「・・・・ただいま」
久保田がそう言って、住んでいる古びたアパートの敷居を跨いだのは、駅の階段を落下してから一週間後。事故は救急車が呼ばれる騒ぎとなったが、医者が診断した結果は打撲と軽い脳震盪。一週間入院して検査を受けたが、他に身体的な問題は無い。
未だいつもより歩く速度や動作が遅かったり、湿布臭かったりはするが、落ちた階段の高さを思うと軽症だ。そして、念のために靴底に入れていた小切手も誰にも奪われる事なく、今も久保田の手にあった。
おそらく、ぶつかった男と小切手は無関係。
それに、あんな場所で目立つ真似をして困るのは久保田ではないし、その件で突き落すとしたら階段からではなく、駅のホームからだろう。油断できないと思ってはいたが、地位と名誉とくだらない家名とやらを何よりも重んじる男が、そんな軽率な行動を取る事は無いだろうという確信もあった。
だからこその行動、だからこその一千万円でもある。
つまり階段からの落下は、ただの事故。
けれど、ただの事故でも…、無意味ではなかった。
「・・・時任?」
一週間ぶりに鏡の前に立ち、久保田がそう呼びかける。
けれど、鏡の向こう側に見えるのは、時任の顔ではなく、背中だった。
鏡にちゃんと姿が映っている事に、そこにいる事にほっと息をつきながら、久保田はじっと後ろを向いたままの時任の背中を見つめる。具合でも悪いのか、それとも怒っているのかと心配になりながらも姿が見えるだけで、自然に口元が頬が緩んだ。
・・・・・・良かった。
振り向かない背中を瞳にうつしながら、ただひたすらにそればかりを思う。
会えない一週間は、とても長かった。
本当にとても…、とても長かった。
でも、それでも久保田は病院を抜け出すことも、逃げ出すこともしなかった。
「帰り、遅くなってゴメン…」
用事があって遅くなったと久保田は時任の背中に向かって言い、とりあえずコーヒーを入れようと鏡の前を離れようとした。けれど、その瞬間に時任が鏡の方を振り返り、時任の瞳が自分を映した瞬間、久保田は動けなくなる。
泣いてはいない…、けれど、泣きそうに潤んだ真剣な瞳に捕えられ、捕まって…、
離れようとした鏡に近づき、決して触れられない頬に手を伸ばした。
「大丈夫…、これきりだから」
・・・・・。
「これからは、ずっと一緒に居るよ」
ホントに・・・、ホントにホントだな?
「ホントにホントに、本当」
・・・なら、いい。
「うん」
俺の言葉に腕組みして、潤んだ瞳を誤魔化すようにムスッとした顔でうなづく。
そんな時任を見つめていると冷たい鏡面を撫でていた指先が止まり、その指先は二人の境界でゆっくりと固く…、強く握りしめられた。
これ以上、近づけない。
どんなに手を伸ばしても、触れられない。
鏡の向こうからは、声すら届かない。
でも、それでも一緒に居る、こんな風に見つめ合う事もできる…。
だから、その時間を…、限られた時を大切に思わない訳がない。
会えなかった一週間は、もしかしたら、限られた二人の時間に換算すると10年くらいになるかもしれなかった。
けれど、その10年は決して無駄じゃない。
そう…、無駄にはしない。
ずっと一緒に居るよと指切りするように微笑み、夕焼け色のマグカップにカフェオレとコーヒーを淹れにキッチンに向かった久保田は、未だ着たままでいたコートのポケットを探り、ケータイを取り出す。そして、そこに登録してあった数少ない番号…、2件のバイト先と、あと登録してから一度もかけたことの無い番号を一つ消した。
すべて消して、真っ白になった。
けれど、別に支障は無い。
バイトはやめてしまったし、わずかだが貯金もあるから、当分、生活には困らない。いざとなれば小切手だってある。
病院には、定期的に通うように言われていたが、検査の結果がただの打撲で問題無いのだから行くつもりはなかった。もう、これ以上…、時任との時間を一分でも一秒でも、短くするつもりはなかった。
「けど、一度だけ、東湖畔には行かなきゃダメかな。それと、あともう一つも…」
キッチンで夕焼け色のマグカップにカフェオレを注ぎながら、そう呟いた瞬間…、なぜか過去の残像が、黒い葬列が脳裏を過る。
けれど、それでも久保田は二つ並んだマグカップを眺め微笑んだ。
あの田園風景を見るように、その中の笑顔を見つめるように…。
ただ、ただ知らない、わからない…、
けれど、こんな夕焼けや穏やかな風景や、そんな中にある笑顔が…、
そう、きっと幸せなんだろうと、そう呼べるものなんだろうと感じていた。
そして、その理由をなんとなく漠然と久保田が知ったのは入れたコーヒーを飲みながら、同じようにカフェオレを飲んでいる時任を眺めていた時…。久保田が鏡に視線を向けると同時にテレビに映った風景を、どこかの遠い景色を見つめる時任の寂しそうな横顔を見た時だった。
「・・・どこか、行ってみたい場所とかある?」
一緒に居られるなら、鏡の中でも外でも良いと時任は言った。
けれど、あんな薄暗い場所にいて、ずっと一人きりでいて…、外に出たいと思わないはずはない。でも、それは時任にとって、叶わない願いだった。
・・・叶ってはいけない、願いだった。
なのに、時任の横顔を見つめたままで、残酷なことを口にする。
すると、時任は少し視線を泳がせた後、少し顔を赤くしながらテレビの中の風景ではなく…、自分を見つめる久保田を指さした。
・・・前に言ったろ、くぼちゃんのいるトコだって。
前に聞いたのは、鏡から出たいと思った事はあるかどうかだった。
でも、時任にとってはその質問も、今の質問も同じことであるらしい。
そんな時任の答えを聞いた久保田は夕焼け色のマグカップを両手で包み込みながら、そうだったね…と一つ、うなづいただけだった。
それから、二人はいつものように、鏡の中と外との違いを確認して…、
この一週間ほどは、あまり変化がなかった事にほっと息をつく。
そうして、同時についた吐息の音を、久保田は聞かなかったフリをした。
・・・時任も何も言わなかった。
「今日は・・・、天気が良いから、きっと夕焼けも綺麗だよ、時任」
それから、少しして久保田はテレビの中のどこか遠くの風景を眺めながら、それだけをポツリと言う。それはただの風景ではなく、別の何かを映し出しているかのように、久保田と時任の視線の先で赤く赤く染まっていた。
その赤はとても綺麗で…、とても美しくて…、
でも、そのせいかどこか物悲しく、テレビに映った光景だというのに無意識に目を細める。画面の中、どんなに手を伸ばしても届かない夕焼けは、列車の車窓から眺めた夕焼けと、とても良く似ていた。
とても…、とても良く似ていた…。
そうして、そんな夕焼けを二人で眺めた日から、久保田はずっと時任の近くにいた。どうしても行かなくてはならなかった用事を済ませた日、日持ちしそうな食料を多量に買い込んできて、会えなかった一週間を埋めるようにそばにいた。
時任の知らない外の世界を教えながら、寄り添うように一緒にいた。
微笑んだり笑ったり、二人の間を隔てる鏡の存在なんて感じさせないくらい…、
ただ一人だけを…、時任だけを見つめ続けた。
時任の事だけを考え…、時任の事だけを想い…、
それでも足りなくて、その髪を頬を鏡越しに撫でて…、
まるで、この世界に二人だけしかいない…、そんな錯覚を覚えてしまうくらい。
けれど、そうしている間も変化は、鏡と内と外の同化は確実に進行し続け…、
ある日…、それは唐突にやってきた。
でも、それは意外でも予想外でも何でもなくて、来るべくして来た日だった。
ちょうど、時任の右足の大きさ…、もうそれだけしか違わない。
その事実を確認し合った…、次の日のこと…。
鏡は向かい合う二人だけを残し、鏡としての本来の姿に戻り…、
鏡の中に古びたアパートの部屋が、正確に真逆に映っていた。
・・・やがて、凪が来る。
それは白い表紙に書かれていたものと、まったく同じ現象。
鏡の外から中に流れ込むように吹き付けるように起こっていた変化が、均衡に…、同じになった事によって止まり…、
だから、白い表紙に書いた人物は、それを凪と呼んだ。
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