初めに買ったのは、夕焼け色のマグカップ。
それから、気に入ったものを見つけるたびに、箸や皿や色々と生活に必要なものを買い集めた。一つではなく、二つずつ同じものを、まるでままごとでもするかのように…。
けれど、見せたのはマグカップだけで、他のものは段ボールに仕舞い込む。そっと優しい手つきで大切そうに仕舞い込んでは、時任の目に触れない玄関口に置いた。
それは誰の目から見ても、とても無意味な行動のように思えた。
初めて買った日から、欠かさずカフェオレを入れているマグカップと違って、その他は使いもせず、見せもしないなんて一体何のために買っているのか…。それは鏡の中に時任を見つけた日から次第に、ゆっくりと降り積もった雪が春の日差しを浴びて溶けだしていくように、とても穏やかに微笑むようになった久保田にしかわからないことだった。
穏やかに微笑んで、楽しそうに笑って…。
蔵の中で白い表紙を発見した後も、そんな日が続いている。
そして、同じようにマグカップから始まった変化も止まらずに続いていた。
変化が起こり始めてから、久保田は時任と毎朝おはようと挨拶を交わした後、必ずどこか昨日と変わった部分が無いかどうか確認する。しかし、そうして改めて確認するまでもなく、マグカップが映ってからの変化は驚くほど早かった。
映るまで四ヵ月もかかったのが嘘のように、日々、着々と変化している。
それは変化というよりも、同化…と言った方が正しいのかもしれない。マグカップだけを見ると久保田が触れたものだけが映るように思えたが、実際はそうではなく、部屋そのものが映り込んでいく、それは時に床の一部だったり柱や壁だったりもした。
そんな蔵の状態やテレビが映り込んでもコードやコンセントがなかったり、ゲーム機が映ってもソフトが映らなかったりしている所を見ると、マグカップのように小さなものでなければ一度で映るのは無理のようだ。おまけにコンセントがあっても電気はやはり通っていない様子で、電化製品は久保田が視線を向けた時しか使えなかった。
ちくしょーっ、なんであるのに使えねぇんだっ、コレ!
「うーん、たぶん電気の問題かも? 電気って、前に説明したよね?」
電球とか電灯とか光らせてるヤツだろ? それがなきゃテレビもゲームもダメだって言ってたよな? ほとんどのモンが電気が動いてるって。
「そうそう…。だから、たぶんコンセントあっても、そっちは電気通ってないからムリ」
せっかく映ってんのに、そんなん意味ねぇじゃんっ。
「どういう仕組みなのか不明だけど、俺が見たら使えるし、鏡越しじゃなくても見れるなら意味無くないデショ?」
・・・・・まぁ、それはそーだけどさ。
電気が通っていないと知った時、時任は酷くガッカリした様子だった。
自分が見ていれば使えると言っても、残念そうにテレビを見つめていた。
そんな時任の言葉や様子は、そう遠くない未来を久保田に意識させる。
そして、白い表紙に書かれた内容をどこまで知っているのかはわからないが…、きっと時任も心のどこかでいつも意識しているからこそ、無意識に態度や言葉に出てしまうのだろう。けれど、それでも次の瞬間にカフェオレが飲みたいと言った時任の表情も、久保田を見つめる瞳も明るかった。
いつも明るく無邪気で…、見ていると自然に微笑みが浮かぶ。
蔵の中でも変化し始めた部屋の中でも、時任は少しも変わらなかった。
くぼちゃん…。
いつも変わらず久保田をそう呼び、その瞳に久保田を映し微笑み笑って…、たくさんのことを聞き、たくさんのことを話す。そんな二人は仲の良い友達のようであり、見つめ合う恋人同士のようでもあり、時には教師と生徒のようでもあった。
けれど、時任と過ごす日々の中で、胸の奥を温かく満たしていくものに未だ名は無く。冷たい境界を手で指先で優しく撫でても、久保田は決して、その温かさと同時に押し寄せる波のような切なさを口にはしない。そして、何かを恐れるかのようにめったに境界に手を伸ばさない時任も、同じように何も言わなかった。
「つらくは…、ない」
東湖畔で鵠に、つらくなったかと聞かれた。
それから、なぜか口癖のように一人になると呟いている。皿洗いのバイト帰りに呟いてしまってから、また…と気づいて、やれやれと右手で後ろ頭を軽く掻いた。
意識的なら止めようもあるが、無意識なら止めようも無い。
良くわからない癖がついちゃったなぁと、ふーっと一つ息を吐いてから、久保田が足を向けた先は駅で、時任の待つ古びたアパートではなかった。
それは今日はアパートに帰る前に、行きたい場所があるからだ。
しかも、そこに行くためにバイトを早退した。
確かな時間はわからないが、きっと遅い時間でなければ捕まらない。だから、今日の帰りは遅くなると、時任にも出かける前に言っていた。
遅くなるけど、ちゃんと帰るから心配しないで…、と。
でも、今、この瞬間にも会えなくなる可能性が無いとは言い切れない。白い表紙を読んだとしても、それが自分と時任の身に置き換えて当てはまるかどうかは不明だ。
けれど、それでも他に何も手掛かりがないのなら信じるしかない。
信じて…、それに賭けるしかない。
うっすらとした記憶の中、一度だけたどった事のある道を歩きながら、久保田は信じる…と自分の思考を辿るように唇で、その言葉を形作り…、
「そう言えばキレイっぽいけど、他に道が無い。ただ、ソレだけのコトなのにね」
…と、空々しく響くだけの言葉を否定し、事実を確認するようにそう言って、ぼんやりと三つ目で下車した駅の前で、すでに夜の帳の降りた空を見上げる。すると、雨こそ降ってはいないが、空は月も星も無く暗かった。
その暗い空の下、歩いている内に目の前に現れた坂道を登れば、じきに目的地に着く。この坂を初めて登った時は、確か息切れがして、とても急だったはずだが…、
今、見るとそれほどでもなく、実際に登ってみても息切れがするほどではなかった。
風景も視点が高くなってしまったせいか、いまいち記憶と一致しない。
薄れた記憶の中の自分は、たぶん…、3歳か4歳くらいで手を引かれていた。
自分の手を握りしめた手…、それがとても白く冷たかったのをよく覚えている。一度も振り返らない背中に連れられ、たどりついた家というより屋敷の大きな門の前、あの時は追い返されてしまったが、今日はそういう訳にはいかない。
まだ、帰っていないという事は、知っている親戚の名前を使って電話して聞いている。だから、あとは一か八か待ち伏せるだけだ。
「たぶん、待ち伏せが今日で場所がココで、それが俺ってのに意味も効果もないだろうけど…、とりあえずモノは試しってヤツで」
門の辺りには、おそらく防犯カメラがある。
そんな場所に長時間立っていると、警備会社が来るかもしれないし、運が悪ければ警察が来て職質されるかもしれない。だから、門の見える少し離れた場所に立った。
そんな久保田のコートのポケットの中には、タバコとライターと財布とアパートの鍵。
そして、朝の朝刊に挟んであった近所のスーパーの広告と空の封筒。
万が一、警察にしょっ引かれても、見つかって困るような物は何も持っていない。けれど、これから会う人物にとっては、たとえ何も持っていなくても久保田自身がことと次第によっては爆弾になりかねなかった。
そうして、しばらく空を眺めつつ時間を潰していると、坂の下から一目で高級車とわかる黒塗りの車が登ってくる。今、居る辺りは高級住宅街であるため、そんな車も珍しくはないが…、あれが目的の人物の乗った車だと久保田の勘が告げた。
だから、車が登って来るのに合わせて、大きな門に近づく。
すると、どうやら勘は正しかったらしく、車は門の前で一旦停止した。
久保田は少し早足になりながら、ポケットに入れていた広告を取り出すと四つ折りにしていたそれを開き、門が開くまでの短い時間を狙って、車の後部座席の窓にバンっとわざと音を立てて、手のひらで広告の裏を押し付ける。窓にはスモークがかかっているが、門に設置された自動点灯のライトに照らされているし、中からはマジックで大きく裏に書かれた文字が見えるはずだ。
・・・・今日が何の日か知ってる?
広告の裏に書かれた文字は、その一言だけ。
何の悪戯だと無視されてしまえばそれまでで、どう見てもヘタを打ったとしか思えない。他にいくらでも良い手段があるにも関わらず、そんなヘタな手段を久保田は選んだ。
上手く打つより、その方が良いと判断したのはなぜなのか…、
それなりに根拠はあったが、もし誰かに聞かれたなら勘と答えるかもしれない。
可能性から言えば、こんな文字に動かされるような相手ではないからだ。
しかし、何の気まぐれか広告を押さえつけていた窓がゆっくりと音を立てて開き、中に乗っている人物が久保田の視界に入った。
「・・・用件は?」
窓の近くに立つ久保田は長身なため、そう言った男の顔は屈まなければ見えない。だが、久保田は屈まず立ったままで、顔の見えない男の質問に短く答えた。
「一千万円くれません?」
一千万…、そう言った久保田の言葉を中に居た運転手が驚いたような声で繰り返す。しかし、顔の見えない男は動じた様子も無く、それは何の代価かと聞いてきた。
淡々と事務的な口調で…。
しかし、こうして話をするのは初めてだが、二人は紛れも無く父と子だった。
正確には、かつての愛人の間に出来た子供。
しかも、本妻との間に出来た子供との年の差は、皮肉なことにたった三日しか違わない。良くある話なのかどうなのか、いわゆる政略結婚だった本妻と、愛人であり従兄弟でもあった女とを天秤にかけた男は…、当然の様に愛人を捨て本妻を取った。
「貰い忘れた慰謝料を貰いに来たんですよ。それにちょっと入用で、このままだと銀行強盗でもしなきゃなカンジなんで…」
バイトは掛け持ちしているが、別にお金に困ってはいない。
借金もしていないし、贅沢さえしなければ暮らしていける。
けれど、久保田はそう言って、男に金を要求した。
どんなに否定しようと遺伝子的に親子である現実を突き付け、それを盾に脅して…。ホントらしくないなぁ…なんて感想を、心の中で苦笑と共に漏らしながら。
すると、男は慰謝料ではなく、餞別ならくれてやろうと言い、そんな男の言葉を聞いた久保田は、もちろん一度きりだと理解してますよ、命は惜しいしねと軽く肩をすくめながら言葉を返した。
「一千万さえ貰えれば、二度と姿は見せませんので、どうかご安心を…」
久保田がおどけた調子でそう言うと、窓から一枚の小切手が差し出される。
その額面を確認すると、確かに一千万円と書かれていた。
久保田にとっては大金でも男にとってははした金なのだろう、それを久保田が受け取ると同時に、開けられた窓は閉じられ、車はすでに開いていた門の中に吸い込まれるように動き出す。そうして、父と子である二人の初めてで最後の会話は終わり、久保田は閉まるのを待たずに、門に背を向け歩き出した。
「昔なんてどーでもいいんだけど、命は惜しいんだよね…、今は特に」
屋敷から離れ、人通りの少ない場所に来ると久保田はポケットに入れていた封筒を取り出し、その中に小切手を入れる。そして、それをポケットではなく、靴に…、底敷きの下に仕舞い込んだ。
餞別という名の手切れ金を…。
だが、それはこれから起こる何かを予感しての行動ではなく、ただ、男の言葉を信じていなかっただけで…。きちんと小切手が支払われ、周囲に何事も起こらない事を確認するまでは油断できないと思っていたからだ。
けれど、そんな風に思っていたにも関わらず、久保田は来る時に下車した駅の階段…、それなりの高さがある場所で、急に走ってきた男とぶつかり…、
周囲の悲鳴とともに、階段の上から下へと落下した。
「ゴメン…、今日は帰れない…」
ゆっくりとスローモーションで落ちていくような、そんな妙な感覚に捕らわれた久保田は、駅の天井を見つめながら、そう小さく呟く。天井の照明で白くなり、それから衝撃の後、黒く染まっていく久保田の脳裏には、手切れ金を渡した父でも、今日が命日だった母でもなく…、自分の帰りを待つ時任の心配そうな顔だけが浮かんでいた。
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