・・・・・・・・東湖畔。
それは鏡が置かれていた場所で、時任と久保田が出会った場所でもある。
けれど、入口のドアのガラスに書かれた右上がりに歪んで見える文字も、規則性なく並べられた店内の商品達を見るのも、時任は初めてだった。
久保田以外にも鏡に映る時任を見る事の出来る人は居たが、その人が時任をハッキリと見る事が出来ないように、時任の方もその人を外をハッキリと見る事が出来ない。だから、久保田が見た瞬間、今までになくハッキリと見えた世界に驚いた。
そして、それと同時に自分を見つめてくる…、黒い瞳にドキドキした…。
とても驚いて…、とてもドキドキして…。
だから、その時は何もかも忘れて、自分に向かって伸ばされる手に向かって、同じように思わず手を伸ばしてしまっていた。自分を見つめる黒縁眼鏡の奥の瞳に吸い込まれるように、そうしてしまっていた。
それが始まりだった…、けれど・・・・。
こんな結果になるなら、久保田を鏡に閉じ込めてしまうくらいならと、薄暗い店内を眺めながら、やはり思わずにはいられない。
あの時、サヨナラと手を振って別れていれば…、
久保田の部屋で再会した時、自分のことを鏡のことを話していれば…、もっと違う結果になっていたかもしれないと。
でも、そんな風に思っても、過ぎてしまった時は戻らない。
鏡の中に捕らわれてしまった久保田を、助ける事は出来ない。
そんな事を考えながら、時任がぼんやりと店内に立っていると、いつの間にか店の奥から出てきていた鵠に、一緒にお茶でもどうですかと声をかけられた。
「一人で大丈夫だと言われて地図を書きましたが、本当に一人で来られましたね。外に出て、まだ少ししか経っていないのに大したものです」
「確かに色々と変わってて驚いたけど、テレビとか見てたし…、くぼちゃんが教えてくれたから、たいがいのコトはわかる」
「・・・・そうですか」
「俺は…、外に出るつもりで教えてもらってたワケじゃなかったけど…」
鏡の外に出てみて、初めてわかった事がある。
時任は何も考えず、ただ興味があって、知りたくて久保田に色々と聞いていた。それに何か聞けば久保田と話している時間も、久保田を見つめていられる時間も増える。
だから、それがうれしくて楽しくて、外の世界の事をたくさん聞いた。
けれど・・・、今になって思えば、時任にそのつもりはなくても、久保田は時任を外に出すつもりで教えていたのだろう。いきなり違う時代にタイムスリップしたような…、そんな場所でも時任が困らずに暮らしていけるように、生活出来るように…。
そう思うと考えると近くの売り物と思われる机の上に置かれた湯呑に伸ばした手が…、喉の奥が震えた。でも、それを鵠に知られたくなくて伸ばしかけた手を引き握りしめ、誤魔化すように視線を窓に向けると、上の方に切り取られたような青空が見える。
その空は、どこか鏡の中でいつも見ていた空と似ていた。
「・・・で、俺をココに呼んだ理由って何なんだ? ただ、お茶を飲みにって、ソレだけじゃねぇんだろ?」
少しだけ空を見つめた後、震えの止まった手で湯呑を取りながら、時任がそう尋ねる。すると、鵠もえぇ…と答えながら、湯呑に手を伸ばした。
「自分の意志で外に出た貴方に、お話したいことがあったんです。ですから、貴方をここへ呼んだのですが…、試すような真似をして、すいませんでしたね」
「・・・いいよ、ベツにそんなの気にしてねぇし」
「そうですか…、それなら良いですが」
そこで一旦、会話が途切れ、時任も鵠も手にした湯呑から茉莉花茶を飲む。
すると、茉莉花茶の温かさが伝わってきて、そんなに力を入れていたつもりはないのに、全身から力が抜けていく感じがして、時任は小さく息を吐いた。
「…で、話しってのは何だよ? ココまで一人で来た俺になら、話あるんだろ?」
「その前に二つほど、お聞きしたいのですが…。あの白い表紙は、もう読んでくださいましたか?」
「アレなら読んだぜ、全部」
「では…、久保田君の手紙は?」
「・・・読んだ」
「なら、貴方のこれからについて…、お話しても大丈夫ですね?」
久保田ではなく…、自分のこれからのこと…。
そう言われた時任の肩が、鏡の中の久保田を想い揺れる。それと同時に、白い表紙の中に書かれていた言葉が脳裏をかすめ…、何かに耐えるように瞳を伏せた。
・・・今の時任と笹川哲二。
その立場は、とても良く似ている。二人とも取り込まれると知りながら鏡に自ら手を伸ばした人に救われ、鏡に外に出る事が出来た。
そして、その事に対して、笹川も時任も苦しい想いを抱いている。
自ら手を伸ばしてくれた…、それでも、犠牲にしてしまった事に変わりない。
その事実は消えないし、忘れられるものではない。
鏡に映るのは自分ではなく、その人の姿なのだから…。
白い表紙の中には、そんな笹川自身の事と鏡の事が書かれていた。
後悔と苦悩と…、そして、それからの人生と…。
けれど、その中で笹川は繰り返し、繰り返し書いていた。
仕事も順調で、好きな人もできて…、結婚して子供も出来て…、
毎日が夢のようで、とても幸せだと…。
時任を犠牲にしてしまった自分が、こんなに幸せで良いのかと幸せになってしまって良いのだろうかと繰り返し、自分自身に向かって問いかけていた。
私はとても幸せだった…、幸せでした。
・・・・ありがとう。
白い表紙の最後のその言葉は、おそらく、時任に向けてのものなのだろう。
その言葉を読んだ時、時任は微笑みながら…、良かったと呟いた。
心から、そう思った。
犠牲だなんて思わなくてもいい、これは自分の望んだ事だと伝える事は叶わなかったけれど…、その最後の言葉に救われた気がした。
自分のした事が幸せに繋がっていたのなら、こんなにうれしい事はない。
でも、そんな笹川の言葉を読むようにと、読んで欲しいと言った鵠の事を考えると心からの微笑みも、すぐに消えてしまった。
「貴方が幸せになる事を、久保田君も望んでいるのだと…。同じ立場だった貴方なら、わかるはずです。そして、それがわかっていてもわからなくても、あの部屋に閉じこもるのではなく、外に出で前に進むしかないのだということも…」
鵠は白い表紙を読むことで、時任に笹川と自分を重ねて見せようとしている。そして、それと同時に久保田と自分を重ねて見させようとしている。
でも…、時任は鵠の言葉に、頑なに首を横に振った。そうだとも違うとも答えずに、哀しい色を湛えた瞳で言葉も無く、ただ首を横に振った。
手紙に幸せになって欲しいと書かれていても、うなづきたくなかった。笹川の言葉に良かった、うれしいと微笑んでいても、それを自分の身に置き換えたくなかった。
けれど、部屋に閉じこもっていても、何も変わらない。
それに、鏡の外で生きるには、しなくてはならない事がたくさんある。
だから・・・、東湖畔に来た。
でも、それは久保田と過ごした日々を忘れるとか、もう会えないとあきらめるとか、そんな気持ちになったからじゃない。絶対に忘れないし、絶対にあきらめないからこそ、外の世界を自分の足で歩いて、踏みしめて生きて行こうと思ったからだった。
「アンタもくぼちゃんも、俺に幸せになれって言う。まるで、俺が今まで不幸だったみたいに勝手に決めつけて、さ。けど、それはカンチガイ…、俺はくぼちゃんに会った日から幸せだった…、くぼちゃんが居てくれたら、それだけで幸せだったんだ…」
首を振った後、しばらくして、時任はそう言いながら揺るがない真っ直ぐな視線を向ける。すると、鵠はわずかに目を見開いた後、視線を手の中の湯呑に落とした。
その振動で湯呑の中の茉莉花茶に、ゆるりと斑紋が広がる。そして、その斑紋を伝えようとするかのような鵠の言葉が、時任の心をわずかに揺らした。
「貴方に外に出て、自分の人生を歩んでいく気持ちがあるなら…。今はまだ…、それで良いのかもしれません。けれど、これだけは忘れず覚えておいてください。この先、もしも…、貴方が久保田君を忘れてしまっても、久保田君は決して貴方を責めたりはしません。責めるどころか、むしろ彼は貴方に…」
「俺はくぼちゃんを、絶対に忘れたりなんかっ!!」
「これは、ただの仮定の話です。ですから、そう怒らずに聞いておいてください」
「忘れるなんて、あり得ねぇからっ、そんなの覚えとく必要なんかない!」
「そうですか・・・、わかりました。必要ないとおっしゃるなら、忘れてくださって結構です。今は話を聞いてくださっただけで十分ですから…」
「・・・・・・」
これだけは忘れず覚えておくよう言ったクセに、絶対に忘れないという時任の言葉に、それ以上は何も言わず、あっさりと鵠は引いた。けれど、むしろ彼は貴方に…と言いかけた言葉の続きが、なぜか胸の奥につっかえたように残って取れない。
言葉の続きを聞いてはいないはずなのに、なぜか…、取れない。
どうしてだろう、なぜだろうと考える時任の耳に、鵠の声が、今の久保田の状況の説明が聞こえてきた。
今の久保田の状況は、つまり久保田の中に居る時任の状況。
時任自身には、鏡の外に知り合いはいなくても、久保田としてなら知り合いはいる。毎日のようにアパートから出かけるのは仕事を、バイトをしていたからだ。
けれど、鵠に言われてみて初めて、外の生活に必要なことはたくさん教わったが、久保田のことについては何一つ聞かされていないことに気づく。どんな仕事をしていたのかも聞いていないし、久保田以外の誰かの名前や話しを聞いたこともなかった。
両親のことも家族のことも、本当に何一つ聞かされていない。
そして、時任からも何も聞いたことがなかった。
自分の事を話したくないから、そういった話題は避けていた。
でも、今まで気づかなかったが、もしかしたら時任だけではなく、久保田もそういった話題を避けていたのかもしれない。お互いに避けていたから、今まで気づかなかった。
けれど、鵠の口から語られた状況は、久保田自身が意図的に作り出した状況は、今までの久保田の過去を…、関わったすべての人々を切り捨てたようなものだった。
「今、久保田君は駅の階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった事になっています。病院から診断書も出ていますが、実際はそのフリをしているだけです」
・・・・・・記憶喪失。
駅で人にぶつかり階段から落ちた久保田は、記憶喪失になったフリをした。
何も言わなくても身元は財布の中のカードで、すぐにつくし、その確認は呼ばれた親族がしてくれる。久保田は何か思い出せないかと尋ねる医者に何もわからない、何も知らないと首を横に振り、それが本当である事を示すように時任の口調や性格を真似て、呼ばれた親族を驚かせたらしかった。
そして、精密検査を終え記憶以外に異常がなく、普通の生活を送る分には支障が無い事を確認した後、久保田は退院を言い渡された。
「そういう訳ですから、姿形は久保田君でも自分を偽らず、時任君は時任君として話し、立ち振る舞ってください。何か聞かれても診断書もありますし、わからないと記憶喪失だと答えれば大丈夫です」
「俺は…っ、俺はこんなコトされたってうれしくなんかないっ」
「・・・そうですね。貴方にとっては、そうかもしれません…ですが、これが状況で変える事の出来ない現実です。お気持ちは察しますが、どうか久保田君の気持ちを無駄にしないであげてください。そして、祖父ではなく、私を恨んで憎んでください。頼まれていた事とはいえ、店に鏡を置いていたのも、久保田君に鏡を買うように勧めたのも私ですから…」
こんな物を書き残し、貴方を苦しめる私をどうか憎んで欲しい。 貴方の手に鏡が渡るように仕組んだ私を、どうか許さないで欲しい。
鵠の言葉に、白い表紙の中に書かれていた文字が重なり…、
けれど、笹川を鵠を恨む気持ちにも、憎む気持ちにもならなかった。
確かにきっかけを作ったのは、この二人なのかもしれない。
けれど、結局、鏡に手を伸ばす事を選んだのは時任であり、久保田だった。
だから、鵠に向かって恨み言でも泣き言でもなく、ありがとう…と言った。
「こんな状況になっちまったのは、俺とくぼちゃんの問題だし…。恨んだり憎んだりするワケねぇだろ。俺をくぼちゃんに会わせてくれたのに…」
「・・・時任君」
「それに、俺、あきらめねぇから…。絶対に何年かかっても何十年かかっても、くぼちゃんを助けてみせる…」
「・・・・・・」
「だって…さ、くぼちゃんに言いたいコトがたくさんあるんだ…、すごくいっぱい…。だから、あきらめるわけにはいかねぇんだよ」
あきらめない…、絶対に…。
改めて決意を込めて、時任が久保田の声でそう言った。すると、鵠は少しの間、何かを思うように瞳を伏せた後、窓の外の切り取られたような空の青を見つめる。
時任もそれにつられるように視線を同じ方向に向けたが、ここは外で空はどこまでも続いているはずなのに切り取らせているせいか、やはりどこか蔵の中から見上げていた空に似ていた。
どうにもならない、変わらない現実を見つめ続けるように…、眺め続けた空に。
眼鏡越しに見る切り取られた空の青は、まるで鏡の中でも外でも変わらない、変えられない現実を映し出しているかのようだった。
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