・・・・・・・・・・凪。
それが来ることを、久保田は知っていた。
蔵で白い表紙を見つけた日、それを読んだ日に…、
いつかはわからないけれど、一か月後か一週間後か、それとも三日後か遠くない未来にやってくることを知った。
そして、それを知った久保田は自分達には当てはまらないと、自分達は違うと目を背けたりしなかった。鵠の言葉を思い出しても、鏡を売ろうとは思わなかった。
何があっても、何が起こっても、時任と一緒に居ることがつらいなんてあり得ない。二人で過ごす日々のぬくもりに切なさが、哀しみが滲んだとしてもつらくはない…。
だから、微笑んでいられた。
誰よりも近くにいて、傍に居て笑顔を見続けることができた。
そうして、そんな日々の終わりが、凪が訪れたことを久保田が知ったのは、いつものように二人で違いを確認していた時…。けれど、言葉を綴る時任の唇ではなく、隠そうとして隠し切れなかった哀しい色を浮かべた瞳を見て悟った。
ずっと傍に居たから…、すぐにわかった。
でも、久保田の位置からは見えないのを良いことに、時任は昨日とあんま変化ないみたいだと真っ直ぐな澄んだ瞳に似合わない嘘をつく。それから、いつもと同じ…、けれど少し違う笑みを浮かべた時任に、久保田は嘘と知りつつ、そう…と返事をして微笑んで…、
これでおあいことばかりに、時任の嘘に嘘をつき返した。
「・・・時任」
な、なに?
「・・・・・・・・・・」
くぼちゃん? どうかしたのか?
「・・・・・・・・・・」
くぼちゃん…っ?! おいっ、しっかりしろよっ!
階段から落ちた時の打撲は、とっくに治って痛くなくなっている。
だから、どこも痛い場所はなかった。
けれど、久保田は鏡の…、時任の前で急に腹を抱えてうずくまる。すると、俯いた久保田からは、時任の唇も表情も見えなくなった。
でも・・・、心配そうな顔をしている。きっと自分のことを心配して、こちらを覗き込むようにしているだろう時任の姿が想像できた。
そして、そんな時任の手はたぶん…、いつもは触れることの無い手が鏡に触れているだろう。久保田の嘘は、行動は、それを予測してのものだった。
くぼちゃんっ、くぼちゃん・・・っっ!!
唇も表情も見えない…けれど、自分を呼ぶ時任の声が聞こえる気がする。
何度も何度も、くぼちゃんと呼ぶ声がする。
一度も聞いたことの無い、その声を耳ではなく、心で聞きながら…、
久保田は微笑み、わずかに顔を上げ素早く手を伸ばした。
上げる顔の視線の先…、そこにある手に向かって一直線に迷うことなく、戸惑うこともなく、ただ触れるためだけに伸ばした。
「・・・捕まえた。 やっと捕まえたよ、時任…」
そんな言葉とともに、触れた指先…。
けれど、その温度を感触を覚える間もなく、驚いて何かを叫ぶ時任の哀しい顔も揺れる瞳も…、二人を阻む鏡も古びたアパートの部屋も何もかもが混ざり合うように久保田の視界から消え失せ…、階段から落ちた時に似た感覚が襲ってきた。
すると、視界が白く染まり、黒に落ち…。あの時のように衝撃は襲って来なかったが、変わりに船酔いのような気持ち悪さを感じた。
そして、その気持ち悪さに何とか耐え、視界が明るさを取り戻した瞬間、久保田の耳を聞きなれた声が…、聞き覚えのある声が打つ。
くぼちゃん…、くぼちゃんと呼ぶ声が聞こえる…。
でも、それは他の誰でもない…、自分の声だった。
「くぼちゃん…っ、どうしてだよっ、なんでこんな真似っ!」
いつの間にか落ちていた視線を、再び上げるとそこには鏡に映る自分の姿。
ただ一つを残して訪れた凪は、今、ようやく完全になった。
鏡の外にも内にも…、あるのは久保田の姿だけ。
そう、鏡は外に映すもので、その中に入ることも何かを入ることも出来ない。
それは当たり前のことで、これまでの変化を見てもわかること。
けれど、凪が訪れて本来の鏡のように正確に真逆に映しても、鏡の外の久保田は、すでに久保田であって久保田ではない。
すべては、白い表紙に書かれていた通りだった。
鏡は核を選び、核の周囲を取り込み…、そして、やがて凪が来る。
核というのは鏡の中の住人、前は時任を今は久保田を指す言葉。
しかし、凪も核も…、それらはすべて白い表紙の中に書き記した人物の憶測に過ぎない。でも、鏡の中に居るからこそ、今の久保田には理屈ではなく感覚的にわかる。
鏡の中にある風景が、この空間のすべてが自分であることが…、
自分を中心とした、自分を取り巻く世界であることがとても良くわかる…。
古びたアパートの薄暗く狭い部屋が、久保田の世界だった。
鏡のある、時任の居る…、この部屋が久保田の世界のすべてだった。
「俺はこんなコト望んでない…っ、こんなコトを望んで、くぼちゃんと話したり笑ったりしてたんじゃない…っ、違うんだっ! 違うんだっ、俺はっ!!」
時任の叫ぶ声が、哀しみが…、胸の奥からあふれてくる想いと混ざり合い痛く切なく耳を胸を打つ。そして、もう二度と触れることは無いとわかっていながら、二人は同時に鏡に向かって手を伸ばした。
すると、二つの手は鏡越しに重なり、それを見た久保田は浮かべていた微笑みを深くする。見た目はどちらも自分の手…、けれど、それでも時任の意思で自分に向かって伸ばされた時任の手。たとえ鏡越しでも、見つめているだけで温かいと感じた。
けれど、それもいつまでもは続かない。
鏡はもう映すものは何も無いとでも言うかのように、早い速度でぼんやりと霞んでいく。白い表紙の中で凪と呼ばれていたにも関わらず、久保田を得た世界に逆風は吹かなかった。
凪とは海と陸の温度が同じになり、風が止まる状態のこと。
昼間は海風、夜間は陸風…、その合間に夕凪と朝凪があって…。しかし、この鏡に吹くはずだった逆風を、鏡の核になる事で久保田が止めてしまった。
その昔、時任がそうしたように…。
けれど、この鏡の物語は時任からではなく、その昔、鏡を見つけた一人の少女の恋から始まったのだと白い表紙が告げている。そして、その恋はやがて後悔と愛と狂気を孕み…、やがて決意を込めた時任の手によって閉じられながらも…、あの夏の日に降り出した雨が通り過ぎるはずだった久保田を呼び止めた。
それは運命だったのか、奇跡だったのか…、
それとも悲劇だったのか…、鏡に捕らわれた今も久保田にはわからない。
でも、これが運命でも奇跡でも悲劇でも構わなかった。
白い表紙に書かれた言葉が浮かんでも、それでもその気持ちは変わらなかった。
・・・今から私が書き記す事は、きっと、貴方にしか信じてはもらえないだろう。
鏡の中の彼を見る事が出来る…、彼を知る貴方にしか…。
だから、私は見ず知らずの貴方に、すべてを委ね託す他に道が無かった。もはや彼と話すどころか、その姿を見る事も叶わない私には、もう他に術がなかった。
こんな物を書き残し、貴方を苦しめる私をどうか憎んで欲しい。
貴方の手に鏡が渡るように仕組んだ私を、どうか許さないで欲しい。
そして…、どうか自分を責めないで欲しい。
貴方がどんな選択をしても、その責は貴方に選択を迫った私にある。
彼に貴方を会わせてしまった私にある。
すべての原因が鏡にあるとしても、その永遠に続く輪の様な…、
そんな終わりの無い暗闇と不幸の連鎖を断ち切れなかった私の弱さが、何も知らない無関係だったはずの貴方を暗闇の淵に立たせてしまったのだから…。
白い表紙に、そう書き残した人物を憎む気持ちも恨む気持ちも無い。時任は今の自分と同じように、その結末を知りながら自ら鏡に向かって手を伸ばした。
それが、きっと鏡に手を伸ばそうとしない時任の真実。
白い表紙に書かれていたからではなく、ずっと、時任を見つめていた久保田だからこそ、それが嘘ではないとわかった。だから、やがて来る凪を教えてくれた彼に感謝こそすれ、憎む理由も恨む理由もない。
・・・・・つらくなりましたか?
ふいに、どこからか聞き覚えのある声が聞こえた気がしたが、やはり、久保田がその言葉にうなづくことは無かった。
つらくはない…、つらかった事など一度も無い。
それどころか時任と出会えただけで、時任と過ごしたあたたかな日々を想うだけで…。もう、二度と会えないと笑顔を見ることが出来ないとわかっていても…、
・・・・・幸せだった。
とても・・・、幸せだった。
幸せなんてわからない…、知らないはずだったのに…、
霞んで消えていく鏡の向こうの時任の頬を伝う涙に、失う瞬間になってようやく気づいた幸せに…、久保田は微笑んだ。
穏やかに優しく、幸せそうに微笑んで…、
さよならの代わりに、ただ一言だけ、伝えたかった言葉をゆっくりと時任にもわかるように唇で綴った。
・・・・・・笑って。
そして、鏡の向こうが完全に霞み見えなくなった後、本当は一番伝えたかった言葉を口にして…、時任が触れていた場所を撫でた。
胸から溢れ出してくる想いに名前は付けない…、けれど…、
伸ばし続けた手と同じように唇は正直で、名の無い想いを綴る。
・・・・・好きだよ、大好きだよ。
触れることも抱きしめることも、口づけることも叶わなかった。
声さえ、聞くことが出来なかった。
けれど、急激に襲ってきた眠気に身を委ね、ゆっくりと見慣れた畳の上に身を横たえながら、今、夢を見るとしたら、きっと黒い葬列なんかじゃなくて、あの夕焼けの夢だろう…と、そんな気がしてならなかった。
・・・・・・・くぼちゃん。
鮮やかな夕焼けの中、同じ色の笑顔を浮かべた時任が…、自分の名を呼んで…、
そんな時任に向かって、自分も名を呼んで笑って…、
ただ、ただ穏やかな風景の中をどこまでもどこまでも二人歩いていく…、
・・・・・・・・・・そんな夢を。
|
|
|