うっすらと開いた視界に映るのは、古いアパートの天井。
窓の外には青空も砂漠も無く、深い暗闇だけが広がっていた。
一応、試してみたが、ドアも窓も一切開かず行ける場所は室内のみ。なるほど…と思いはしたが、それ以上の感想はなかった。
心象風景…、つまり景色が違うだけで、基本的なことは蔵と変わりない。
目に見える景色がどうだろうと、ここは鏡の中でしかない。
何をしようと、決して出られはしない。
もしも、出られる時が来るとすれば、それは他人を犠牲にする時だった。
「ふぁ~…、ねむ…」
そう呟いて再び瞳を閉じた久保田は、畳の上で寝返りを打つ。
すると、伸ばした手の指先に、コツリと硬い感触が当たった。
その感触にゆるゆると目蓋を開くと、眠そうな瞳に暖かなオレンジ色が映る。それは部屋の中にある物と同じように、外の世界にもあるはずの物。
オレンジ色のマグカップだった。
久保田が触れた指先でコツンと突けば、コツンと小さな音がする。鏡の外では見ているだけだったが、本当に鏡の中のマグカップにも他のものにも温度や質感があった。
電化製品はあっても使えないが、時任に聞いていた通り腹も空かないし、寒さも感じないので問題は無い。しかし、ありがたい事に眠気だけは無くならなかった。
しかも、無くならないどころか、確実に強くなっている。
目を閉じると今までの不眠症が嘘のように、あっという間に眠りに落ちた。
「うーん、良い夢みたいのに、見れないのが難点かなぁ…」
もう一回指先で付くと、並んだマグカップが触れ合い風鈴のような涼しげな音を立てる。すると、久保田の口元に笑みが浮かんだが、再び天井を見上げる頃には消えていた。
泥沼に沈むように眠ってしまうせいか、眠っても夢は見ない。
けれど、何も映らないはずの鏡の向こう側に、人が写るのを見てしまった日から、胸の奥にしこりのようなものがあって、すっきりとしない日が続いていた。
鏡に映ったのは、久保田の知らない男。
しかし、その男がいた部屋は、見覚えのある部屋。
色々と準備をするために数回しか入ったことはないが、見間違える事などない部屋に、見知らぬ人間がいるのを見た瞬間、胸の奥をよぎったのは何だったのか…。目をそらすように見つめたマグカップの夕暮れに、ただ、ただ幸せを祈った。
ただ…、それだけを祈ったはずだった…。
・・・・・・・・・ウソツキ。
その時の事を思い出すと、いつもどこからかそんな声が聞こえた気がしたが、唇に浮かべた微笑みで打ち消す。あの部屋には知らない男の妙な体勢から、そこにいる他の誰かを連想させるが、そんなものを想像したところで意味はない…。
取り止めの無い想像をして、答えの出ない妄想を続けたとしても、鏡の中の自分の手も声も決して届かないことは、誰よりも久保田自身が良く知っていた。
けれど、それでも暇を持て余しているせいか、気づけば考えてしまっている。
あの部屋に今も時任が暮らしているのか、いないのか…。もしも暮らしていたとするなら、あの男はただの知り合いなのか友達なのか…、それとも恋人なのか…。
時任の幸せだけを祈っているはずなのに、気づけば嫉妬ばかり。
あの男がどこの誰でもどんな人物でも、時任が幸せでいるのなら問題は無いはずなのに、抑えきれない感情が日に日に大きくなって…、
止まらなくて、時任を想い浮かべる微笑みに滲んでいく。
久保田は天井を見つめていた視線を鏡に向けると、ゆっくりと細く長い息を吐きながら目を閉じた。
「・・・すぐに買い取って壊してって頼んだのに、ね。約束破ったらハリセンボンって、指切りくらいしとけば良かったかなぁ」
凪が来る前、手に入れていた小切手を現金にかえた。
そして、それを遺伝子的には孫とも呼べる鵠に渡し、買い取りと鏡の件を頼んだ。
けれど、未だ鏡は壊される様子もなく、久保田の目の前にある。鏡を壊したとしても、久保田や久保田のいる空間が消えるかどうかはわからないが、少なくとも外との繋がりは絶つことが出来るはずだった。
そうすれば、あの男を見ることもなかった。
でも…、そう思いながらも、もしも時任が鏡を手放したくないと思って、今もそばに置いてくれているのなら、うれしいと思う気持ちも確かに久保田の中にあって…、
複雑に絡み合う想いが、内側から壊してみようかと伸ばしかけた手を止めていた。
もしも、そばに置いてくれているのなら、他人を犠牲にしない方法など無いと知りつつ、何とか助けられないかと手を尽くしてくれているかもしれない。でも、本当にそうだとしたら…、自分にせいだと苦しんでいるかもしれないのなら、その原因である鏡を早く壊してしまわなければならなかった。
なのに、今の自分と時任との最後の繋がりを、自分の手では壊せない。
そんな自分をすべて知っていて覚悟していたクセにと、意気地なしと嘲笑い罵っても、もう少し、あと少しだけと久保田は何度も良い訳のように繰り返し目を閉じる。こうなる事を見越して買い取りだけではなく、壊すことまで鵠に頼んだのか、今となっては久保田自身にもわからない…、けれど、このまま他人任せに待ち続けるわけにはいかなかった。
他人を犠牲にするような、時任を苦しめるような希望は、出来るだけ早く壊してしまわなければならない…。
「ちゃんとわかってるよ…。だけど、もう少し、あと少しだけだから…。もうちょっとだけ、ね」
・・・・・ゴメンね。
そう鏡に向かって呟いても、その声も想いも届くことはない。
それどころか、二度と姿も顔も見ることも叶わない。
次第に数えるのも億劫になって、曖昧になっていく時間と日々の中で、久保田はオレンジ色の夕暮れを脳裏に目蓋の裏に思い浮かべ続けた。鏡に映る男の姿も何もかもを、その色で塗りつぶすように…、ただ一人の幸せだけを祈り続けながら…、
・・・・・・どうか、笑っていてと。
けれど、そんな久保田の想いを嘲笑うかのように、再び男の姿が鏡に映り始めたのは、鏡の中に取り込まれてから、およそ半年か、それ以上経った日のことだった。
何も映らないはずの鏡の向こう側に、こちらを見つめながら、たたずむ男。
前はすぐに視線をそらしてしまったので気づかなかったが、男はとても綺麗な顔立ちをしていた。これなら相手が男でも、優しく微笑まれたら落ちるかもしれない。
ただの知り合い…、友達の可能性もあったけれど…、
男の背後に映る部屋が、時任が暮らしているはずの部屋である以上。
そして再び映った日から、毎日のように男が写るようになった事から考えても、自分に都合の良い想像は、すぐに消えた。
時任がいるのかいないのか、それは相変わらずわからなかったが…、
どうやら男は、この部屋で暮らし始めたらしい。
時任と暮らしているかもしれない…、綺麗な男。
その男は当然、鏡の中の久保田の存在に気づいていたが、時任に何か聞いてでもいるのか、視線を向けることはあっても話しかけてくることはなかった。
「たくさんの人と出会って、友達や恋人も出来て…。それが男だったのは予想外だけど、他は予想通り。だから、きっと幸せになるよ、そうなるって俺が保証するから…」
ベランダから見える青空を眺めながら、書き綴った手紙の言葉をなぞるように口にして…、呟いて…。あの男に笑いかける時任を想像して、苦笑を浮かべる。
時任が幸せでいるのなら、何も問題は無いはずなのに…、
少しだけ、ほんの少しだけ胸が痛い。
そう思い鏡に向かって伸ばした手は、指先は、自分の意志に反して震えていた。
そんな自分に向かって、バカだなぁ、バカだねと久保田が震えた指で拳を作ると、また、今日も男の姿が鏡に映る。そして、時任に頼まれてでもいるのか、コーヒーが入っているらしいオレンジ色のマグカップを鏡の前に置いた。
でも、それを視界にとらえていても、手を伸ばすつもりはない。
たとえ、時任の時と同じように変化が起きて、あのマグカップが鏡に映るようになったとしても、オレンジ色の夕暮れは、今ある二つだけで他はいらなかった。
「ホント、バカだなぁ…、バカだね…」
凪の日に手を伸ばさなければ良いだけだとしても、このまま、あの男の心に二人で過ごした部屋が、自分の心が浸食されていくのは好ましくない。
そんな事態は、出来れば避けたいと思うけれど…、
相変わらず、自分の手で鏡を壊すことが出来ないまま、男が写るたび無意識に時任の気配を探した。けれど、それは幸せでいるのを、幸せであることを確認したいなんて、そんな殊勝な気持ちからではなく…、ただ、一瞬だけでも良いから会いたかったから…。
そう…、きっと、鏡を壊せないでいるのは時任ではなく、自分の抱くだけ無駄な儚い希望を消せないでいるだけだった。
誰かを犠牲にして、鏡の外に出ようとは思っていない。あの男に嫉妬していても、嫉妬しているからこそ、凪の日が来ても手を伸ばすような真似は決してしない。
男のためではなく、時任のために…。
何もかもすべては・・・、ただ時任のためだけに・・・。
初めは興味だけで鏡を、時任をそばに置いただけなのに、どうしてこんなにも想うようになってしまったのか…。どうして、こんなにも恋しく愛しく想うのか、きっと聞かれたとしても答えられない。
けれど、あれはきっと一目ぼれだったのだろうと…、
今になって、そんな簡単な答えに思い至って、久保田は肩を震わせて笑った。
「何がそんなにおかしいんですか? 何か楽しいことでも?」
笑っていたせいか、いつもはすぐに気づく視線に気づかず、そう声をかけられてから鏡の前に立つ男の存在に久保田が気づく。すると、男は穏やかに微笑み、今更ですがと自分の名前を名乗った。
橘遥…、それが男の名前らしい。
けれど、名乗っただけで他には何も言わず、そっと鏡を指差した。
そんな橘に笑みを消した久保田は、無表情にうながされるように指差された方向を見る。すると、そこにはオレンジ色のマグカップがあった。
外から見れば鏡に映った状態だろうと思われるマグカップは、鏡の中から見ると宙に浮いた状態で立体化している。ただ、映っているだけではなかった。
「すいませんが、それを手に取ってみて頂けませんか? 時任君に聞いた話が間違いでなければ、鏡に映れば手に取れるはずですよね?」
・・・・・・・時任。
その名が男の口から出た瞬間、表情は変わらないが、久保田の視線に瞳に隠しきれない感情が冷たく滲む。時任が微笑んでいてくれるなら、笑っていてくれるならと思っていても、時任を抱きしめているかもしれない…、キスしているかもしれない…、
一緒に暮らしているのだから抱いているかもしれない男に、穏やかな感情を抱くことはできない。それどころか殺意に似た感情まで、時任への想いが降り積もりすぎた胸の奥から、あふれ出てしまいそうで、久保田は小さく首を横に振り瞳を閉じた。
もう何も聞きたくない、もう何も見たくないと言うように…。
そうしながら、これ以上、時任の幸せを願う気持ちが心が汚れてしまわないように、今度こそ自分の手で鏡を壊して…と握りしめた拳に力を込める。すると、また男の声がして、何度も何度も教えていないはずの自分の名を呼ぶので…、久保田は仕方なく閉じたはずの瞳を開けた。
声は届かないけれど、唇で言葉を刻んで…、
サヨナラ・・・と、それだけを告げるために男を見た。
でも、その言葉を刻もうとした唇は、鏡に叩きつけようとした拳と一緒に途中で止まり、久保田は驚いたように目を見開いたまま動かなくなる。そんな久保田の視線の先にはオレンジ色があったが、それはマグカップではなかった。
同じオレンジ色だけれど、それは四角い形をしている。
鏡に映り宙に浮く四角いオレンジ色は、手に取ってみるまでもなく、本か何かそういった類のものだった。しかも、その大きさも厚さも、久保田の記憶の中にある蔵で見つけた白い表紙に良く似ていた。
・・・・・・・・これは?
久保田の唇は刻もうとしていた別れの言葉ではなく、短く目の前の疑問を刻む。すると、その言葉を読み取ったらしい橘が、鏡に映るように置かれたオレンジ色の表紙の上に、そっと優しい仕草で手を乗せた。
「きっと、僕が何を言っても、貴方は信じない。その証拠に貴方はさっきまで僕の言葉に耳を傾ける気なんてなかった…、そうでしょう? だから、マグカップが鏡に映る、その日まで貴方と話しませんでした。このオレンジ色の表紙に書かれた言葉を、貴方が読むことができるようになるまで…」
そんな橘の言葉に、無表情に戻った久保田は静かにオレンジ色の表紙を見つめる。そして、それにゆっくりとゆっくりと…、何かを恐れるように伸ばした手で触れた。
鏡の外から橘が見守る中、久保田はオレンジ色に触れて撫でで、何が書いてあるのかを確認するために開く。けれど、開いた瞬間に目に飛び込んできた文字に、手が肩が…、心が震えた。
あまり上手いとは言えないけれど、読みやすく、丁寧に書かれた文字。
それは決して見間違わない…、見忘れるはずのない筆跡で…、
身体は代わっても、書いた人間のクセは少しも変わっていなかった。
そして、その文字はどれも…、ひらがなからカタカナから漢字に至るまですべて、これから先、書けなくて困ることが無いようにと久保田が教えたもので…、
たくさん、たくさん並ぶ文字を久保田が指先で愛しそうに撫でると、橘は鏡の前に見覚えのある夕焼けの小さな絵を置いた。
「その夕焼け色の中に書かれた文字を、貴方がすべて読み終えた頃…、また会いましょう…。それまで僕はベランダで、空を見上げながら待っていますから…」
そう言った橘の声も久保田を見つめる視線も、とても優しい。
とても…、とても優しすぎるくらい優しくて…、
でも、そんな橘の声に視線に気づくこともなく、久保田は撫でていた文字を視線で追い始める。離れていても二度と会えなくても…、大切な人の書いた文字を…。
けれど、そこには書いた人の事ではなく、久保田のことが…、
・・・・・・久保田の過去が書き綴られていた。
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