カタン、カタン、コトンコトン・・・、カタン、カタタン・・・・・。
始発列車は、まだ薄い暗闇に包まれたホームから久保田を乗せて発車し、来た時と同じように一定のリズムを刻みながら走り出す。けれど、窓の外を流れる風景を眺めていても、オレンジ色をした想像が脳裏を過ったりはしなかった。
ホームと同じように窓の外の風景も、今は薄い暗闇に包まれ、わずかに明るい空は見つめれば見つめるほど、どこまでも高く遠く見える。行きと帰りと同じ線路の上を走っているはずなのに、目に映る風景の印象はまるで違っていた。
だが、その違いは日の光が射しているか、射していないかだけ…、
きっと、ただそれだけの事…、なのだろう。
そう思いながら窓に軽く頭を預けると、列車の走る音が大きく耳に響いた。
カタン、カタタン・・・、カタタン・・・・・。
そのままの姿勢でゆっくりと視線を、久保田が外の風景から膝へと移すと、そこには行く時には持っていなかった白い表紙がある。懐中電灯は駅のベンチに忘れ、床に散らばっていた骨は拾い集め蔵の裏に埋めてきたが…、結局、白い表紙だけは元の場所には戻さず持ち出してしまった。けれど、特に何か考えがあっての事ではない。
確かに白い表紙の中に書いてあったものは、すべて読んだ。
時任のことを…、いつ見えなくなるかもしれない鏡の中の笑顔を想い…、
暗く寒い蔵の中で小さな窓を見上げ、白い表紙に抱えて初めて考えた。
今までのように考えずにいる事は、もう出来なかった。
「俺には何も出来ないし、何もするつもりないから…」
列車に揺られながらぽつりと呟いたのは鏡が部屋に来た日、初めて部屋で時任と顔を合わせた日に言った言葉…。その時は、ただの興味だと思っていた。
そう、思い込もうとしていた。
何も想いたくも考えたくなかったから、無意識に逃げていた。
でも、蔵を開けて白い表紙を見付けて、逃げられないと悟って初めて気づいた。
自分が逃げていたことに…、何から逃げようとしていたかのかも…、
何もわからないと白い表紙を膝に抱えながら、それだけはハッキリと久保田の中で形となり、だからこそ、どうすればいいのかわからなかった。
頭の中で胸の奥でせめぎ合う想いも感情も一つではなく複雑で、白い表紙を抱える久保田の思考を乱し、考えれば考えるほど、どうすれば良いのかわからなくなる。そうしている間にも窓の景色は、夢の終わりを告げるように田園風景から町並みに変わり、車内のアナウンスが久保田が降りる予定の駅名を乗客に知らせた。
あぁ、降りなければと立ち上がると、膝から白い表紙がパサリと音を立てて落ちる。すると、それと同時にその中に挟んであった二枚の写真も、ひらりと床に舞い落ちた。
白い表紙の中と同じように、端が黄色く変色した写真。
それを白い表紙と一緒に拾い上げた久保田は、再び元の場所に挟み込み、他の乗客に混じって列車を降りる。そして、乗り換えのためにホームを移動した。
『一つだけ、これだけは覚えておいてください。もしも、鏡がいらなくなったら…、つらくなったら、またココにおいでなさい。私はいつでも、ココにいますから…』
自分の思考に沈み込みながら、たどり着いたホームに立っていると、到着した電車の巻き起こす風が頬を撫でる。すると、その風に混じるように、ふいに鏡を買うきっかけを作った鵠の言葉がどこからか聞こえてきた気がした。
詳しい事情は何も知らされず、ただ祖父に頼まれた通りに時任が見える人間に鏡を売り、買い取るという行為を繰り返してきた鵠の言葉は…、後悔からなのか謝罪つもりなのかはわからない。けれど、白い表紙を見付けてしまった今も、その言葉に首を縦に振る気にはならなかった。
まったく迷いが無いと言えば、嘘になるのかもしれない。
でも、それでも迷いながらも、久保田の中で揺るがず決して変わらない。
鏡は誰にも売らない、誰にも渡さない。どんなに鏡が指先を拒んでも、目の前で時任が笑っていてくれるなら…、それでいい。
けれど、白い表紙の中にある文字と写真、そして限りある時間が電車が巻き起こした風のように、二人の間を吹き抜けた瞬間、久保田の前に二つの道が…、二つの選択肢が横たわっていた。
「・・・どちらへ行けばいい、どちらへ行けば幸いなんだろう」
一人で列車に乗り…、電車に乗り換え…、
目の前に横たわる二つの道の前に立ち止まり、久保田は呟く。
幸い…、幸せとは何なのかもわからず、知らないままに…、
自分の名を呼び微笑む、ただ一人を想い考える。
幸せを・・・、オレンジ色の風景を笑顔を・・・。
けれど、電車が住んでいる街に到着し、自分の足で歩き、家路をたどり始めても向かう先が決まらない。見上げた空は秋晴れで明るく青く、その眩しさに目を細めても久保田の瞳は暗い色を湛えたままだった。
そうして、歩みを進めている内に、東湖畔が見えてくる。
あの雨の日までは、その存在すら知らなかった…、骨董品店。
でも、今はこの前を通るたびに歩みは乱れ、時には早足に、時にはゆっくりとした足取りになる。もしも出会わなかったら…、なんて想像すら出来ないクセに、東湖畔の前を通りかかるたびに、夏の雨の日のことを思い出した。
すると、必ず鏡の中から、こちらに向かって手を振る時任の姿が脳裏に浮かぶ。
哀しそうな目をしてるクセに…、涙一つ零さない…、
・・・そんな時任の笑顔が。
きっと、その笑顔に足を止めてしまった瞬間から…、
いや、もしかしたら自分を見つめる時任の瞳を見てしまった瞬間から、鵠の言っていた呪いにかかってしまっていたのかもしれない。
目を逸らしても逃れられない…、そんな呪いに…。
久保田は東湖畔の前に立ち止まると、ドアを開け中に足を踏み入れる。そして、いつものように茉莉花茶を入れた二つの湯呑を前に、店番か休憩をしている鵠の前に立った。
けれど、蔵の鍵も手帳も貰ったもので、返す必要は無い。
見つけた白い表紙も、渡すつもりも見せるつもりもない。
だから、ここを訪れる理由は無かったはずだ。
「・・・・・つらくなりましたか?」
自ら店に入りながら、黙り込んだままでいる久保田に鵠がそう尋ねる。
茉莉花茶の温かな湯気の向こう側から、穏やかに優しく。そんな鵠はきっと…、昨日と同じように、鏡を買い取るための金を用意しているだろう。
出来る事なら、すぐにでも久保田の手から鏡を買い戻したい。
鵠の微笑みと言葉からは、そんな想いが感じ取れた。
けれど、久保田に鏡を売った事を鵠がどう感じて、どう思っていようとも、きっと結果は変わらない。鵠が執拗に勧めなくても、帰り際に鏡を振り返り…、あの笑顔を見た瞬間、衝動的に財布をテーブルの上に置いていたはずだ。
その確信が時任の名を呼び、微笑む…、今の久保田にはある。
だから、鵠の言葉にハッキリと首を横に振った。
「つらくはないよ…、一度もつらかったコトは無い。時任がそばにいるのに、つらいなんてどうして?」
問いかけには答えず、逆にそう尋ね返すと鵠はわずかに浮かべていた微笑みを深くして、小さく、どうしてでしょうね…とまるで独り言のように言った。
胸が締め付けられるように、苦しかった事はある。
でも…、つらかった事は一度も無い。
なのに、なぜここに来てしまったのか、自分でもわからなくて横に振った首を今度は傾げ、久保田は鏡が置かれていた店内を見回す。すると、前には無かったマグカップが、二つ置かれているのが目に入った。
それは鮮やかなオレンジ色をしていて、しかも、まるで沈む夕日が染め上げたかのように、下から上へと濃淡をつけて塗られている。所々、混じる白は雲…、二つ並ぶマグカップの下に田園風景は広がってはいないが、とても似ていた。
あり得ない想像を脳裏に描きながら見た…、あの風景に…。
思わず手を伸ばすと、指先が車窓に当たった時のようにコツリと音を立てる。
けれど、久保田は指先を引かず、それを何かを確かめるように軽く撫でてから、ゆっくりと掴んだ。
「つらくなったからじゃないよ…、たぶん、コレを買いに来たんだと思うし」
「今、見付けたのに、ですか?」
「そう…、きっと」
「・・・・・・・」
「あの雨の日のように…、ね」
これはきっと、運命のようなものだったんだろうと…、
そう告げるように久保田が言うと、鵠は何かを考えるように視線を温かな茉莉花茶へと落とし黙り込む。そして、そのマグカップは差し上げます…と、実は鏡についていたのを忘れてたんですよと静かに言った。
「ソレって押し売り紛いの訪問販売っていうより、テレビの通販番組みたいだぁね」
「まぁ、そんなモノですよ」
「認めるんだ?」
「あの鏡を売りに来ないのは、貴方が初めてですから…、マグカップくらいつけても良いかと思いましてね」
「・・・・・・」
差し上げますから受け取ってください…と鵠は言う。
二人でどこまでも行きたいと思った、あの夕焼け色を…。
けれど、久保田は鏡の時と同じように、テーブルの上にポケットから取り出した財布を置く。それは借りを作りたくないとか、そんな理由ではなく、ただ…、このマグカップは貰うのではなく、自分で買いたかったからだ。
列車に乗り夕焼けを越え、蔵の中で白い表紙を見つけ、その暗闇に染まり…、
でも、それでも二つのマグカップの夕焼けを見た瞬間、いくら考えても出なかった答えが胸の奥から時任への想いと一緒に…、あふれるように出てきた。
だから、誰かに貰うのではなく、自分の手で届けたい。
そんな久保田の想いを感じ取ったのか、鵠はあきらめたように小さく息を吐くと二つのマグカップの値段を告げた。そして、何も聞かずにマグカップを久保田から受け取り、二つを並べて丁寧に箱に収めた。
「実はこのマグカップは陶芸家ではなく、画家が作った作品なんです。だからという訳ではありませんが、実は箱書きにもある通り、題名が付いてるんですよ」
「家路?」
「えぇ、副題は帰りたくなる空…、だそうです」
オレンジ色の夕焼け空…。
その下で手を繋ぎ、どこまでもどこまでも一緒に行けたなら…、
どこまでも二人で帰っていくことが出来たなら、どんなに良いだろう。
代金を払い、鵠からマグカップの入った箱を受け取ると、久保田は題名に書いてあるように、再び家路をたどり歩き始める。そして、同時に目の前で分かれていた二本の道の内の一本を選び…、その道を迷わず歩き始めた。
二人でどこまでも行きたい…、夕焼けを胸に抱きしめながら…。
そうして、近所のコンビニに寄り、時任の待つ古びたアパートにたどり着くと、鍵をドアを開け中に入る。けれど、すぐには鏡の前には立たず、廊下のキッチンで箱を開けて買ったばかりのマグカップを取り出した。
でも、すぐにその中にコーヒーを入れず、コンロで買ってきた牛乳を沸かし、自分では飲まない甘いカフェオレを作る。そして、カフェオレとブラックコーヒーを入れた二つのマグカップを手に…、部屋にある鏡の前に立った…。
すると、ずっと帰りを待っていてくれたのか、冷たい床の上で膝を抱えて座る時任の姿が鏡に映る。その姿は…、俯いた横顔はとても寂しそうで哀しそうで…。
けれど、鏡の前に立った久保田の気配に気づき、俯いた顔を上げた瞬間…、それはマグカップに描かれたオレンジ色の笑顔に変わった。
・・・・・おかえり、くぼちゃん。
向けられた笑顔も、呼ぶ声も…、見つめる瞳も…、
何もかもが胸を苦しく締め付ける…。
白い表紙が写真が胸を過り、その苦しみが増していく。
けれど、やはり、この苦しさをつらいとは思わなかった。
「ただいま、時任…。ごめんね、心配かけて…」
そう言いながら、時任の前にカフェオレを入れた夕焼け色のマグカップを差し出す。すると、鏡に映ったそれを受け取りながら、時任は心配なんかしてねぇよと笑う。
けれど、その瞳には、わずかに涙が滲んでいた。
そして、一言だけ心の底からほっとしたように、良かった…とそう小さく呟くのを聞いた時、久保田の視界もわずかに滲む。でも、それでも久保田も時任も笑っていた。
・・・コレって、コーヒーじゃないよな?
「カフェオレっていうんだけど、どう?」
甘くて、おいしい…。
「・・・そう」
うん。
「なら、今度からお前にはブラックじゃなくて、ソレ入れてあげるよ。俺のじゃなくて…、お前のマグカップに、ね」
俺の…、マグカップ?
「気に入らない?」
・・・・・・・。
夕焼け色のマグカップは二つある。
その内の一つを、カフェオレの入った方を鏡の前に置くと、久保田は自分のマグカップのコーヒーを飲む。すると、それを見ていた時任は、マグカップを両手で包み込むように持つと自分の頬に押し当てた。
・・・こんなあったかいのに、気に入らないワケねぇだろ。
そう言った時任を、久保田はまるで夕日を見るように目を細める。
そして、あとどれくらいで消えてしまうのか、目の前からなくなってしまうのか…、
わからない夕焼け空に、消えないでと祈るように願うように…、
伸ばした指先で冷たい鏡面を、オレンジ色の笑顔をそっと優しく撫でた。
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