グリーンレクイエム 26










 『記憶喪失って、なんかドラマとかでしか見た事ないし、いきなり言われても信じらんねぇけどさ。 マジで雰囲気とか喋り方まで違う気がするし、なんか納得しなくもないっていうか…』
 『どこが違うって、んー…そうだな。前は色々とウワサも聞いてるし、俺らとはなんか違うっていうか近寄りがたいっていうかそういうのあったけど、今は親しみやすいって感じ?』
 『ウワサ? あぁ…、まぁ、ウワサはウワサだし、俺は良く知らねぇけど、一人で十人半殺しにしたとか聞いたことがあるぜ』
 『他は・・・、中学の三年の終わりの二か月くらいしかいなかったし、わからねぇけどさ。本人に言うのもどうかって感じだけど、あんま良いウワサは聞かなかったな』

 『だからさ、記憶喪失になって、逆に良かったんじゃねぇ? 忘れてるなら、忘れたままの方がいいだろ?』

 久保田のことを知るために、久保田の時間をさかのぼる。
 そうして、今から高校時代、中学…、そこから先へと進めば進むほど、なぜか人々の表情は曇り口は重くなる。しかも、聞かされるウワサの類は真偽を確かめようにも、小学から中学までの転校回数が尋常ではなく多く、時には一か月もいなかった所もあるせいか友人らしい友人も見つからない。
 母親はいたらしいが、12歳の頃に病気で亡くなっていて…。父親はすでに亡くなってるのか認知されていないのか、一切わからなかった。
 教えてもらった親戚に連絡先に電話してみても、親戚って言っても関わり合いは無いし、何も知らないから話せることはないと言われて一方的に通話を切られてしまった。
 久保田のことを聞き歩いて耳に入るのは、悪いウワサと良くない話ばかり。
 けれど、だからだろうとウワサだけで、久保田の事を決めつけたりはしたくなかった。

 「・・・今日はどうでしたか? 久保田君について何か聞けましたか?」

 茉莉花茶の入った湯呑を両手で包んだまま、飲む様子のない時任に、そう鵠が声をかけてくる。久保田を知る人を尋ね歩いた後、時任はいつもすぐにはマンションには帰らず、必ず東湖畔へと寄っていた。
 すると、鵠は決まったように、そう時任に向かって聞いてくる。
 けれど、時任は湯呑を見つめたまま、首を横に振った。
 初めは聞いたことをそのまま鵠に話していたが、変わり映えのしない悪いウワサと良くない話ばかりを口にするのが嫌になり、何も言わなくなった。
 久保田の過去はケンカと暴力一色に染まっていて、中には一人で暴走族を一つ潰したとか、ヤクザとやりあったとか、そういう明らかに胡散くさいウワサを口にする者もいる。しかし、それが真実かどうかはともかくとして、久保田が他人からそういった目で見られていたことは事実なのだろう…。
 優しい久保田しか知らない時任にとって、他人の口を通して聞く過去の久保田はまるで別人のようだった。

 「・・・・・・ホントは知ってたんだろ?」

 相変わらず閑古鳥の鳴いている店内で茉莉花茶を飲んでいた鵠に、そう言って久保田の過去を知ることで、ようやく気づいた事を聞いてみる。すると、首を縦にも横にも振ることなく、鵠は黙ったまま答えなかった。
 けれど、おそらく鵠は今でも鏡を自分に渡し、久保田を忘れた方が良いと思っている。核となれる橘が現れた今でも、きっと、それは変わっていない。
 そんな鵠が久保田の過去を知るのに反対するどころか協力的なのは、改めて考えてみるとやはりおかしかった。
 「俺が迷ってるから、くぼちゃんの過去を知ればふんぎりもつくだろうって…、そういうつもりで教えたのか?」
 黙ったまま答えない鵠に、時任はそう重ねて問いかける。
 すると、さっきとは違い、今度ははっきりと鵠は首を横に振った。
 「いいえ、確かに通っていた学校や住んでいた場所…、久保田君の履歴を調べている内に、色々とウワサを耳にする機会はありましたが、そんなつもりで教えたわけではありません。ただ、久保田君の過去を知ることで貴方の迷いが晴れるなら、その方が良いと思っただけです。たとえ、貴方がどちらを選んだとしても…」
 「鏡を渡して忘れた方が良いって、今も思ってるのにか?」
 「それは否定しませんが、それでも私にはわかりません。何が正しくて間違っているのか、それがわかるのはきっと今ではなく、もっと先。もしも、そんな先がわかる人間がいたら、きっと…、その人は神様にもなれるでしょうね」
 「・・・・・・」

 「そんな大それたものではありませんから、迷ってるんですよ…。たぶん貴方だけではなく…、私も…」

 たとえば、目の前に2本の道があるとして…、
 そのどちらへ行ったとしても、どちらの道を選んだとしても誰かを不幸にしてしまうのだとしたら、神様はどちらの道を指で指し示すのか…。
 けれど、その答えを聞いたとしても、きっと迷いなく足を踏み出せない。誰もが幸せになる道など無い…、それが真実だとしても目で心で無い道を探してしまう。
 うつむく心にからみつく想いは、夕焼け空の下の影のように長く長く伸びて…、
 やがて来る夜に膝を抱えても、それでも迷う気持ちは消せなかった…。
 時任は目の前の湯呑に手を伸ばすと、それを両手で優しく包み込む。そして、じんわりと伝わってくるぬくもりに少し目を細め、手の中で揺れる茉莉花茶の水面をうつむいてばかりの瞳に映した。
 しかし、時任が何か言おうとして口を開きかけた瞬間、まるでそれを見計らったのかのように電話の鳴る音が店内に響く。すると、鵠はちょっと失礼しますと言って、電話のあるらしい店の奥へと消えた。

 「・・・・・・・・くぼちゃん」

 時任の口から久保田の名が、ぽつりと揺れる茉莉花茶の水面に落ちる頃、電話を終えた鵠が戻ってきた。そして、電話がかけてきた相手とその内容を時任に告げた。
 すると、それを聞いた時任は、意外な相手にわずかに目を見開く。
 時任と話をしたいと、記憶喪失になった久保田と話したいと言ってきたのは、学生時代の同級生やバイト先の人間ではなく、血の繋がりのある人間。久保田が残した連絡先とは違う…、けれど、過去に久保田が暮らしたことのある家の人間だった。
 「久保田君の母方の従兄弟に当たられる方だそうです。私と貴方が色々と久保田君のことを…、自分の事を調べていると聞いて話をしたいと…」
 「いとこ」
 「どうしますか? もしも気が進まないなら、私が話を聞いてきますが?」
 「・・・・・・・いや、俺が行く。一人で」
 「そう、ですか」
 待ち合わせの場所は、橘とも良く行く近くのファミレス。
 そこで明日の午後一時に、久保田の従兄弟と会える。鵠は少し心配そうにしていたが、二人で話した方が色々と聞けるかもしれないと考えて一人で行く事にした。
 従兄弟なら、久保田の母親のことや小さな頃のことも、短期間で転校と引っ越しを繰り返していた訳もわかるかもしれない。久保田の過去が、ケンカと暴力に埋め尽くされてしまった訳も…。
 けれど、そうして久保田の事を知っても、時任の目の前の道は変わるはずもなく、どうしてもどうやっても2本しかなかった。
 冷めてぬるくなった茉莉花茶を一気に飲むと、時任は手で包み込んできた湯呑を鵠に返す。そして、店内で見つけて鵠に乗せられ、思わず茶碗を買ってしまってから習慣になってしまったのか、並べられている品々を眺めた。
 「あんま気にしてないときはわかんなかったけど、並んでんのって骨董品ばっかじゃなくて、フツーに雑貨とかも売ってんだな」
 「えぇ、見て気に入れば、新しいものも置いていますよ。たまに貴方のように、買ってくださるお客様もいますし…」
 「・・・・・なんか罠にハマった気分」
 「ふふふ、まいどあり…とか言うのでしょうかね、この場合」
 茶碗を買ってしまってから、それに合わせるように皿や湯飲みや色々と気に入ったものを見つけるたびに手に取るようになった。しかも、それは必ず二つ揃ったもので、一人暮らしにも関わらず時任はいつも両方買った。
 
 「・・・簡単に忘れてしまえるものなら、人はそれを恋とは呼ばなかったのかもしれませんね」

 新聞紙に包まれた二つのカレー皿を、大事そうに抱えて帰る時任の背中に向かって鵠がそう呟く。けれど、その呟きは時任の手によって開かれたドアの軋む音に掻き消され、残された鵠はガラスのドアの向こうの空の青さに目を細めながら、そっと…、小さく息を吐き出した。

                                                                           2011.11.27
                                                         
                                                                                           次 へ
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