過去は何をしても変わらない。
話しても、叫んでも、嘆いても変わることはない。
流れるようにではなく、ポツリポツリと降る雨のように橘に話しながら、そんな過去を振り返り思い出し…、時任はベランダの向こうの暗い空を見つめた。
話は長くなる、そう思っていけれど、話してみれば驚くほど短い。
産まれて置き去りにされて、売られて…、鏡へと手を伸ばして…。
蔵の中で身体を弄ばれていた年月も、鏡の中に居た年月に比べればとても短かった。そして、久保田と過ごした日々はもっと、もっと短くて…。話しながら、そんな当たり前のことを改めて思うと、ポツリポツリとしていた話が止まりかける。けれど、それでも約束だからと平気なフリして、何とか最後まで話し終えた。
それは長いようで短い、短いようで長い話だった。
「・・・・・・・コレで全部。他に話せるコトは、もう無い」
話し終えた時任が静かにそう言ったが、橘は黙ったまま口を開かない。
やはり内容が内容だけに、にわかには信じがたいのかもしれなかった。
鏡の中の久保田を見たとしても、精神が入れ替わるなんて話は、あまりにも突拍子がなさすぎる。特に本物の久保田と会ったことも話したことも無い橘なら、尚更、信じるなんて無理な話だ。
普通なら話しても冗談か妄想か、気でも狂ったのかと思うだろう。
しかし、時任が信じられないなら信じなくても構わないと言おうとして口を開く前に、橘がそうですか…と納得したように、一つ小さくうなづいた。
「貴方が鏡を見ないのは、そういう理由だったんですね。鏡の中の彼が本当の久保田君で、本当の貴方は僕よりも年上で…、すでに貴方自身は…」
「ウソみたいな話だろ?」
「どんなに信じがたい話でも、それが事実で現実なのでしょう?」
「信じるのか、俺の話」
「えぇ、信じます。話す時の瞳にも表情にも嘘はありませんでしたし、何より僕が貴方を疑う理由など、どこにも一つもありませんから」
「・・・・・」
とても信じがたい話を、橘は信じてくれた。
でも、うれしいはずなのに、それを素直に喜ぶ事はできない。今まであった事を偽りなく、ありのままに橘に話しながらも、信じないで嘘だと言ってくれたなら…と、どこかで願う気持ちがあった。
「信じてくれて、ありがとな。けど、コレは俺と久保ちゃんの問題だし…、聞いてわかっただろうけど、考えてどうにかなるモンでもない。だから、今、聞いたコトは忘れろ…」
忘れて欲しい、忘れてくれ…。
自分で巻き込んでおきながら、話しておきながら、そう思うのは矛盾している。けれど、久保田が見える現実が、その想いを強くしていた。
もう誰にも選択はさせない。
こんな希望はいらない…。
そう思いながら、両手に作った拳に力を込めると、橘は視線をシーツがかけられた鏡に向ける。そして、忘れるとも忘れないとも言わず、静かに囁くように問いかけた。
「なぜ…、ですか?」
その突然の問いかけに、時任は何のことかわからず小さく首をかしげる。
すると、橘は鏡に向けていた視線を時任へと戻し、哀しそうに言った。
貴方が助ける必要も責任もなかった…、
そんなものは、どこにもありはしなかったんですよ…、と…。
けれど、そんな橘の言葉を聞いても、時任の中には答えがなかった。
「母親らしき人は貴方を男に売り渡し、鏡の中の中に居た人も、きっと鏡から出たい一心で自分のことしか頭になかったはずです。凪の事を貴方に話していたとしても、結果を知りながら手を伸ばした事実は変わらない。気が狂うほどの精神的苦痛を味わっていた彼が、鏡の事を一番良く知っていたはずなのに…」
「・・・・・・・」
「誰も貴方を助けなかった…。いつも誰も彼も貴方に向かって、手を差し伸べたりはしなかった。なのに、なぜ貴方は…」
・・・・・手を伸ばしたんですか?
なぜ?…と重ねて問われても、やはり答えられない。
母親がうれしいと言ったから、うなづいた。
けれど、必要だとか責任だとか、そんな事を感じてうなづいた訳じゃない。ただ、自分がそうしたいと思ったから、そうしただけだった。
それと同じように、笹川も凪のことを聞いた時に帰りたいと言ったから、帰したくて手を伸ばしただけで、あの蔵から逃げ出したくて鏡に手を伸ばした訳じゃない。そう…、実は時任が鏡に向かって手を伸ばした日は、長く閉ざされていた蔵が開かれた日でもあった。
『さっさとここから出て行け、この淫売っ。お前を養うような余裕は、この家にはもうねぇんだよ! あのバカ息子のせいで、この家もお仕舞だっ!』
・・・・・・・破産。
それは、家の主が後先考えず放蕩の限りを尽くしたあげくの当然の結果だった。
けれど、そう言われて長く閉ざされていた扉が開かれた日は、まるでそれが運命であるかのように凪が訪れた日でもあった。
・・・・・凪が来た。
開かれた扉から差す光の中、鏡の方を振り返ると、笹川の唇がそっと来るべき日が来たことを告げ…。それを見て読み取った時任は、鏡ではなく扉に背を向けた。
手が触れる前に一言、この鏡を置いてくれた人にありがとうって伝えて欲しいとそう言い残して。迷い震える笹川の手に、鏡越しに自分の手を重ねた。
「・・・俺にはなかったんだ」
しばらく黙っていた時任の口から、ようやく、そんな小さな呟きが漏れる。
すると、激しくなった雨音が時任の言葉を待つ橘と、再び過去を思い返す時任の耳を打ち、その音は部屋に重苦しく響いた。
重く苦しく…、哀しい音。
けれど、過去は時任の脳裏を流れていくだけで、雨音のように哀しくはなかった。
「俺には行きたい場所も、帰りたい場所もなかった。だから、帰りたい場所があるなら、帰ればいいと思っただけだ。必要だとか責任だとか、助けるとかじゃなくて…、ただ、そう思っただけだった…」
開かれた扉の向こうに、明るい世界は広がっていた。
でも、帰りたい場所のある人に背を向けて歩き出すほど、帰りたい場所も行きたい場所もなかった。母親と名乗った女はどこかで元気に暮らしているかもしれないが、きっと、売り払った子供のことなど、忘れてしまって思い出しもしないだろう。
父親らしき男も、それは同じで。身体を弄んでいた男は、家の金が底を尽きかけた頃から蔵には来なくなっていた。
「後悔、しなかったんですか? いつも苦しく辛い事ばかりで…、それなのに…」
こんなのはあんまりです…。
どうして、貴方ばかりがこんな…と、橘が苦しそうに整った美しい顔をらしくなく歪める。けれど、どんなに苦しくても辛くても、時任の心に後悔だけはなかった。
まるで、そんな言葉は存在していないかのように、あの時、うなづいていなければと手を伸ばしていなければと思った事は無かった。
・・・・・・・なぜ?
そんな問いかけをされても、その問いかけを胸の中で呪文のように繰り返しても、やはり答えは見つからない。でも、だからこそ正気を保つ事が出来たのかもしれない。
後悔しない時任の瞳は、いつも見上げていた。
いつの日も、どんな時もうつむかずに…、空を見上げ続けた。
あの蔵の中でも、小さな小窓から青い空が見えた。
今、思えば…、あの空の青さが薄暗い蔵の中に居た時任を俯かせず、ふとした瞬間に暗闇の狭間に立ちかける精神を、正気に留めていたのかもしれない。そして、そんな空の青さを見つめ続けながら、鏡の前を通り過ぎていく人々の数が増えれば増えるほど、年月が過ぎれば過ぎるほど、なぜか時任の浮かべる笑顔は暗くなり曇るどころか、見つめ続けた空のように透き通るように綺麗になっていった。
けれど…、今は空を見上げようとしても、気づけば俯いてしまっている。
どんなに空が青くても久保田を想うと、透き通るように綺麗だった笑顔に、会えない日々が苦しく哀しく滲んで…、今までしなかった後悔が時任の中に生まれた。
「後悔なら…、今してる…。昔よりも鏡の中にいた頃よりも苦しくも辛くも無いはずなのに、今はいくら空を見上げても気づけば俯いちまってて…、後悔ばっかで…。あんなに気を付けてたのに、あの時…、なんで鏡に手を伸ばしちまったんだろうって・・・」
そこから先は声が震えて、喉が詰まって言えなくて…、歯を食いしばる。
そして、バスルームの時と同じように、こんな顔してられない、こんなのじゃダメだ思いながら…。けれど、今も気づけば俯いてしまっていた。
何一つあきらめてなんかいないのに、前を向いて歩いてるつもりなのに…、
久保田のいない時間が、日々が長くなればなるほど、目に映る何もかもが深い後悔の中に沈んでいくようだった。
「・・・くぼちゃんは、くぼちゃんのいない世界で、俺が幸せになるって言う。きっと幸せになるって、保証するって言うんだ。けど、俺は幸せになんてなれない…、いくらくぼちゃんが祈ってくれてもなれない…」
それはとても哀しい想いの…、気持ちのすれ違いだった。
行きたい場所は、久保田の居る所。
ちゃんとそう伝えていたはずなのに、久保田は鏡の外にさえ出る事が出来れば、時任が笹川のように幸せになれると信じている。そのために自分の身体も人生も何もかもを、時任にすべてを捧げ明け渡した。
何の見返りも求めずに、優しく温かな日々と微笑みだけを残して…、
自分は閉じられた一人きりの世界へ、鏡の中の暗がりの中へと行ってしまった。
やがて来るとわかっていた別れでも、こんな風に…、久保田のすべてを奪ってしまうような別れなんて望んでいない。そんな別れだけは、決して来てはいけなかった。
こんな別れが来るくらいなら、出会わなければ良かったと…、
何度も何度も思うたびに胸の奥から込み上げてくる思い出が、あの優しく温かだった日々が、その後悔を痛みに、恋しさに、涙に変えた。
「何もいらなかったんだ・・・。くぼちゃんがいてくれたら、それだけで他にはなんにもいらなかったのに…」
橘に話していたはずが、いつの間にか呟きに、独り言のようになり…、
胸の奥から想いがあふれ出すように潤んでいく瞳が、また涙を零しそうになる。けれど、それに気づいた時任は、あふれる想いを涙を止めようと歯を食いしばった。
・・・・・・泣くな、バカ。
まだ、あきらめてなんかないのに…、泣くヤツがあるか、バカ。
バカ、バカ、バカと心の中で、何度も自分に向かって言いながら、時任は心配そうな顔をしている橘に笑いかけようとした。笑える状況や心境じゃなくても、心配いらないと大丈夫だと笑いかけたかった。
これ以上、巻き込みたくないからという気持ちからだけではなく、友達として最後まで黙って話を聞いてくれた橘に、笑ってありがとうを言いたかった。
けれど、時任が涙を笑顔に変える前に、橘が柔らかく優しく微笑む。そして、きっと運命…なのでしょうと言った。
「貴方が久保田君に出会ったのも、そして、僕が貴方に出会ったのも…、きっと運命なんです。久保田君が貴方を鏡から助け出したように、僕なら久保田君を鏡から助け出す事が出来る…、貴方の話からすると僕にはその可能性があるのでしょう?」
「・・・っ、それは」
「違うとは言わせません。違うと言うなら、僕に鏡を見せてください。核になる資格が無いのなら、きっと、すぐに見えなくなるので問題は無いはず…」
「・・・・・・」
「・・・やはり、見せられないのですね?」
久保田の顔も、その表情まで鮮明に見える橘に鏡は見せられない。凪が来るまで見え続けるかどうかはわからないが、橘が核になれる可能性は高かった。
時任に出来ないことが…、橘には出来る。
どんなに助け出したくても、どんなに会いたくても、その方法が見つからない今、希望が望みがあるとしたら、それは目の前で微笑む橘だけだった。
「別に僕は貴方達のためだとか犠牲になろうとか、そんな風に思って言ってる訳じゃないんです…。ただ、僕と貴方の利害が一致してるだけで…」
「りがい?」
「僕は・・・、この世界に居たくないんです。このまま、この世界に居たら、きっと僕はあの人を傷つけてしまう。今にも気が狂いそうだと言ったのは、嘘ではありません…。助けたいのでありません、助けて欲しいんです…、僕を…、あの人を…」
「橘」
「愛が・・・、憎しみに変わってしまう前に…」
あの人を苦しめるくらいなら、あの人の幸せを祈ることが出来ないのなら、この世から消えてしまいたい。けれど、本当に消えてしまったら、それもまた…、きっと、あの人を苦しめてしまうでしょう…。
あの人の幸せに、僕が影を落としてしまう。
しかし、もしも僕と久保田君が入れ替わる事ができれば…、
僕として久保田君が貴方と幸せになるのなら、僕は影にならなくて済みますだから…と、そう哀しい瞳で真っ直ぐに見つめてきた橘の想いに偽りはなかった。
好きだから大好きだから、離れていたい。
愛しているから・・・、手の届かない場所へ行きたい。
それは橘の願いで、祈りだった。
そして、その願いと祈りは、久保田を時任を救ってくれるかもしれない。橘の想いと言葉は、こんな救いはいらないと拒絶していた時任の心を大きく揺さぶった。
もう誰にも選択はさせないと、もう誰にもこんな想いはさせないと誓っていたのに…、会いたい気持ちが胸を苦しくしめつけて…。決して迷わない答えのはずなのに、久保田への想いが詰まって声が出なかった…、返事が出来なかった。
すると、橘が座り込んでいた床から立ち上がり、時任に向かって手を伸ばしてくる。そして、それに気づいた時任がまた俯いてしまっていた顔をあげると、橘の優しい手が時任の髪を撫でた。
「返事は、今すぐでなくても構いません。良く考えて、貴方が決めてください…。ですが、きっと、僕にとっても貴方にとっても最良の選択をしてくださると信じています」
優しい手の感触と、そんな言葉を残して橘が帰った後、時任はまだ降り続いている雨音を遮るように両手で耳を塞ぎ、冷たい床にうずくまる。けれど、橘の示した希望がいつまでも消えてくれなくて、髪に残る優しい感触に伸ばしてしまいそうになる手を白くなるほどに硬く硬く握りしめた。
「俺は・・・、どうしたらいい? どうすればいんだよ、久保ちゃん…。マグカップなんか見つめてないで、教えてくれよ…」
久保田は畳に置かれたオレンジ色のマグカップを見つめながら、とても穏やかに微笑んでいたと橘は言った。一人きりで、鏡の中のあの部屋で…。
でも、そんな久保田の姿を脳裏に思い浮かべようとしても、上手くいかなかった。
鏡を見ないようにしてはいても、時折、何かの拍子にガラスに映るのは自分であり、久保田でもある顔のとても寂しそうな哀しそうな表情ばかりで…。そのせいか、いつの間にか微笑む久保田の顔を思い出せなくなってしまっていた。
『この先、もしも…、貴方が久保田君を忘れてしまっても、久保田君は決して貴方を責めたりはしません。責めるどころか、むしろ彼は貴方に…』
微笑む久保田の顔は思い出せないのに、そんな鵠の言葉ばかりが思い出されて…、雨音と一緒にうずくまる時任の胸に響いてくる。けれど、やがて聞こえていた雨音が止んでも、どうすれば良いのか、戸惑い迷う時任の中に答えは出なかった。
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