グリーンレクイエム 16







 ・・・・・・もしも。

 もしも、あの日、くぼちゃんと会わなかったら、こんなコトにはならなかった。
 あの時、くぼちゃんが鏡を見なければ…、今も俺はくぼちゃんを知らないで、くぼちゃんは俺を知らないでいられた。
 けど、くぼちゃんの声も笑顔も優しいトコも、夕焼け色のマグカップもカフェオレも知らない明日があるなんて、俺には想像できなかった。
 想像しただけで胸が痛くて…、どうしてもできなくて…、
 そんな明日があるなんて、その方が良かったなんて思いたくなかった。
 出会ったコトを後悔なんてしたくないのに、何も映らない鏡が…、哀しさが切なさが俺の胸を刺して、止まらない涙が頬を伝い落ちた。
 
 俺らは出会わない方が良かったのか…、くぼちゃん…。

 くぼちゃんと会えて、一緒にいられてうれしかった。
 毎日が楽しかった…、すごく幸せだった。
 だから、思ってたんだ。
 この思い出があったら、こんな思い出があるなら、さみしくない。
 きっと、思い出すたびに会いたくなっちまうんだろうけど、それでもさみしくない。だって、くぼちゃんの笑顔も声も何もかも、一個も忘れずに覚えてる。
 鏡の中にいたとしても、前とは違う。
 抱きしめられるモノが、抱きしめたいモノがある。
 それがどんなにうれしくて幸せなのか、俺はくぼちゃんに伝えたかった。
 たとえ鏡に阻まれていても、どんなにくぼちゃんが好きなのかって・・・・、
 
 ・・・・・・どうしても伝えたかった。



 窓から見える空が、とても青い。
 けれど、それを眺めている場所は、古いアパートの部屋ではなく、比較的新しいマンション。そこにはアパートには無い、広いベランダが付いていた。
 そのベランダの手すりに寄りかかるようにして、空を見上げているのは久保田誠人…だが、それは外見の話しで中身は違う。あの日、あの凪が訪れた日に、久保田の精神は鏡の中に、そして鏡の中にあった時任の精神は鏡の外に、鏡越しに合わされた手を通じて入れ替わった。
 だから、今、ここに居るのは久保田の姿をした時任…ということになる。
 マンションのリビングに置かれた鏡は、いくら時任が見つめても未だ何も映らないままで、あれきり中に居るはずの久保田を見ることは出来なかった。
 見ることも話すことも、何も出来ない。
 言いたいことも聞きたいことも、伝えたいことも山ほどあるのに…、
 鏡は外に出たら用済みとばかりに、何も映そうとはしなかった。
 
 「今日も空が青くて綺麗だぞ・・・、くぼちゃん」

 朝、起きたら、キッチンで夕焼け色のマグカップにコーヒーを入れて、おはようと言いながら鏡の前に置く。そして、テレビを点けて天気予報を横目に眺めながら、窓を開けてベランダに出て、自分用に入れたカフェオレを飲む…。
 それが、このマンションに来てからの、毎日の時任の習慣だった。
 鏡の外に出てから、もう…、二週間が経とうとしている。
 けれど、自ら望んで、ここに来た訳ではない。アパートからマンションへの引っ越しを込めた決めたのは、時任ではなく久保田だった。
 あの日、何も映らなくなった鏡の前で、動揺して混乱して、狂ったように久保田を呼び続けていた時任の前に髪の長い男が現れ…、そう告げられた。
 久保田からの定期的な連絡が途絶えたら、アパートに来て欲しいと…、
 そして、そこに居る久保田の姿をした時任を、そこから連れ出して欲しいと頼まれたと、久保田からの手紙を手渡しながら、男は…、鵠と名乗った男は言った。
 
 「手紙は確かに俺の名前書いてあって、くぼちゃんの字だけど、そう簡単にハイって言えるワケねぇだろ。鏡の話しとか見えないヤツが聞いても、そう簡単に信じられるコトじゃねぇってのは俺にもわかる…。それにくぼちゃんに頼まれたんだとしても、これはアンタには関係ないコトだろっ」
 
 鵠の手には、久保田に渡されたというアパートの合鍵がある。
 でも、それでも信じる気にはならなくて、この久保田との思い出が詰まった部屋から出たくなくて、何を考えているのかわからない鵠の黒い瞳を睨み付けた。
 けれど、鵠の口から、ある名前を聞いた瞬間…、信じざるを得なくなった。
 「実は久保田君を抜きにしても、私と貴方は無関係ではありません。私の祖父の名は、笹川哲二と言います…と言っても、その名を知ったのはごく最近ですが…」
 「・・・・っ!」
 「やはり、何も覚えていないというのはウソだったのですね。久保田君には知らないと言っていたようですが、貴方は本当は鏡から出る方法を知っていた」
 「お、俺は・・・・」
 「そう、私の祖父と入れ替わり、鏡に捕らわれた貴方なら知らないはずがない。だから、鏡に触れた久保田君の手に、決して自分の手を伸ばそうとはしなかった」
 「・・・・・・」

 ・・・・ささがわ、てつじ。

 その名前を、時任は知っていた。
 昔…、鏡の中に居た青年が、時任に向かって名乗った名前だ。
 けれど、正気を失っていた青年が、その名を告げたのは凪が来る少し前。
 ようやく、瞳に光を取り戻し始めた青年の唇が刻んだ形を、自分の唇で真似ると、そんな発音になった。
 「貴方とは初対面ですが、遺伝子的に貴方は私の祖父という事になります。私は貴方と同じ血を引いている…、これは紛れもない事実ですから、それに免じて少しだけでも信用して頂けませんか?」
 祖父・・・、と孫・・・。
 それは、時任が鏡の中に居た時間を示していた。
 鏡の中に居た間の時間は、とても…、とても長く感じられて・・・・、
 けれど、こうして現実として、目に見える形で突き付けられると愕然とする。これは事実だと頭ではわかっていても、信じられない気持ちだった。
 「・・・てつじ、さんは、今どこに? 元気にしてるのか?」
 「最近まで行方不明だったのですが、久保田君に言われて本当の名前を、その人物の故郷を調べたら、ようやく居場所がわかって…。しかし、やはりすでに亡くなっていました。おそらく、祖父は最期を、自分の故郷で迎えたかったのでしょう。姿や名は変わっても、笹川哲二としての記憶や思い出は消えずにあったのでしょうから…」
 「・・・そっか」
 鵠の言っている事は、今の時任には良くわかる。
 久保田の姿をしていても、時任は時任のままだった。
 しかし、笹川と違って、時任には帰りたい場所も帰れる場所もなかった。
 外に出る方法を知らないのは嘘だが、名前が無いのは嘘ではない。
 名前は久保田がつけてくれた…、一つきりしかない。
 だから、帰る場所はなくても、ずっと居たい場所ならある。
 ここを出て自分と一緒に来て欲しいと言う鵠に、時任は首を横に振った。
 「嫌だ・・・、俺はずっとココにいる」
 「ずっと、ここで一人、鏡を見つめているつもりですか? いくら見つめても、もう見える事は無いと…、貴方が一番良くわかっているはずでしょう?」
 「・・・うるさい。そんなのやってみなきゃわかんないだろっ!」
 「これは、久保田君が望んだことです」
 「・・・・っ!」

 「貴方のため…とは言いません。鏡の中に居る彼の願いを叶えたいと思うなら、彼のために私と一緒に来てください」

 絶対にここから動かない、絶対にここから離れないっ。
 そんな気持ちでいたのに、そう言われたら首を横に振ることが出来なかった。
 そして、鵠が言っていることが本当だということも…、わかっていた。
 あの鏡の中は、すでに久保田を取り込んで、久保田の世界になっている。
 だから、姿は久保田でも、時任には見えない。
 ぎゅっと強く両手の拳を握りしめ、俯いてしまった時任に、鵠は白い表紙の少し厚みのある本のようなものを差し出した。
 「これは、私の祖父が書き残したものです。おそらく、これがなければ、鏡の中の人間と外の人間の精神が入れ替わるなんて、久保田君の話しを聞いても信じる気にはならなかったでしょう…。読んでようやく、祖父が骨董店を始めた訳も鏡を店に置き続けた理由も、なぜ、売った後で必ず買い戻していたのかもわかりましたし…」
 「鏡を店に?」
 「えぇ、祖父は貴方の居る鏡を、ずっと自分の店に置いていたんです。そして、偶然、雨宿りのために店に入ってきた久保田君の目に留まった」
 「てつじ、さんは、なんでそんなことっ」
 「それはきっと、私の口から伝えるよりも、その白い表紙の中身を読んで頂いた方がわかるでしょう。いえ…、そうではないですね…、笹川哲二の孫として、貴方に読んで欲しいと思っています」
 「・・・・・・・」

 「そして、貴方の孫として、貴方に幸せになって欲しいと思っています。だから、どうか一緒に来てください。貴方のために…、そして彼のために…」

 そうして、時任は鵠に連れられてアパートからマンションへと引っ越した。
 けれど、処分するよう頼まれていたというベッドやテレビや洋服は、頼んでマンションへと運んでもらった。アパートからは離れてしまっても、久保田が使っていたものまで手放したくはなかった。
 マンションには家財道具や電化製品、食器や洋服などが揃えられていたが、新しく綺麗なそれらには思い入れも、思い出も無い。
 引っ越してから、何の思い出も詰まっていない部屋に足を踏み入れてから、改めて久保田と会えない現実が、ぽっかりと穴が開いてしまったような胸に迫ってきて…、
 時任は呆然と部屋に立ち尽くしたまま、近くに居るのに、遠くから響いてくるような鵠の声を聞いていた。
 「祖父は骨董品店の他に、不動産屋もしてましてね。今は父がこのマンションを建てましたが、ここの土地も元は祖父の持ち物なんです。ですから、家賃の方は気にせず使ってください。あと、何かわからない事や困った事があったら、気軽に私の所へ連絡してくださるとうれしいです。そこの電話に、私の番号を登録してありますから…」
 「・・・・・・・・」
 「外の生活に慣れるまで、少し時間がかかると思いますが、ゆっくり一緒に頑張って行きましょう。彼の気持ちを、彼のしてきた事を無駄にしないためにも…」
 「・・・・・・・」
 「食事はテーブルの上に置いてありますから、気が向いた時に食べてください」
 「・・・・・・・」
 「・・・また、後で来ますから」
 何もかもが…、どこか遠い。
 でも、それはずっと鏡の中に居たからというだけではなかった。
 久保田が居ない…、久保田の顔が見えない、久保田の声が聞こえない。
 そんな世界は、どこか遠くて現実味を欠いていた。
 哀しくてさみしくて…、さみしくて…、呟きかけた言葉が声にならず胸につまる。口を開けば聞こえてくる久保田の声が、それが久保田ではなく、自分の声だという事実が哀しくて苦しかった。

 ・・・・・・・時任。

 リビングの片隅に置かれた、梱包したままの鏡に視線を向けると…、どこからか自分を呼ぶ久保田の声が聞こえたような気がした。
 でも…、そんな気がしただけで、実際はこの部屋に響いていたのは鵠の声。
 その声は相変わらず、どこか遠くから響いていたけれど、鵠の手が鏡に触れた瞬間、時任は反射的に叫ぶ。そして、鵠に走り寄り、触れていた手を強引に鏡から引きはがした。
 「鏡に触るなっ!」
 「ですが、触らなければ、店に持ち帰れません」
 「持ち帰る…って、なんでっ!」
 「さっき言いましたが、聞いていませんでしたか? この鏡は買い戻させて頂くことになっていますから、持ち帰ります。久保田君にくれぐれも…と頼まれてますから、こればかりは譲る訳にはいきません」
 「くぼちゃんに頼まれてても、そんなの俺が許さないっ! 鏡はっ、くぼちゃんはっ、ずっと俺と一緒に居るんだっ!!」
 「・・・・」
 久保田から離れたくない一心で、時任は鵠の前に立ちふさがる。けれど、そんな時任に向かって、鵠は諭すように落ち着いた声で、久保田君の事を想うなら…と言った。
 時任が鏡を持っていても、いくら見つめていても、久保田が外に出られる可能性は無いに等しい。けれど、時任の時のように店に置いていれば、その可能性が生まれるから、自分に鏡を渡すようにと静かに優しく言った。
 でも、時任にはわかっていた…、知っていた。
 久保田の姿をしているからじゃない、ずっと、傍にいたから感じた。
 だから、頑なに首を横に振り続け、絶対に渡さないと鏡を抱きしめた。
 「店に置いてたって、可能性なんか生まれない。だって、そうだろ? くぼちゃんは誰かと入れ替わって外に出たいなんて、ちっとも思ってない。もしも、そんなコト思ってたら、俺に手を伸ばさなかったはずだ…」
 「・・・・・時任君」
 「それにくぼちゃんの願いは…、きっと違う。 くぼちゃんの願いは、入れ替わったら鏡を壊して欲しい…って、ホントはそうだったんだろ?」
 「・・・・・・」

 「だから渡さない、誰にも渡してなんかやらないっ、渡してなんかやるもんか…っ」

 眼鏡をかけているはずなのに、視界が滲んで歪む。
 でも、それでも涙だけはこぼさずに、歯を食いしばり耐えた。
 泣いたって叫んだって、久保田のいない現実は変わらない。
 なら、どうすればいい…、何したらいい…。
 どうしたら・・・、会えるんだろう…。
 時任が答えの出ない問いを胸の中で、何度も何度も繰り返していると、鵠は一つだけ深く長く息を吐いた。

 「きっと、つらくなりますよ、今よりももっと…。手放さなかった事を後悔するほどに…」

 つらくなる…、今よりも…。
 深い息とともに吐き出された言葉に、時任はいつの間にか床に落ちていた視線を上げる。そして、じっと自分を見つめる鵠に向かって、なぜ?…と久保田の声で言った。

 「見えないけど、声も聞こえないけど…、くぼちゃんは鏡の中に居る。なのに、離れなかったコトを後悔するなんてあるはずねぇだろ…」

 時任がそう言うと、鵠は哀しそうに微笑んでから部屋を出て行った。
 確かに中に居るのは貴方で、久保田君ではないはずなのに…、同じ瞳でなぜ?と言うのですね…という言葉を残して。
 そうして、一人きりになったリビングで、時任は穴の開いた胸を押さえ、糸が切れたようにずるずると床にしゃがみ込みかける。けれど、その時、テーブルの上に置かれた一枚の紙が目に止まり、しゃがみ込まずに踏み留まった。
 なんだろうと近づいてみると、未だ開いていない手紙の表に書かれた文字と同じ…、久保田の文字が見える。それは走り書きで…、でも、その文字を見た瞬間、脳裏に微笑む久保田の顔が浮かんだ。
 それはとても…、とても優しい微笑みだった。

 ・・・・・・窓を開けてベランダに出て、空を見て。

 そう書かれた走り書きの勢いのままに、外にベランダに出た時任は、吹いてくる風に空の青さに広がった風景に目を見開く。そうして、今と同じように気持ちの良い風に髪を撫でられながら、久保田が暮らし、日々を過ごしてきた街を見つめた。
 鏡の中とは、蔵の中とは違う…、広い世界を見つめた。

 ・・・・・・大丈夫。
 俺が居なくても、お前は一人じゃない。
 お前はこれから、たくさんの人と出会って、友達や恋人も出来て…、
 そうして、結婚して子供が出来て、きっと幸せになる。
 そうなるって俺が保証するから、心配しないで、振り返らずに歩いて行って。
 たとえ傍にいられなくても…、俺はいつでもお前の幸せを祈ってるから…。

 ベランダでしばらく空を見上げた後、リビングで手紙の封を切った。
 それから、この二週間…、何度も何度もその手紙を読み返した。
 久保田の手紙は時任のことばかりで…、時任のことばかりを心配していて…、
 自分の事なんて少しも、一つも書いていない手紙だった。
 それはとても温かくて優しくて、とても切なくて哀しい手紙だった。

 「くぼちゃんがいなくて、鏡の中に一人きりにしてて…、それでどうして俺が幸せになるなんて思うんだよ…。なんで…、どうしてだよ…、くぼちゃん」

 ベランダで空を見上げるたびに、夕焼け色のマグカップを握りしめた手に力がこもる。たとえ鏡越しに手を重ねなくても、別れは確実にやって来た。
 それは避けられない…、逃げられない現実だった。
 だから、最初から覚悟は決めていた。
 でも・・・、こんな別れが来るなんて予想もしていなかった。
 このまま、二度と会えないなんて思いたくなかった。
 だから、毎日、毎日、あきらめずに鏡を見つめ続けて…、
 けれど、このまま部屋に閉じこもっている訳にはいかない…、この世界で生きていくために、前に足を踏み出さなくてはならないのも現実で事実だった。

 「俺は…、さ…。幸せになるんじゃなくて、幸せだったんだ…。たとえ、声が届かなくても触れられなくても、くぼちゃんが傍にいてくれたら…、それだけで幸せだったんだ」

 なぁ、知ってたか? くぼちゃん…。
 そう空に向かって呟いても、その声はどこにも届かない。何も映さなくなった鏡を何度撫でても冷たいばかりで…、込められた想いは胸の奥に消えず降り積もっていく。
 時任はリビングに戻ると鵠に電話をかけ、ちょっと行ってくる…と鏡に声をかけると、昨日、渡された地図を手に東湖畔へと向かった。

                                                                           2011.5.23 
                                                                       
次 へ        
                                        前 へ