吐き出される欲望。
暗がりの中で揺らされ、揺れる時任の視界の中に、不自然に男の手によって上げられた自分の白い足と小さな窓が見えた。そして、その窓にはわずかな空と二つの目が、女の顔があって…、じっと男の身体に縫い止められ、揺れ続ける自分を見下ろしている。
これは・・・・・、夢。
揺らされながら喘ぎながら、時任はそれを感じている。
違う、これは今じゃない…。
だから、問いかけた。
男でも女でもなく、自分自身に向かって…。
「はぁ…、あっ、あぁ…っ、やめろっ、なんで、今更こんな夢…っ!」
なぜ今更、なぜこんな夢を見なくてはならないのかと…、
こんな夢ばかりを見続けなければならないのかと…、
そう問いかけながら、何度も何度も会いたい人の名を呼んだ。
「くぼちゃん・・・、くぼちゃん・・・、くぼ・・・、ちゃん・・・っ」
早く覚めてくれ、早く…、早くと同じ夢を見るたびに久保田の名を呼び叫んだ。
けれど、それでも毎晩のように同じ夢を見る。初めはわずかだったが、見るたびに夢は長く長くなり、どんなに覚めろと叫んでも、今ではなかなか目覚める事が出来ない。
バイトの時間数を増やして外に出ている事が増えても、慣れないバイトで疲れていても、それは変わらなかった。まるで、今の生活の方が夢だとでも言うかのように、夢は…、夢の中の男は時任を犯し続けた。
せめて夢の中だけでも、久保田に会えたら…、
声を聞けたら、時任って名前を呼んでくれたら…、
そう思うのに、見る夢はいつも自分を犯す男の夢。
ゆらゆらと揺れる自分の足と、窓と女を眺めるしかない過去の残像。そんな夢の中で必ず時任の耳を打つのは、物心つく前から居た店の前を通りかかった、窓の女とは違う別の女の声だった。
『その子は、うちが生んだ子ですわ』
時任が居た店は、花街の中にある店の一つ。
まだ、歳が片手で足りる頃から、そこで水汲みや掃除や、言いつけられた仕事をして、店の片隅に置いてもらっていた。仕方なく、そこに置かれていた。
店で大人達が小声で話しているのをこぼれ聞いた所によると、時任はこの店の主人と花街で働く娼妓との間に出来た子らしい。女は生まれた子供を連れて責任を取るよう、金を出すよう主人に迫ったが、主人は頑としてそれを認めず…、
その結果、時任は店の前に置き去りにされ、捨てられた。
『ほら、この子のここの所にホクロがあるやろ? アタシとお揃い…、これが親子の証拠』
そう言ってにっこり笑うと、なんぼで買うてくれはります?と女は言った。
そんな店の前での出来事に、店の中の人間が気づいていないはずがない。その証拠に、いつも時任に仕事を言いつけ、怒鳴りつける怖い男の顔が店からのぞいたが、すぐに中に引っ込んだ。
そして、それから後は誰も店から出て来なかった。
それを見ていた時任は、幼いながらも悟った。
・・・もう、ここには居られなくなったんだと。
厄介払いのように、さっきから自分を舐めるように見ている男に売られるんだと悟り、この場から走り逃げ出そうとした。けれど、そんな時任の行動を先読みしていたかのように、女の手が優しく時任の頭に触れ髪を撫でた。
そして、アタシも好きでアンタをここに置いてた訳じゃないんだ、仕方なかったんだよ…と優しく微笑みながら言った。
『アタシ一人じゃ育てられないし、仕方なかったんだよ…、許しておくれ』
その女の言葉が嘘なのか本当なのか…、時任にはわからなかった。
けれど、もしかしたらわからないのではなく、考えたくなかっただけなのかもしれない。名も付けられず置き去りにされたまま、今もあの子とか小僧とか、おいとかお前とか呼ばれる子供の頭を、こんな風に撫でる大人は始めてだった。
だから、小さな手で母親と名乗る女の袖を掴み、時任は聞いた。
『もしも、俺がそいつのトコロに行ったら…、お母さんはうれしいの?』
すると、女は更に優しく微笑み、もっと優しく時任の頭を撫でる。そして、うれしいとお前が行ってくれたら、お母さんもお前も幸せになれるんだよと言った。
そんな女の言葉に、自分の頭を撫でる優しい手に…、時任はうなづくしかなかった。居ないと思っていた母親がちゃんと居た、頭を撫でてくれた、微笑んでくれた、それだけで首を横に振る理由が見つからなかった。
自分が売られるんだと、売られたんだとわかっていても…、
お母さんがうれしいなら、そうしたいと思った。
『お母さんにはちゃんとお金をあげるから、心配しなくて良い。その代わり、お前は私の言うことを何でも聞くんだよ、いいね?』
そう言いながら、時任の肩に触れてくる男の手は優しかった。
けれど、男に触れられると気持ち悪くて、鳥肌が立った。そして、その時感じた気持ち悪さは間違いではなく、自分の家に、その裏手にある蔵に時任を閉じ込めた男は、すぐに本性をあらわし、時任に襲いかかった。
そして、それから痛くて、気持ち良くて…、気持ち悪いことをたくさんした。
あの薄暗い蔵に閉じ込められ、男が自分を犯しに来るのを待つだけの日々は、まるで地獄のようだった。
『あぁ、やはりどんなオンナよりも、お前のカラダが一番気持ち良い…』
ビクリと大きく身体が波打ち、寝ているベッドのシーツを握りしめる。
それから、荒い息を吐きながら、閉じていた目を開いた。
すると、夢から覚めた意識が次第にハッキリとしてきて、ぼんやりと見慣れた天井が見えてくる。また、男の夢を見てしまったせいか、時任の額には汗が滲んでいた。
「・・・・・・気持ち悪い」
目覚めた時任は、ぽつりとそう一言つぶやくとトイレへと駆け込む。
そして、たいして入っていない胃の中のものをすべて吐き出した。
それでも収まらない気持ち悪さに咳き込みながら、あんな気持ち悪い夢なのに、興奮したままの自分の身体に吐き気を覚える。あんな夢を見て…、久保田の身体をこんなにして、まるで久保田を穢してしまったような気分になった。
夢を見るたびに、気持ち悪さと一緒に罪悪感が募っていく。
会えない日々が、夢が…、時任の精神を次第に追い詰めていった。
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