グリーンレクイエム 29










 ・・・・・・・・・・・いないと思っていた。


 自分がいなくなって苦しむ人も、哀しむ人も…。
 悩むこともなく、悩むまでもなく、気づくこともなく…、
 意識もせず、当たり前の事として時任の中に根付いていた。
 それがいつからかなんてわかるはずもなく、ただ当然だった。
 笹川の事も白い表紙を読んで良かったと思い、ほっとしたのは事実だったが、帰りたい場所のある世界へ戻ったのだから心配はしていなかった。
 けれど・・・、気づかない所で思わぬ人が苦しんでいて…、
 哀しんでくれていて、その想いが時任の心を温かく苦しく揺らした。
 そして、鏡の中で過ぎてしまった時を、初めて哀しく思った。
 たった一言すら伝える事が叶わない…、その現実が写真の写る美しい人の冷たい墓標と一緒に、今も胸に焼き付いていた。

 「・・・冷めないうちにどうぞ」

 茉莉花茶の入った湯呑をそう言って時任に向かって差し出したのは、駅前の店のお婆さんではなく…、東湖畔の店主であり、笹川の孫でもある鵠。あれから、すぐにお婆さんに礼を言い、別れを告げて列車に揺られて戻ってきた時任は、すぐにマンションに帰らずに東湖畔に寄っていた。
 でも、それは聞いたことを話したいからではなく、未だに迷い続けていたからかもしれない。そして蔵に行っても昔の話を聞いても、迷いは晴れるどころか深くなっていくばかりで、無意識にオレンジ色の表紙を持つ手に力がこもった。
 たとえ、この世界に一人きりのような気がしていたとしても、それがたとえ事実だとしても、消えて良い人間なんて一人もいないのかもしれない。久保田も橘も、そして時任自身も…、消えればどこかで哀しみや苦しみや後悔が生まれるのだとしたら…、
 生まれてしまうのだとしたら、誰を何を選ぶべきなのか…。
 鵠に進められてイスには座ったが、深く重くなっていく選択に出された茉莉花茶に手を伸ばす気にもなれない。そして、自分の思考に沈み込み黙り込んだまま、鵠もそれ以上は何も聞かぬまま時間だけが過ぎていき…、やがて、店に来た頃には青く明るかった空も夕暮れ時を迎えようとしていた。

 「屋敷の場所は遠いはずですが、ずいぶんとお早いお帰りでしたね。何かあったか、何もなかったのかは私にはわかりませんが…、もう良い頃合いでしょう」

 長い沈黙の後、先に口を開いたのは時任ではなく、鵠。
 しかし、良い頃合いとは何のことを指して言っているのかわからない。
 だから、何のことだと聞こうとしたけれど、鵠は少し待っていてくださいと言うと店の奥へと引っ込んでしまった。仕方なく鵠が戻ってくるまで、今まで手を付けなかった茉莉花茶を飲む、すると少しだけ沈んでいた気分が落ちてくる。
 だが、それも鵠が店の奥から持ってきたスーツケースの中身を見るまでだった。
 
 「今度こそ、これで貴方の元にある鏡を買い取らせてください」

 鏡から出て鵠に出会った頃、何度かそう言われた。
 けれど、最近は聞かなくなっていた言葉だった。
 しかし、今の時任の耳には、鵠の言葉はあまり耳に入って来ない。目の前に差し出されたスーツケースの中に詰まった札束を見た瞬間、久保田の従兄弟に聞いた話が脳裏を過り、鵠の話を聞くどころではなかった。
 感情のままにイスから立ち上がり机を叩き、鵠に詰め寄る。
 そして、ぎりりと歯を噛みしめ、拳を硬く握りしめたた後、嫌な予感しかしない札束を指差した。

 「・・・これはアンタのじゃない、くぼちゃんのじゃないのか? くぼちゃんがコレで俺から鏡を買えって言ったんじゃないのかっ!!」

 声にして叫ぶと、抱いた予感は確信に変わった。
 札束はざっと見ただけでも、一千万くらいはある。東湖畔の金銭事情は知らないが、鵠があの鏡にそんな大金を払う理由がなかった。
 何も答えない鵠を、時任は鋭く睨みつける。
 睨みつけて、睨み続けて話せと無言で圧力をかける。
 すると、鵠は小さく息を吐いた後、質問には答えずに別のことを時任に言った。
 「鏡を出た貴方に会ってから、もう半年以上になりますが…。ずいぶんとやせてしまいましたね。いつも顔色も良くありませんし、目の下のクマも一向に治る様子が無い」
 「・・・・・・・」
 「このままだと貴方の身体も、心も壊れてしまいます。久保田君と橘君と…、そのどちらを選んだとしても貴方は壊れてしまう。私はそんな気がしてなりません…」
 「…っ、そんなコトない、俺は!」
 「悩んで苦しんで、探して…、もう十分でしょう。あの鏡を私に渡してください。私なら、たとえ迷ったとしても選ぶことが出来ます。そして、どちらを選んだとしても、貴方のように哀しむことも苦しむこともありません」
 そう言い切った鵠の瞳は真剣で、真っ直ぐに時任を見つめている。その瞳を見つめ返していると今までと違って久保田に頼まれたから…というのではなく、鵠の意思で鏡を買い取ろうとしている、そんな感じがした。
 けれど、時任は絶対に渡せないと、渡さないと首を横に振る。
 すると、鵠はそんな時任に向かって、首を横に振り返した。

 「このままではダメだと、貴方もわかっているはずです。そして、まだ選んでいないのではなく、どちらも選べないというのが自分の答えだということも…、本当はわかっているんじゃないですか?」

 ・・・・・・・・・・どちらも選べない。
 それが迷いではなく、答えだと鵠は言った。
 だから、自分に鏡を渡せと…、そう言っている…。
 そして、それに対して時任は、首を縦にも横にも振れなかった。
 これ以上、誰にも選択はさせない。
 これ以上、同じことを繰り返させたりはしない。
 鏡の中に居た時、そう心に決めていた。久保田が自分の代わりに鏡の核になってしまった時も、その気持ちは変わらなかった…、変わらないと思っていた。
 なのに、橘の言葉一つで迷って、今も迷い続けて…、二つの道の真ん中で立ち止まったままでいる。けれど、時任は迷い揺れる瞳を床に落としながらも、スーツケースに手を伸ばそうとはしなかった。
 
 「選ぶ道は一つしかないから、迷わないはずだった。何があっても、何が起こっても迷うはずなんてなかったんだ…。なのに、どうしても俺は・・・」

 たくさんの想いが詰まって苦しくてたまらない。そんな胸の奥から零れ落ちてしまった言葉は、そこからは声にならずに涙に変わりかけて…、唇を噛みしめて…。
 すると、そんな時任の視界の端に、鮮やかなオレンジ色が入り込み。
 何だろうと視線をオレンジ色へと向けると、そこには一枚の絵があった。
 その小さな額に入った夕暮れの空を描いた絵は、店内の壁にかけられていたが、今までそんな絵がかかっているのを見たことがない。けれど、その夕暮れをどこかで見たことがある気がして…、その夕暮れを知っている気がして…、
 鵠がどうしましたかと聞くのにも答えずに、壁にかけられている絵に近づいた。
 鮮やかなオレンジ色の…、夕焼け空に…。
 そして、その絵に手を伸ばすと、額のガラスの上からそっと撫でた。
 「この絵って、初めて見るけど…」
 「えぇ、その絵は今日初めて店に飾ったものですが、気に入られましたか? ちょうど、それが最後だったので、貴方に買って頂けるとうれしいのですが」
 さっきまでの話を忘れたかのように、鵠は店主らしく商売気を出してそう言う。
 東湖畔で気に入ったものを見て買う時任の習慣は、今も続いていた。
 だから、それはいつもの会話の流れだったが、これが最後という言葉が妙に気にかかる。初めて店に飾ったのに最後だというなら、同じ絵が何枚かあったという事なのだろうかと、時任は夕焼けの前で首をかしげた。
 すると、そんな時任の思考読んだかのように、鵠が小さく笑う。そして、時任が尋ねるより早く、別に何枚も同じ絵があったという意味で言ったのではありませんよと言った。
 「実は貴方が今まで買って行かれたものは、すべて同じ方から買い取ったものなので…。せっかくですから、最後の品も貴方の元に置いて頂けたらと思っただけです」
 「それって、マジで全部なのか?」
 「えぇ、貴方はものの見事にすべて、その方のものを選んで買って行かれました。きっと…、よほど気が合うのでしょうね…」
 目の前の夕焼けも、他の物もすべて同じ人物が持っていたもの。鵠から聞くまで、今の今まで知らなかったが、それはあまりにも出来すぎた偶然だった。
 だから、自然に興味が湧いた。時任が欲しいと思ったもの、すべてを持っていた人物がどこの誰なのか、どんな人物なのか…。
 でも、興味は湧いたが、そんなに強く知りたいと思った訳ではない。
 けれど、何となく尋ねようと口を開きかけた時、目の前の絵の中の風景の色と自分の知る色がなぜか重なって…。その瞬間、時任の中に興味以外の感情が湧き起こり、あふれ、声にならない思いに喉が…、胸が震えた…。

 『なら、今度からお前にはブラックじゃなくて、ソレ入れてあげるよ。俺のじゃなくて…、お前のマグカップに、ね』

 今も耳に残る声と言葉…。
 手の中のオレンジ色の、そのぬくもり。
 あぁ、なんで…、なんですぐに気づかなかったんだろうと、揺れる瞳で見つめるオレンジ色は間違いなく、あのマグカップと同じ色をしていた。間違いないとうなづいた時任は絵に向けていた視線を鵠へと向ける。そして、疑問を持ち問いかけるのではなく、確信に満ち断言するように言った。
 
 「これは…、くぼちゃんの夕焼けだ」

 時任がそう言うと、らしくなく鵠が驚きに目を見開く。
 そして、そんな鵠を時任は澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめた。自分では気づいていなかったが、俯いてばかりいた時任がそんな瞳をするのは久しぶりで…、
 顔色は悪いままだったが、目にも床を踏む足にも揺るがない力強さがある。
 ただ、額に入れられた小さな絵と久保田が買ってくれたマグカップの色が…、作風も作者も違うだろう二つの色が同じだと気づいただけなのに、俯いて迷ってばかりいた心にゆっくりと…、ゆっくりと満ちていくものがあった。
 それは鏡に向かって手を伸ばし続けてくれた人のことを知った時と同じようで、まったく違うようで…、時任は夕焼けに触れていた手で自分の胸を抑える。すると、鵠はまるで痛みでも感じたように目を細め、それからようやく口を開いた。
 
 「始めは、偶然だと思いました。けれど、貴方はいつも彼のものだけを選んでは…、必ず二つ買って…。どうしてでしょうね…、彼ばかりを選ぶ貴方を見ていると、そんな貴方の横顔を見ていると彼の横顔を思い出す。触れることも抱きしめることも出来ない貴方を想い続ける…、彼の横顔を…」

 久保田が使った痕跡の無い真新しい品々の詰まった段ボールを、東湖畔に持ち込んだ時には、おそらくもう…、覚悟を決めていたのだろう。骨董品ではないけれど、出来れば買い取って欲しいと頼んだ久保田は、段ボールの表面を優しく撫でた。
 まるで二人暮らしでもするかのように買い集められた品々は、一度も使われることなく…、けれど、優しく撫でる久保田の手を見ていると、その中に大切な思い出でも詰まっているのかのように思えた…。
 それから、二日後に再び久保田はスーツケースを持って現れ、間もなく凪が来て…。その覚悟のままに迷わず鏡に手を伸ばした久保田と、鵠が会うことは二度と無かった。

 「私は久保田君ではありません。けれど、私が一つだけ言えることがあるとするなら、それは久保田君が貴方の幸せを…。誰よりも自分よりも、ただひたすらに貴方の幸せだけを願っていた…、ということだけです…」

 鵠の話が終わると、時任は小さな絵を壁から外し抱きしめる。そして、お金は後から払うからとそれだけを告げて、急いで店を出ると走り出した。
 小さな絵を決して落とさないように気を付けながら、暮れ始めた空の下を住んでいるマンションに向かって走って…、走って…。走りながら思い出すのは、初めて会った日のこと…、そして、それからの日々のこと…。
 ・・・・・・・・幸せだった。
 たとえ鏡の中にいても、そこから出られなくても…、
 伸ばした指先が届かなくても、それでも幸せだった。
 久保田がいるだけで、そこにいてくれるだけで温かかった。
 腕の中に抱きしめた夕暮れの色のように、とても温かな日々だった。
 
 とても・・・、とても温かで大切な日々だった。

 時任はマンションに帰り着くと玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩き、鏡の置かれたリビングに向かう。けれど、その足は鏡に近づくにつれて遅くなり、廊下からドアを開けて一歩・・・、リビングに足を踏み入れた所で立ち止まった。
 そして一人で過ごすには広すぎるリビングを、それに続く、すべて二つずつ揃えられた食器類の収めてあるキッチンを眺める。すると、一度も見たこともないのに、ソファーに座って新聞を読んでいる久保田の後ろ姿が脳裏に浮かんできて…、
 時任は微笑もうとして微笑みそこねて、泣き笑いのような表情になる。
 そして、その脳裏に浮かんだ幻を背中を抱きしめるように、そっと、ほんの少しだけ夕焼けを抱きしめる腕に力を込めた。

 「くぼちゃんも、俺と同じ気持ちでいてくれたって・・・。そう思っても・・・、いいんだよな・・・。なぁ、そう思ってもいいんだろう…、くぼちゃん・・・」
 
 そう呟きながら鏡に歩み寄り、その前に膝をつく。
 すると、抱きしめた夕焼けに、頬を伝った涙がぽつりと落ちた。
 ・・・・・ずっと、ずっと一緒にいたかった。
 たとえ鏡に隔てられて伸ばした指先さえ届かなくても、そこにいてくれるだけで幸せだった。一緒にいられるのなら、他に何もいらなかった。
 けれど、鏡がなければ出会わなかったのに、その鏡が二人を引き離して…、
 過ぎていく日々が…、時間が留まることを許してくれなくて…、
 やがてやって来る凪に時任は久保田の幸せを、久保田は時任の幸せを願った。
 そして、久保田の幸せを願うからこそ、決して時任は鏡へと手を伸ばさず…、
 時任の幸せを願うからこそ、久保田は鏡へと手を伸ばした…。
 
 幸せを願うからこそ、そうするしかなかった…。

 久保田にも時任にも生きていく月日の、時間の中で苦しんだり哀しんだり、逃げ出したいと願ったり、そんな自分でも気づかぬ思いを後悔とともに抱いていたこともあるかもしれない。けれど、それが事実だったとしても幸せを願い伸ばさなかった手に…、伸ばした手に迷いも偽りもなかった…。
 お互いを想う気持ちは、たとえ指先さえ触れることが叶わなくても…、
 見つめ合う瞳で、微笑みで感じていた。
 ・・・・・・温かな夕焼け色の想いを。

 「バカだよな…、過去なんか調べてさ…。くぼちゃんが誰だって、どんな過去があったって、二人でいた時間は消えたりしないし、幻でもなんでもねぇのに…」

 時任は抱きしめた夕焼けを胸に、そう呟き何も映らない鏡へと手を伸ばす。
 すると、その向こうに忘れて思い出せなかった久保田の穏やかに優しい微笑みが、その唇に刻まれた言葉が、時任の脳裏によみがえってきた。

 ・・・・・・笑って。

 久保田の唇に刻まれた微笑みと言葉に、時任は微笑む。
 泣き笑いではなく、とても綺麗に穏やかに微笑んで、鏡を優し撫でた。
 言葉に声にならないほどに、胸にいっぱいになってしまった気持ちを伝えようとするのかように…、何度も何度も撫でで…。
 それから、夕焼けを鏡に並べるように置くと、部屋に置かれていた電話へと手を伸ばす。そして、東湖畔とバイト先の他に知っている唯一の番号へとかけた。
 すると、何回かのコールの後、受話器の向こうから聞き覚えのある声が響き…、
 時任は橘…と電話をかけた相手の名を呼ぶと、決意を込めた瞳で夕焼けと鏡を見つめた。

                                                                           2012.1.3
                                                         
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