グリーンレクイエム 28










 ・・・・・時はいつも止まらずに流れて続けていた。


 蔵の中にいた時も鏡の中にいた時も…、変わらず…。
 けれど、時任の周囲には、それを感じさせるものがあまりにも少なかった。
 特に精神だけの存在になり、少年のままの姿でいた鏡の中では、おぼろげに映っては消え、映っては消えていく人々だけが移ろいゆく時を感じさせるものだった。
 だから、列車に乗って辿り着いた場所で、誰も居なくなり、荒れ果て崩れかけた屋敷を見た瞬間、記憶の片隅にうっすらと残る姿とのあまりの違いに言葉を失う。こんな風になっているのではないかと予想していたけれど、想像と現実の差は大きかった。
 屋根には大きな穴が開き、壁は崩れ、とても中に入れる状態じゃない。
 庭には草が生い茂り、綺麗に切りそろえられていたはずの庭木は歪な形で、それは誰の目から見ても廃墟だった。
 鵠から聞いていたが何となく心許なくて、駅の近くの商店で屋敷への道や尋ねた時、店番をしていたお婆さんが幽霊屋敷と呼ばれていると言っていたが、本当にその通りで…。しばらくの間、時任は呆然と屋敷の前で立ち尽くしていた。
 もしも、あのまま鏡に手を伸ばしていなければ、今の時任の年齢は90を越えている。鏡の中にいたのは、およそ80年くらいだと頭では理解しているつもりでいた。
 自分の身体が笹川哲司として、すでに永遠の眠りについていることも…。
 けれど・・・、廃墟となった屋敷を見て感じた時間は、あまりにも長かった。

 「そう…、だよな…。80年っていったら赤ん坊がじぃさんとか、ばぁさんになるくらいの時間だもんな…」

 見たことがないものや知らないものばかりで満ち溢れた外の世界は、時任にとっては別の世界。鏡の外にいた時もほとんどの時間を蔵の中で過ごしたせいか、流れてしまった時間の長さを感じさせるものではなかった。
 けれど…、ここだけは違う。
 ここだけは、時任に過ぎてしまった時の長さを感じさせる。
 しばらく立ち尽くした後、ようやく前に足を踏み出した時任は、自分が閉じ込められていた蔵に向かった。一歩一歩…、過ぎてしまった時を踏みしめるように、生えている雑草や苔を踏みしめながら…。
 すると、やがて目の前に屋敷と同じように、崩れかけた蔵が現れる。ここに来る前に、鵠から手渡された鍵はポケットの中に入っていた。
 昔は一度も見ることがなかった、それが今はポケットの中にある。
 とても不思議だった。その鍵を自分の手でつかんで、蔵の扉を開けている今は現実なのに、どこか夢を見ているようだった。

 ・・・・・・・・・・・・ガチャリ。

 カギが外れる重々しい音が響き、伸ばした手で扉を開ける。けれど、暗いと思っていた蔵の中は明るく、驚いて視線を光が差し込む方向へと向けると、そこには大きな穴が開いていた。
 埃の積もった床には、何者かが歩いた足跡が残っている。
 時任がその足跡をゆっくりと踏むと、二つは寸分違わずピッタリと重なった。
 自分ものだけど、自分のものではない足跡。
 白く残るそれを見つめながら、時任は細く長く息を吐く。
 何も出来ないし、何もするつもりもないと言っていた久保田が、こんな所にまで来てくれていた。その事実がとてもうれしくて…、とても哀しくて…。
 昔と同じように小さな小窓を見上げると、オレンジ色の表紙を持つ手に力がこもる。そうして、ゆっくりと目を閉じると窓の外に広がる砂が脳裏に浮かんだ。
 鏡の中に入ったばかりの頃、窓の外が気になって家具を動かしたり、上に乗ったりして見たことがある。初めて蔵に入れられた時と同じように…。
 けれど、せっかく苦労して見たのに、見えるのは砂ばかり。
 しかし、以前はどんな風景だったのか、思い出そうとしても思い出せなかった。窓から見える青空と薄暗い蔵の天井しか…、揺れる自分の足しか思い出せなかった。

 「・・・鏡があった場所は、ココだったよな」

 ギシリと…、かつて男に組み敷かれていた床を踏み、鏡のあった場所に近づく。そして、あの日を再現するように、ゆっくりと右手を伸ばした。
 今ではなく、過去を見つめるように目を閉じて…。
 けれど、その手が閉じた過去に、あの日に触れる前に声が聞こえた。
 その声に驚き伸ばした手が揺れ、反射的に止まる。そして、閉じていた目を開け、声のした方向を…、蔵の入り口を見ると見覚えのある人物が立っていた。

 「アンタは、確か店の…」
 
 蔵の入り口に立っていたのは、駅前の店にいた人物。
 店番をしていた、お婆さん。もしかして、ここに何か用事でもあったのかと、時任は自分を見つめるお婆さんを見つめ返しながら首を傾げた。
 すると、お婆さんは手に持っていた小さな二枚の紙のようなものに視線を向ける。それにつられるように時任も二枚の紙を見たが、その瞬間、あ…と小さく叫んで、持っていたオレンジ色の表紙をパラパラとめくった。
 けれど、そこに挟んでいたはずの写真が無かった。
 端が茶色く変色した二枚の写真は、最初は白い表紙に挟んであって…。それを買ったオレンジ色の表紙に挟みかえた。
 二枚の写真の内、一枚は笹川と奥さんらしき人と子供と写った、とても温かで幸せそうな家族写真。そして・・・、もう一枚の写真は、とても顔立ちの整った綺麗な女の人が一人で写っている写真だった。
 笹川の顔は元は自分の顔だから、いくら年を重ねても見ればわかる。
 けれど、とても綺麗だけれど、とても寂しそうにも見える女の方は、いくら見つめても誰なのかわからなかった。
 
 「写真…、落としたみたいだ。届けてくれて助かった、ありがとう」

 入り口に立っているのを見た時は、なぜだろうと不思議に思ったが、写真を届けに来てくれたのなら不思議でも何でもない。だから、手の写真を見つめるお婆さんに近づきながら、そう言って時任は手を差し出した。
 すると、お婆さんも蔵の中に入り、時任に近づく。
 けれど、写真を持った手は、差し出された手の手前まで伸ばされはしたが、そのまま何かを迷うように止まってしまった。もしかして…と思い写真をのぞき込んで見てみたが、オレンジ色の表紙に挟んでいたもので間違いはない。
 店では普通に話していたのに、さっきから話しかけても何も答えないのも気になる。どうかしたのかと再び不思議に思い時任が首をかしげると、お婆さんは何かを決意したかのように、写真に落としていた視線を上げた。

 「・・・もしかして、ここに映ってるのは、アンタじゃないのかい?」

 お婆さんがそう言って指で指し示した写真には、笹川が写っている。
 けれど、どう見ても写真の笹川と、今の時任は似ていなかった。
 年齢も全然違うし、髪形も目鼻立ちも似た所はまるでない。だから、もしかして目が悪いんじゃないかと、そう思った時任は違うと言おうとした。
 しかし、時任がそう言う前に、やっぱりと呟く声がして…。
 お婆さんはすまないね…と、時任に向かって軽く頭を下げた。
 「この蔵が開いてるのを見て、ちょっと、昔聞いた話を思い出してねぇ。落とした写真も写真だもんで、もしかしたらと思ったけども…、やっぱり、あれは奥様の夢の話で、本当の話じゃないんだろうねぇ…」

 ・・・・・・・・奥様。

 目の前のお婆さんは見た目で判断するなら、60歳半ばか後半辺り。
 もしも、時任が凪に手を伸ばさず、時の流れのままに年を重ねていたとしたら、時任の方がお婆さんよりも30歳近くも年上になる。なら、お婆さんの言う奥様というのは、笹川の奥さんと…、綺麗な女の人と一体どちらなのか…。
 蔵と写真と、夢の話と…。
 そんな話をされて、気にならないはずがない。
 落とした写真を謝罪と一緒に受け取りながら少し迷い…、けれど、立ち去りかけたお婆さんの背中に声をかける。そして、振り返ったお婆さんの前に、持っていた二枚の写真をかざして見せた。
 
 「・・・もしも、ここに映ってるのが俺だと言ったら。しかも、最近までずっと鏡に中に居たと言ったら、その奥様の夢の話を聞かせてくれる? いや、聞かせて欲しいんだ…、知っているコトがあるなら教えて欲しい。たとえ夢みたいで信じられない話でも、きっと俺には真実だから…」

 時任がそう言うと、お婆さんは驚いたように大きく目を見開く。
 それを見た時任は、やっぱり鏡の中にいたなんて信じてもらえないのかと…、本当の事を言ったのは失敗だったかと思ったが、大きく見開かれた目に涙が滲むのを見て違う事がわかった。
 「本当に鏡の中に…、いたのかい? 嘘じゃなくて、本当のことなのかい?」
 少し震えた声でそう言ったお婆さんに向かって、時任は迷わずうなづく。
 そして、嘘じゃない本当だ…、この蔵の中にあった鏡の中にいたと言った。
 すると、お婆さんはそうかい、そうかいと何度も何度もうなづき返した後、良かったねぇと泣き笑いのような表情になる。それから、時任に歩み寄り、手に持っている写真をじっと見つめると奥様…と、笹川の奥さんではなく、綺麗な女の人の写真に向かって呟いた。
 「アタシの子供の頃は、ここもまだ幽霊屋敷なんて呼ばれてなくてねぇ。もっと昔は使用人もたくさんいて、とても賑やかだったらしいけども、その頃は奥様が一人で住んでいらっしゃったんだよ…」
 「奥様って、この写真の?」
 「それは若い頃の写真だけども、とてもお綺麗な方で…。まだ子供だったアタシが遊びに行くと、いつもお菓子をくださったり、優しく頭を撫でてくださった。遊びに来るようになったのはアタシの爺さんが、このお屋敷で働いていた事があってねぇ、その縁で…」
 「・・・・・・」
 「その奥様の鏡の話を聞いたのは、奥様がご病気になられてから。お見舞いに行った時にアタシじゃなくてね…、爺さんに話してるのをこっそり聞いてしまって…。それから、後々になって爺さんにその時の話を、奥様の話を聞いたんだけど…」
 今でも、その時の事が忘れられないんだよと…、とても信じられない話だったけども、その時の奥様を思い出すと信じたいと思うんだよとお婆さんは哀しそうに自分が見聞きしたことを時任に話し始めた。
 









 時任の持つ写真に写る、この屋敷の奥様。
 あの男の妻と時任が話した事は、一度も無い。
 さすがに床の相手として買ったのが男で、しかも子供だというのはとんでもない醜聞。時任は屋敷に連れて来られてから、ずっと人目につかないよう蔵に閉じ込められていた。
 そのせいで、時任は主である男と世話をしていた男以外の人間に会った記憶が無い。身体を清めるための湯浴みも、逃げ出さないよう後ろ手に縛られた上で、決して人目に触れぬよう人払いをして行われていた。
 けれど、屋敷の中で蔵に囲われ者がいることを知らぬ者はいない。
 それは男の妻も例外ではなく、外で自分以外の女を抱き、屋敷に戻れば男を…、しかも子供を抱く夫のことを知っていた。

 「その頃は、とても女の方から離縁なんて出来る時代じゃなかった。妻が夫に逆らうなんて、もっての外だったんだよ…。浮気していようとなんだろうと、ただ妻は黙って夫の帰りを待ちながら家を守る…、それが当然だったからねぇ」

 そう話すお婆さんの声を聞きながら、時任は写真を見つめる。
 写真に写る女は誰の目から見ても、とても美しかった。
 家柄も良く気立ても良かった女に言い寄る男は、とても多かっただろう。
 しかし・・・、それがその美しさこそが、女の不幸の始まりだった。美しいと噂になり評判になったが故に、先代が亡くなり跡を継いだばかりの大地主の放蕩息子に見染められてしまった。
 そして、家柄は良いが金銭的に豊かではなかった女の…、その頃はまだ17になったばかりだった少女の元に男からの縁談が舞い込んだ時、少女の両親は喜んだ。こんなに良い話は他にはないと、少女の意思に関係なく縁談は進み、あっという間に祝言を迎えた。
 祝言をあげるまで男の顔すら少女は知らなかったが、その当時はそんなに珍しい事ではない。親が決めた相手の元へと嫁ぐのが、当たり前だった。
 少女もそんな自分の運命を、どうせ逆らえないとあきらめ受け入れていた。
 しかし、男はすぐに少女に妻に飽き、半年後には蔵に年端もゆかぬ少年を囲い…、
 自分にはすぐに飽きた癖に、少年の元へは飽きもせずに通い続けた。
 そのせいで何年経っても身ごもることはなく、跡継ぎを産む事が出来ない妻の立場は悪くなる一方で、精神的にも次第に追い詰められて…。やがて、妻は少年の世話をしていた男に金を渡し、長いハシゴを用意させた。
 少年が囲われている蔵の窓に届くハシゴを…。
 そして、夫が蔵へ少年を抱きに行くたびに、窓からその様子を憎しみの籠った瞳でのぞき見るようになった。自分に注がれるはずのものが少年に注がれるのを…、その痴態を絡み合う二人の姿を見つめ続けた。
 そうして、妻は心を病んでいき、その果てに夫以外の子を身ごもり…、
 屋敷にいる誰もがそれを知っていたのも関わらず、身に覚えのない子を妻が孕んでも、その子が産まれても怒りもせず自分に無関心なままの夫に、妻は絶望した。

 「殺したいくらい憎い…、けれど、本当に殺してしまうほどの度胸もなかった。だから、あの鏡を置いたんだと、運が良ければ消えてくれるかもしれないと思ってやったとそう奥様はおっしゃっていたよ…。とても…、哀しそうに…」

 ある日、時任の世話をしていた男が蔵に運び込んだ、何も映らない鏡。
 それは妻にとって初恋の思い出の鏡で、意にそわぬ相手と結婚するからこそ、どうしてもと嫁入り道具と一緒に持ってきたものだった。
 その初恋の相手と妻が出会ったのは、妻の実家の近くに住んでいた一家が引っ越した日。そこをたまたま通りかかった妻が、捨てる予定のものとして玄関先に他の物と一緒に置かれていた鏡を見てしまったことが、きっかけで原因だった。
 鏡の中に人が居るなんて、信じられない出来事で…、
 けれど、その中にいる男に惹かれて、人目見た瞬間から惹かれて止まなくて…。
 その頃、まだ13歳になるかならないかだった妻は、捨てるならもらえないだろうかと家主に頼み込んだ。このまま会えなくなるのは嫌で、必死だった。
 そうして、捨てる予定のものだからと二つ返事で鏡は妻の手に渡り、凪が来るまでの間は初めての恋に胸を高鳴らせながら、鏡の中の男を見つめながら語りかけ、微笑みかけながら幸せな日々を送っていた。しかし、一目惚れで恋に落ちた相手が伸ばした手を…、来るべくして訪れた日に限って妻は拒んだ…。
 いつもは優しく微笑む男が手を伸ばすと、まるで愛を語るように妻は鏡越しに男の手に自分の手を重ねる。男の始めたそれが二人の習慣になっていたのに、その日だけは何か…、何かがいつもとは違う感じがして伸ばしかけた手を止めてしまった。
 すると、優しかった男の顔は歪み、そのまま消えてしまった。
 すぅっと、まるで夢のように消えて…、二度と鏡に映る事はなかった。
 いくら、その日の事を後悔して、鏡を見つめ続けても二度と男には会えなかった。
 けれど、また会いたいと思い後悔する心のどこかで感じていた、わかっていた。繰り返された鏡越しに手を兼ねる行為の意味を、そして、その事について男が何も妻に伝えなかった理由を…。
 だから・・・、妻は鏡を蔵に置いた。
 夫以外の子を抱く妻の心からは、すでに初恋の頃のような想いは失われ、燃えるような憎しみだけがその内には宿っていた。
 あの子さえいなければ、あの子さえ来なければ…。
 そう思いながら、夫を奪った少年が消えてくれるのを待った。蔵の窓から覗き、少年が鏡に向かって話しかけているのを見て腹を抱えて笑った。
 きっと、きっともうすぐ消えてくれる。
 けれど、やがて夫は屋敷にも蔵にも寄り付かなくなり、土地も財産もすべてが幻のように消え失せ…。何もなくなった屋敷で、妻はようやく正気を取り戻した。
 
 「・・・何もなくなって呆然としていた時、奥様に向かって坊ちゃんがね。いつも奥様がそうしていたように、よしよしと頭を撫でながら、大丈夫? どこか痛いの?って言ったそうで。それを見ていたら、なぜかアンタが屋敷に来た頃を思い出して…、今頃になってアンタがほんの小さな子供だった事を思い出して胸を突かれる思いがしたと…」

 子供に頭を撫でられながら、思い出す窓からの光景。
 憎い、憎いとばかりしか思っていなかったけれど、あの子は何も悪くはなかったのだと。悪いのは夫であり、売りとばした母であり、あの子は憎まれる理由なんて一つも無い、ただのかわいそうな子供だったのだと気づいた妻は、屋敷の裏手にある蔵へと走った。
 しかし、時はすでに遅く…、姿は少年のままの初恋の人がいた。
 息を切らせながら駆け寄った妻に、初恋の人は深々と頭を下げた後、何があったのか何が起こったのかを話した。昔、自分がしようとしたことも何もかもを…。
 そう…、妻が感じていた、わかっていたことは真実だった。
 あの日、妻が伸ばさなかった手を少年は伸ばし、鏡の中へと消えてしまったのだ。

 「旦那様の作った借金で、土地から家財道具から畳まで持って行かれてねぇ。でも、何とかお屋敷だけは取られずに済んで…。それから、奥様は坊ちゃんと二人で、坊ちゃんが大学に入られてからはお一人で、このお屋敷で暮らしていらっしゃった…」

 大勢いた使用人達はいなくなり、あまりの出来事に倒れた姑は病になり、そのまま…。状況は悪化の一途をたどり、屋敷だけは取られずに済んだものの、決して暮らしは楽ではなかっただろう。
 いっそ残った屋敷を売り払ってしまえばと進める人間もいたらしいが、妻は頑として首を縦には振らなかった。働きに出て慣れない仕事をしながら、子供の父親の援助にすがりつきながらも、屋敷だけは売り渡さずに守り続けた。
 そして、あの蔵にある鏡を…、見つめ続けた。
 鏡の中にいるはずの少年が写るのを、その少年に手を伸ばす日が来るのを待ち続けた。そんな事は起こらないとわかっていても、何度も何度も鏡に手を置いた。

 『お願いだから、ありがとうなんて言わないで・・・』

 もっと早く気づいていれば、あの子を助ける事が出来たのに…、
 憎んで憎み抜いた末に、暗くて寂しい場所へと追いやってしまった。
 もうすでにあんなにも寂しくて苦しい場所にいた、あの子を…。
 そう、すべてをお婆さんの祖父に子供の父親に話し終えた妻は、病の床で両手で顔を覆った。それから、しばらくして骨董店の店主が鏡を自分に任せてくれないかと、妻の皺だらけになった手を…、鏡に手を伸ばし続けた手を握りしめ・・・、
 そんな妻の想いは写真とともに、白い表紙に綴じられた。

 「もしも、アンタが本当に鏡の中にいたのなら、奥様のことを許せないだろうけど…。ほんの少しだけでも良いから、どうかわかってあげておくれ…。奥様はとても…、とても寂しい方だったんだよ…」

 そう言ったお婆さんに、時任は答えず黙り込み。
 それから、しばらくして尋ねた。
 もしも、亡くなった奥様の墓がどこにあるのか、知ってるなら教えて欲しいと。
 すると、お婆さんはもちろん知っていますともとすぐに返事をして、時任を近くにある墓所へと案内した。そこは屋敷の代々の当主が眠る墓所で…、あの屋敷の最後の奥様となった妻の小さな墓も、その片隅に置かれていた。
 その墓を見る限り、大きなお屋敷の奥様のものだとはとても思えなかった。
 時任は来る途中で摘んだ、名も知らぬ白い花を墓前に置くと…、
 お婆さんが見守る中、じっと静かに小さな墓を見つめた。
 お婆さんは奥様のことを許せないだろうと言ったけれど、時任には初めから奥様を恨む気持ちはなかった。骨董店の店主の…、笹川の手に鏡が渡るまでの話を聞いても、その気持ちは変わらなかった。
 今だから言えることなのかもしれない…、けれど…。時任にとって鏡に手を伸ばしたことは、笹川との出会いは決して不幸ではなかった。
 あの日、鏡に手を伸ばしたからこそ、久保田と出会えた。
 たとえ二人を阻む鏡が、苦しさが哀しさが後悔を生んだとしても、久保田と出会わない未来なんて想像もつかない。想像なんてしたくない…、思いたくない。
 だから、目の前の墓に眠る人に、言いたい言葉は一つしかなかった。
 そして、同じように自分に向かって手を伸ばし続けてくれた人に、伝えたい言葉も一つしかなかった。
 時任は地面に膝をつくと、小さな墓に向かって深々と頭を下げた。

 「・・・・・・・・ありがとう、ございました」
 
 自分に何が起こったとしても、鏡の中に消えたとしても苦しむ人も哀しむ人もいないと思っていた。白い表紙に書かれていたように、自由になった笹川もきっと幸せになってくれるだろうと思っていた。
 けれど、時任が知らなかっただけで、本当はそうじゃなかった。
 時任がいなくなった事を、鏡の中に閉じ込められてしまった事を哀しんで、苦しんで待ち続けてくれていた人がいた。
 待ち続けて手を伸ばして…、助けてくれようとした人がいた。
 その事実が時任の胸を温かくして、同時に苦しくもさせる。
 もしも、時任が鏡に手を伸ばさずにいたら、きっと、少しも恨んではないと苦しまなくても良いと伝えることが出来た。けれど、今はもう流れてしまった時は戻らず、その言葉を伝える術はなかった。
 時任は深々と下げていた頭をあげると、目を細めて空を見上げる。
 すると、空の青さが明るさ目に染みて…、痛かった。

                                                                           2012.1.2
                                                         
                                                                                           次 へ
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