グリーンレクイエム 27










 夜になり目を閉じると見る夢は、いつも同じ…。


 夢の中の時任の姿は鏡を出る前の、昔の少年の姿に戻り。
 薄暗い蔵の中で男に組み敷かれ、突き入れられ、揺さぶられる。
 そして…、いつものように久保田の身体を汚して…。
 けれど、その日の夢だけは違っていた。
 押し倒され、組み敷かれるまでは同じだったのに…、
 いつもと違う名で呼ばれ、反射的に見上げた先には天井ではなく、女の柔らかで大きな胸があった。

 『まこと・・・、ねぇ、いつもみたいに私を抱いて…』

 暗いせいか顔は見えなかった。
 なのに、柔らかな曲線の胸と、身体と身体が繋がる場所…。
 それだけが、なぜか鮮明に見えて…、心臓がどくんと嫌な音を立てた。
 恐る恐る自分の手を目の前にかざしてみると、それは時任の手ではなく…、もっと大きな久保田の手で…。胸を焼くような激しい痛みを感じながら、再び自分の上で久保田の名を呼び蠢き喘ぐ女を見上げる…。
 けれど、これは夢だとわかっていても、あの男の時と同じように夢はなかなか覚めない。一分一秒でも早く、久保田と繋がる女を払いのけたいのに、握り込むように絡み付いてきた女の指すら拒めなかった。
 そして…、また久保田を汚して…。
 吐き気がして気持ち悪くて…、うずくまったままで朝を迎えた。


 ・・・・・・・・・・・・・・カラン。


 膝に置いたメモ帳代わりにしているオレンジ色の日記帳を握りしめながら、テーブルに置かれたガラスのグラスの中、音を立てた氷の音に、時任はハッと我に返り壁にかけられている時計を見る。そう…、ここはマンションの部屋ではなく、久保田の従兄弟と午後一時に待ち合わせをしているファミレス。
 けれど、昨日の夢を思い出し、ふと気づくと暗い瞳をテーブルに落としていた。
 昼間のファミレスはそれなりに込み合っていたが、そのざわめきはどこか遠く…、過ぎていく時間は遅い。待ち合わせの時間より少し早めに来てしまった時任は、相手が座っていれば見つけるというので、今、座っている席に店員に案内してもらっていた。
 けれど、さっきから時任の中で聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちがせめぎ合って揺れている。淫らな夢を見て久保田の身体を汚したように、今度は過去を知ることで、優しく温かだった久保田との日々まで汚していくようでつらかった。
 久保田の微笑みも思い出せないまま、あんな夢まで見て…。久保田が遠くなっていくようで、知らない誰かになっていくようで怖かった。
 何もかもが…、壊れていくようで哀しかった。
 
 「・・・やっぱ、見た目は変わんねぇか」

 じっとグラスの中の氷が解けていくのを眺めていると、少しして影と一緒に笑みを含んだ耳障りな声が時任の上に落ちてくる。時任がゆっくりと顔を上げて視線を向けると、そこには声と同じように、とても好意的とは言い難い時任を蔑むように見下げる目があった。
 「アンタがくぼ…、俺の従兄弟か?」
 「見ればわかるだろ」
 「たぶん知ってるだろうけど、階段から落ちて頭打ったらしくて忘れちまってる。アンタの名前はなんていうんだ?」
 「晃一…って、そういうフリしてるだけとか?」
 「そう思うなら、そう思えば良い」
 「なら、何も話さないぜ」
 「何も話す気が無い、ただウワサ聞いてカオを見に来たってだけなら、もう用は済んだだろ。帰れよ。こんなトコでのんびり見世物になるほど、俺はヒマじゃねぇんだ」
 たとえ知りたくても久保田をあんな目で見るヤツに、教えてくださいお願いしますと頭を下げる気はない。時任はぎゅっと机の下で拳を握りしめたが、晃一と名乗る男の挑発に乗らずに静かにそう言った。
 すると、晃一は軽く肩をすくめ、通りかかった店員にコーヒーを注文してから、時任の前の席へと移動し座った。
 「そう怒るなよ。記憶喪失ですって言われて、そう簡単にハイそうですかーなんて、信じられるもんじゃねぇだろ」
 「・・・なら、なんでわざわざ連絡なんかしたんだ。信じられないなら、他の親戚の奴らみたいにほっときゃいいだろ」
 「・・・・・・へぇ」
 「なんだよ?」
 「ホントかどうかはともかくとして、別人みたいなのは確かだな。口調も話し方も表情も違う…が、一番違うのは目か」
 「目?」
 他の誰に聞いても違うのは雰囲気だとか曖昧な答えしか返って来なかったが、従兄弟の晃一の口から、初めて明確な答えを聞いた。だが、次の瞬間に晃一は問いかける時任を見ながら、くくっとおかしそうに笑い、自分の額にかかっていた前髪を右手で搔きあげる。
 すると、額に大きな傷跡があるのが見えた。
 「俺のこの傷つけたのは、お前なんだぜ? それを忘れちまったらしいって聞いた優しい俺は、わざわざ思い出させてやりに来てやったんだよ」
 「それが・・・、他の奴らと違って連絡してきた理由か」
 「まぁ、別にそれだけってワケでもねぇけどな」
 「・・・・・・」
 そう言いながら、嫌な笑みを浮かべる晃一は相変わらず蔑むような目で久保田を見る。けれど、額の傷を見せられた後では、何も言えず黙り込むしかなかった。
 何の理由もなく、そんな真似をしたとは思えない…、思いたくない。
 久保田のことを信じてる…、信じたい…。
 でも、そんな思いを抱きながらも思い出せない微笑みが、ぼやけていく久保田の姿が時任の心に暗い影を落として…。晃一の口から語られる久保田の過去を何も言わず、ただ静かに聞いていた。
 久保田が晃一の家に預けられたのは晃一が8歳、そして久保田が4歳の頃。
 母親が病気で入院したことが原因で、それから三年間は晃一の家に居たという。今まで聞いた話からすると、おそらく…、この家に居たのが一番長い。
 晃一は鼻で笑うように、母親は男なら誰にでも足を開く淫乱女、そんな女の産んだガキってのが、お前だと言った。
 「いつも人を馬鹿にしたような目で見やがるし、無口で無表情で気味悪りぃし、おまけにいきなりブチ切れて俺の頭を石で殴りやがった。こーいうのって、親も親なら子も子ってヤツ? こっちは親切で引き取って面倒見てやってんのに、恩を仇で返しやがって」
 「・・・・・・・」
 「マジで頭蓋骨にヒビ入ったんだぜ、コレ。なのに、たかが階段から落ちたくらいで、忘れちまうとか許せねぇとか思うだろ? …お前も」
 「・・・・・・・」
 晃一の頭を石で殴り怪我を負わせ、久保田は晃一の家から他の家へと預けられることになった。そして、その家は一年どころか一週間で居られなくなり、次の家へ…。
 しかも、今度の原因は暴力ではなく・・・・・、猫だった。
 「ホントに何にも覚えてねぇのかよ? 自分でやったことだろ? 猫を殺してカバンに詰めるとか、マジで正気じゃねぇし気味悪りぃし、追い出されて当然だよな」
 晃一に怪我を負わせた久保田は、なぜか猫を殺した。そして、その猫を自分のカバンに詰めて、それを預けられた家の人間に見つかり追い出された。
 それからは、次から次へと流れていくように、転々と家が変わり…、
 ようやく落ち着いたのが、あの古いアパートなのかもしれない。そこに落ち着いたせいなのか、バイト先では悪いウワサは一つも聞かなかった。
 なぜ、いきなり石で殴ったんだろう…、
 なぜ、猫を殺してカバンになんか詰めたりしたんだろう。
 そう時任が疑問を独り言のように口にすると、晃一は話している間に運ばれてきていたコーヒーを飲みながらまた鼻で笑い、本人が忘れてんのに俺が知るかよと言った。
 「それよかさ。ウワサで聞いたんだけど、お前…、本家脅して金を巻き上げたって? あの鬼当主から、どんなネタで巻き上げたんだよ? まさか、 実はお前の父親が当主だって、あの女の妄想っぽいヤツか?」
 「本家の当主? 父親?」
 「あぁ、昔、親戚連中の間で、そういう話があったらしいぜ。どうせ、あの女の妄想か嘘だろうけどさ、ネタって言えばそれくらいしか思いつかねぇから言ってみただけだ。それよか金だよ、金、けっこうな額なんだろ? ちょっと、それ俺にも分けろよ」
 「・・・・・・・」
 母親が早くに亡くなっているのは、すでに聞いて知っている。久保田の通っていた学校のクラスメイトが、本人ではなく引き取った家の人間…、子供から聞いていた。
 けれど、父親についての話を聞いたのは初めてだった。
 でも、それが本当か嘘かはわからない。
 晃一も金をせびるばかりで、本当に何も知らない様子だった。
 時任は一つため息をつくと、自分の前にも置かれていたコーヒーを一口だけ飲む。それから、財布を取り出して千円札をテーブルに置いた。
 「脅したとか巻き上げたとか、知らねぇもんは知らねぇよ。それこそ単なるウワサだろ? 思いつくネタが妄想なら、その…、当主ってヤツも金なんか出すワケねぇし」
 「・・・・・いつまで、すっとぼける気だ? いい加減、演技やめろよ」
 「話はしても、結局、信じてねぇんだな」
 「素直に金を出せば、信じてやってもいいぜ?」
 「知らねぇもんは知らねぇよ。話がそれだけなら、俺は帰る」
 「このネタ…、バラまくって言ってもか?」
 「やりたければやれ、勝手にしろ。そんな真似をしても無いものは無いからな、カネもネタも…、記憶も」
 時任が膝の日記帳を手に座っていた席から立ち上がると、晃一がクズ野郎と吐き捨てるように言う。だが、ぎゅっと拳を握りしめただけで、何も言い返さずに黙ったまま、その場を後にした。
 確かに俺は何も知らない、知るはずがない。
 けれど・・・とファミレスを出てから握りしめていた拳をゆっくりと開くと、時任はそれに合わせるようにゆっくり、ゆっくりと息を吐き出した。

 「俺には・・・、何がホントかわからない」
 
 そう呟いた時任の手にある日記は数日前に買ったもので、その中には今まで聞いてきた久保田のことが書かれている。白い表紙を真似るつもりはなかったけれど、偶然、オレンジ色の表紙の日記を見かけて衝動的に買ってしまって…、
 それで、せっかく買ったのだからと書くことにした。
 あの夕暮れ色のマグカップに良く似た色の…、その日記に久保田のことを…。
 けれど、書けば書くほど、良くない言葉ばかりで埋まっていって…、
 そして、今日もまた同じように、良くない言葉ばかりで埋まってしまいそうだった。
 額の傷とカバンの猫…、そして、脅して巻き上げた大金。
 ファミレスから重い足取りで東湖畔に向かいながら、コツンと石を蹴るとそれはコロコロと転がり、少し先にある排水溝の穴に落ちる。それはまるで…、俯いてばかりいる今の時任の心のようだった。










 カタン、カタン、コトンコトン・・・、カタン、カタタン・・・・・。

 今、窓の向こうに見えるのはマンションの部屋からの景色ではなく、流れていく田園風景。ファミレスで話を聞いた次の日、時任は走る列車の振動に一人揺られていた。
 列車の座席に座り、膝の上にオレンジ色の日記を乗せて…。
 けれど、この列車に乗って向かう先にあるのは、久保田の過去ではない。ずっと、久保田のことを知りたくて調べ続けていたのに、今、時任は自分の過去に向かって走る列車に乗っていた。
 時任が閉じ込められていた蔵…、その蔵のある屋敷の場所。
 そこには鵠も、そして久保田も行ったことがあるらしい。
 でも、時任自身は昨日まで、あの蔵に行きたいと思ったことはなかった。
 行きたい場所ではなかった…、たぶん今も…。
 でも、それでも行こうと思ったのは、ファミレス帰りに東湖畔に行く途中、偶然出会った橘の言った言葉が原因だった。

 『・・・貴方を助けたかった、幸せになって欲しかった。それは本当だとしても、もしかしたら、彼の中にすべてを捨ててしまいたい、現実から逃げ出したい気持ちもあったのかもしれないと…、そんな気がします…』

 そう感想を言った橘が読んだのは、今、時任の膝にあるオレンジ色の表紙。
 その中に書かれた、久保田のこと。
 それを俯く時任にどうかしたのですかと優しく微笑む橘に差し出したのは、そう…、もしかしたら、読めば鏡の中に行きたいなんて言わなくなる。前言を撤回してくれるかもしれないと、無意識に、そんな期待をしていたのかもしれなかった。
 橘がやはり行きたくないと、そう言ってくれれば…、
 あってはならない希望を打ち消してくれるならと、そう期待しながら…、消えるかもしれない希望に、痛く苦しく胸がしめつけられる。 矛盾していると自分でもわかっていながら、その胸の苦しみも痛みも止められなかった。
 
 『・・・もしも、気が変わったら』
 『いいえ、僕の気は変わりません。言ったでしょう…、僕が鏡に手を伸ばしたいのは貴方のためではなく、僕のためだと』
 『けどっ』
 『それに、もしも僕が言ったことが事実だったとしても、最善の方法であることに変わりありませんよ。貴方は鏡の外、久保田君も僕として外に出るなら、周囲が何を言って来ても問題はないはずです。貴方は・・・、久保田誠人は記憶喪失なんですから』
 『・・・・・・・・』
 『僕も記憶喪失ではありませんが兄弟もいませんし、両親は昔から仕事が忙しくて疎遠。中身が入れ替わったところで、何の問題もありませんよ』

 必要なことは教えますからと橘の決心は、揺らぐどころか強くなったように見えた。
 今も変わらない松本への想いが…、どこまでも橘を強くして…。
 そして、その橘の想いの強さが、時任の心を強く揺さぶる。でも、それでも首を縦に振らない時任に、橘は一度で良いから、久保田と話をさせて欲しいと言った。
 
 『きっと、首を縦に振らせてみせますよ。たとえ、貴方の気持ちが変わっていたとしても・・・・・』

 会いたい…、貴方の気持ちが変わってしまっていても…。
 僕は彼のために…、僕自身のためにうなづかせてみせる。
 そんな橘の言葉に、時任は反射的に俯いた視線を上げ、胸の奥から込み上げてきたものを吐き出すように叫ぼうとする。けれど、それは喉を、肩を震わせただけで、なぜか声にはならなかった。
 また、連絡しますと橘が去っても、何も言えなかった。
 会いたい気持ちも、久保田への想いも何一つ変わっていないのに…、
 手の中のオレンジ色の表紙が、その中に綴られた捨ててしまいたかったかもしれない、逃げたかったかもしれない過去が、時任の喉に言葉を想いを詰まらせる。何も言えなくて、胸に想いが詰まって苦しくてわずかに滲んだ視界が…、揺れた。
 

 カタン、カタタン・・・・・、コトン・・・・。


 橘と別れた後、オレンジ色の表紙を抱え、いつものように東湖畔へ行き…、
 そして、鵠に蔵の場所と行き方を聞いた。
 あの薄暗い蔵の中に戻って、それで何かが変わる訳じゃない。けれど、それでも自分が鏡に手を伸ばした場所に、戻って考えたいことがあった。
 
 「こんなに会いたいのに、会いたくて胸がくぼちゃんでいっぱいなのに、さ…。気持ちが変わるなんて…、あるワケねぇのに…」

 そう呟き列車の窓に映る久保田の…、自分の顔にコツリと額を寄せる。
 それから、眠るようにゆっくりと目を閉じると、どこからか自分を呼ぶ久保田の声が聞こえてくる気がした。
 
                                                                           2011.12.10
                                                         
                                                                                           次 へ
    前 へ