どうすればいい…、どうしたらいい…。
何度も何度も繰り返す問いかけに、答える声は無い。橘が帰ってから、いくら見つめても何も映らない鏡の前で、ずっと時任は膝を抱えて丸くなっていた。
電気を消して丸く小さくなって、暗闇の中で一晩中雨音を聞いていた。
雨音を聞きながら、拳を握りしめ歯を食いしばり続けていた。
目の前に差し出された希望に、手を伸ばさないように…。
この希望にすがりついたりしないように…。
けれど、それは時任の考えで思いでしかなくて…、わからなくなる…。
今の久保田が橘の話を聞いて、どう思うのか、何を考えるのか…、
鏡に向かって問いかければ問いかけるほど、微笑みが思い出せないように覚えている久保田の何もかもが輪郭を失って、ぼやけていくようで哀しみが増していく。鏡の中にいた頃は、見つめ合うだけで微笑み会うだけで何もかもが伝わってきて、何もかもが伝わっていくような気がしていたのに、今はわからなかった。
たとえ凪が来て会えなくなっても、久保田と出会ったことを後悔しないと思っていたのに…、その気持ちが鏡の外に出たことで変わってしまったように…。鏡の中に行ってしまった久保田の気持ちも変わってしまったかもしれない。
橘は微笑んでいたと言ったけれど、本当にそうなのだろうか。一人きりで、ずっと一人きりでいるのに微笑んでいるなんて見間違いじゃないのか…。
そう思い始めると止まらなくて、橘の言葉が苦しく胸をしめつけた。
・・・・・・・最善の選択。
橘が鏡の中に、久保田が鏡の外に…。
それは橘自身の望みだから、最善の選択だと…、
そう橘は言うのだろうけど、本当にそうなのだろうか?
好きな人を愛している人を傷つけてしまうからと、手の届かない場所へ…、鏡の向こう側へ行ってしまうことが、本当に救いになるのだろうか?
橘は・・・、そして久保田はといくら考えても、鏡の中にいるわけではなく、核になれるわけでもない今の時任には答えが出せなかった。もしも二人を会わせたらと、一瞬、そんな考えが脳裏をよぎったが、即座に首を横に振る。
ダメだ、そんなのはダメだ…、絶対に…。
凪も核のことも前例に基づいた話で、予想外の事態が起こらないとも限らない。それに・・・、鏡の中にいる久保田に、また時任の時のように選択を迫ってしまうことになる。
でも、そう考えてしまうのも本当はただ自分が後悔したくないだけの…、もしかしたら、橘を久保田に会わせたくないだけの身勝手な考えで、思いなのかもしれないと…、
視線をゆるりと動かして、光が差し始めたベランダの窓を見つめた。
「なんで・・・、俺じゃダメなんだ…」
そう呟いた時任の声は、わずかに震えていた。
自分が助けるんだと、絶対に助けるんだと誓ったのに、自分の手ではどうにもならない現実が目の前にある。他人を犠牲にすることでしか助けられない…、そんな揺るがない現実が…。
ゆっくりと昇っていく朝日に、その明るい光に目を細めると時任は、それに向かって真っすぐに開いた手を伸ばす。そして、何もない空間を、その空気を掴むように握りしめると床から立ち上がると玄関に向かい部屋を出た。
鏡から出て初めて…、夕焼け色のマグカップにコーヒーを入れずに…。
それは時任自身が思うよりも、ずっと橘の手で差し出された希望に動揺している証拠だった。けれど、苦しい哀しい…、切ない…、会いたい…、そんな感情が渦巻く胸を抱えながら、時任が向かった先は橘の元ではなく、鵠のいる東湖畔だった。
「いらっしゃい、時任君」
時任が店の前に着くと、鵠は掃いていたほうきを止め、そう言って微笑む。そして、朝早くに訪れた時任に何も問いかけることなく、どうぞと店の中へと招き入れた。
招き入れ、ほうきを片付けてから、いつものように茉莉花茶の入った湯呑を時任に差し出す。すると、茉莉花茶の匂いが周囲に広がり、その匂いを嗅いだせいか、それとも湯気の温かさを感じたせいか、時任はいつの間にか力の入ってた肩から少し力を抜き、小さく息を吐いた。
「・・・・・・くぼちゃんのコト、見えるヤツが見つかったんだ」
息を吐いた後、ぼんやりと店内を眺めていた時任が、ぽつりと…、まるで昨日降り注いだ雨粒の残りが屋根を伝い落ちるように、そう呟いたのは鵠が自分用にいれた茉莉花茶を飲み終える頃だった。
「それは、昨日一緒に来ていた彼の事ですか?」
「・・・うかつだったんだ。見えるヤツが、こんな身近にいるなんて思いもしなかった。だから、油断して橘に鏡を見られちまって…」
「その橘君に、鏡や久保田君のことは?」
「話した・・・。俺の許可なく、鏡を見ない約束で」
「そうですか…、それで彼は何と?」
鵠にそう聞かれて、時任は苦しそうな表情で開きかけていた口を閉じる。
橘もそれを望んでいて、久保田も助けられるなんて…、
そんな都合の良い奇跡は二度と起きないとそう思うのに、やはり苦しいばかりでうれしいとは思えなかった。会いたいのに…、会いたくてたまらないのに、今も橘に鏡を見せたくない気持ちの方が強かった。
「・・・・・・橘は鏡の中に行っても、くぼちゃんにすべてを渡しても構わないと思ってる。そうなる事を望んでるんだ。くぼちゃんのためでも俺のためでもなく、自分と自分の好きなヤツのために…、そうしたいと思ってる」
「彼は、橘君はなぜそんな風に?」
「今のままだと好きな人を憎んじまうから、傷つけちまうから…、そうしたいって。くぼちゃんが橘として俺と幸せになってくれるなら、その方が良いって言うんだ」
「・・・・・・・」
「でも・・・、俺はイヤだ。自分で望んでても、くぼちゃんに会いたくても他の誰かを鏡に閉じ込めるなんてしたくない。そんなコト、絶対にしちゃダメなんだ…」
・・・・・ダメだ、絶対にダメだ。
橘が鏡を見てから、久保田の姿を見てから、何度もそう胸の奥で繰り返してきた言葉を、また鵠の前でも口癖のように繰り返す。なのに、否定すればするほど、ゆらゆらと久保田に会いたい気持ちが、心が揺れた。
「俺のせいで鏡ん中に閉じ込められて、やっと見えた希望まで潰されちまったら…。それを知ったら、くぼちゃんは俺を恨むだろうな…」
また、無意識に落ちてしまった視線の先に、東湖畔の古びてはいるが綺麗に磨かれた味のある床が映る。その床をじっと見つめながら、時任がそう言うと鵠はゆっくりと首を横に振った。
「久保田君が貴方を恨むなんて、そんなことはありません…、たとえ何があっても、どんな理由でもあり得ませんよ…。そんなコトは、貴方が一番知ってるはずでしょう?」
首を振る鵠を見た時任は、同じように左右に首を振り返す。
そして、握りしめた両手の拳を、俯いた額に強く押し付けた。
「鏡の中に、あの古いアパートの狭い部屋の中に、二人きりでいた時にはわかってた…、わかってたような気がしてたんだ…、くぼちゃんのこと。けど、ホントは何にもわかってなかったのかもしれない。だから、あの時だって鏡に手を伸ばしちまって…、こんなコトになって…」
「・・・時任君」
「教えてくれ、鵠さん…。くぼちゃんは、どんなヤツだった? 家族や友達とかは? 誰か会いたいヒトとか、帰りたい場所とか知ってるなら教えてくれ…」
「・・・・・」
「知りたいんだ…、知らなきゃダメなんだ…」
くぼちゃんのことを・・・、伸ばした手の先にあるものを…。
それがもしも後悔なら…と、そう思うと無意識に額に当てた拳に力がこもる。
しばらくして、わかりましたと返事した鵠が久保田のバイト先と、念のためにと知らされていた親戚の住所を書いた紙を差し出したが…、
自分で頼んだのに、その紙をすぐに受け取る事ができなかった。
久保田の事を知りたいのに、知るのが怖い。
知ってしまったら、橘に向かって手を伸ばしてしまいそうな自分が怖い。
何がしたい、どうしたいんだ…、俺は…。
繰り返す問いかけに、握りしめた手までもが震える。
自分のことなら、きっと迷いはなかった。
けれど・・・、鏡の中の久保田を想うと、迷わずにいられなかった。
絶対にダメだと思っていても、それが絶対に譲れないことだとしても…、
そのすべてを超えてしまいそうな想いが、時任を揺り動かしていた。
・・・・・・・・・・笑って。
そう綴った唇も、その微笑みも思い出せないまま…、
次の日から、時任は鵠に教えてもらった久保田を知る人々を、今に近い順から時をさかのぼる様に尋ね歩き始めた。本人が自分のことを聞き歩くというのはおかしな話だが、久保田が記憶喪失を装っていたため、気の毒そうな顔はされたが、特に不審に思われる事はなかった。
最初に行ったバイト先はクリーニング店と、少々いかがわしい雰囲気の飲食店。
そこを久保田の姿をした時任が訪ねると、どちらも嫌な顔をせずに自分の知る久保田の事を話してくれた。けれど、久保田はどちらのバイト先でも、自分のことはあまり話さなかったらしく、大したことは何も聞けなかった。
仕事は遅刻したり無断で休んだりすることなく、真面目に行っていて…、
いつもぼんやりとしているというか、のほほんとしている印象だれど、仕事はミスなく無難にこなしている。愛想は良いわけではないが無愛想ではなく、人付き合いも良い訳ではないが悪くもない感じで…、つまり良くわからないというのが答えなのかもしれない。
話しながら自分でもわからなくなったのか、クリーニング店の店主は腕組みをして唸り、飲食店のバイトは途中で言葉を止めて首を傾げた。しかし、そう言えばと思い出したように飲食店のバイトが、記憶喪失になる前に彼女が…、付き合ってるヒトが出来たみたいな感じだったと教えてくれたが…、その彼女の名前も住所も知らなかった。
「前はさ、バイト終わってものんびり帰ってたのに、いつの頃だったかまでは覚えてないけど、急いで帰るようになったんだよな。聞いても答えなかったけどさ、アレは絶対オンナだ…って、本人に言うのもヘンな話だけど」
「いや、何にも覚えてねぇから、話してくれると助かる。それで、そのカノジョのことは、何か言ってなかったか?」
「うーん、それが聞いても微笑んでばっかで、答えてくれなくてさ」
「・・・・・・そっか」
・・・・・・・・くぼちゃんのカノジョ。
そう聞いた瞬間、時任は胸に痛みを感じた。
でも、本当に久保田に彼女がいるなら、いたなら、探して話を聞く必要がある。もしも、今は別れているのだとしても、橘のことを思うとそうしなければならない気がした。
思い返してみれば…、微笑み合うことはあっても、久保田から好きだと言われたことはない。同じように時任の方からも、好きだと告げたことはなかった。
やがて来る別れを思うと、どうしても言えなかった。
けれど、その想いを胸に、ずっと…、いつも抱きしめていた。
あの頃も・・・、今も変わらずに・・・。
行く時よりも重くなった足取りで帰る途中、すぐにはマンションに帰らず…、東湖畔へと足を向ける。昨日の帰り際、通っていた学校を調べてくれると言ってくれていたから、それを聞くためというのもあったが、何となく真っ直ぐ帰る気分にはなれなかった。
鏡のある…、あの部屋へ…。
すでに通いなれた東湖畔への道を歩いていると、ぽつりと落ちた大きな雨粒に視線を空へと向ける。そうして初めて、また自分が下ばかりを、アスファルトを見つめながら歩いていたことに気づいた。
「・・・・・・また、雨か」
橘をマンションに連れて帰った日は、雨だった。
そして、久保田が時任のいる鏡を見た日も、雨だったという。
なぜか哀しみの苦しみの始まりの日は、いつも雨が降り注ぎ、すべてを覆いつくし濡らしていく。雨に降られながらも重い変わらぬ足取りで東湖畔にたどり着くと、髪から雨粒を滴らせながら、ドアを開けて中に入った。
すると、新しい骨董品を仕入れたのか、昨日見た時と所々品物が変わっている。
趣味なのか、好きなのか、カエルの灰皿は相変わらず置かれているのだが、変わっている品物の中で時任の目を引いたのは、使いやすそうなシンプルな柄の茶碗だった。
二つ並べて置かれていて、その二つが寄り添っている姿を見ると…、
なぜか、少しだけ目の奥が熱くなる。
そして、耳を打つ雨音が…、胸の奥に響いてきて痛い。
しばらく、時任が茶碗の前で立ち尽くしていると、頭の上にふわりと柔らかなタオルがかけられた。
「その茶碗…、気に入りましたか?」
タオルと一緒に降ってきたのは、鵠の声だった。店に入った時は姿を見かけなかったのに、いつの間にか鵠は時任の背後に立っていた。
驚いて小さく肩を揺らしたが、タオルを頭にかぶったまま、時任は振り返らない。けれど、鵠はそんな時任にどうしたのかと聞くこともせず、いつもと変わらない調子の声で、今でしたら、雨の日特価でお安くしますよと言った。
「雨の日特価ってなんだよ…、ヘンなの」
そう言って笑ったつもりが、上手くいかなくて顔がひきつっているのが自分でもわかる。でも、それもかけられているタオルのおかけで、いつものように茉莉花茶を入れるために移動した鵠に見られずに済んだ。
時任はそのことにホッとしたように小さく息をつくと、タオルで乱暴に頭を拭く。すると、鵠は茉莉花茶を入れながら、今ならカエルの灰皿もお付けしますからと温かな湯気の向こうで微笑んだ。
「特価と言っても儲けは十分もらってますから、問題ありませんけどね」
「…って、いつもはどんだけ吹っかけてんだよ」
「ふふふ、それはヒミツです」
そこまで言うなら一体いくらなんだろうかと聞いてみれば、一つたったの百円だと言う。だから、拍子抜けして思わず、はぁ?とマヌケな声を出すと、なら千円でと怪しい微笑みを浮かべたので、慌てて百円で商談を成立させた。
「べつに茶碗なんて、買うつもりなかったのにな」
「そういうものですよ、物でも人でも出会いというのは…」
「・・・・・・」
結局、雨が小降りになるまで、東湖畔で茉莉花茶を飲み、黒いカサを借りてマンションに帰る事になった。買うつもりのなかった茶碗と、調べてもらった久保田が通っていた学校の名前と住所を持って…。
けれど、今日知った彼女のことは調べなくてはならないのに、なぜか鵠には言えなかった。そして、どうせ学校の時の友達とか知り合いとかに、色々と聞いていく内にわかるだろう…と自分で自分に良い訳しながら、濡れた黒いアスファルトを見つめながら一人家路を急いだ。
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