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日本石綿協会が設立されたのは、終戦の翌年、1946年(昭和21年)の4月のことであった。
社団法人の認可を受けたのは、翌々年の1948年5月である。協会の機関誌「石綿」は、結成の翌月から発行された(昭和52年10月号から「せきめん」と改名)。当時の残された資料を見ると、茶色に変色した新聞の紙面とは不釣り合いに、華やかで活気のあった時代の明るさがただよってくるようだ。
協会の設立当初は、終戦直後で、それまで軍におさえられていた石綿が、統制会社ができて配給になった頃だった。石綿の品不足は決定的で、特に、配給は食料生産や工業生産に必要な石綿工業製品にあてられ、建築用の石綿スレート用には配給が回されなかったため、スレート業界は、使い古しの石綿や藁など、石綿に代わる代用品を使った生産を余儀なくされ、品質の低下に苦しんだ時期が長く続いたようだ。
業界は輸入の促進を訴えて、石綿の宣伝に全力を注いだ。
石綿事業先覚者として真っ先にあげられる、平賀源内の慰霊祭を行い、源内を主人公とする文化映画「石綿」の製作のため、シナリオ募集を計画したりした。平賀源内の歌舞伎を東劇でやって、石綿製品を並べて宣伝をしたこともあったようだ。最新型石綿スレートの懸賞募集もした。子供向けのラジオ放送もした。
そして、ようやく1949年(昭和24年)、石綿が自由に輸入できるようになり、次第に生産が軌道に乗り始めた翌1950年、朝鮮動乱が勃発。石綿業界は、立ち直り始めていた日本経済と歩を同じくするように、特需景気の勢いに乗って、輸入拡大と相次ぐ増産で、一気に成長の道を駆け上っていった。
当時の機関誌「石綿」の紙面には、「盛り場スケッチ」「せきめん俳壇」などの随筆や軽い読み物など、華やかな当時の業界を彷彿とさせるような、楽しげな雰囲気の記事が並んでいる。上昇機運にあった、明るい繁栄の時代であった。
折しも、外国から上質の石綿がどんどん入ってくるようになって、品質向上と生産拡大が同時進行し、商社もメーカーも大いに儲かった時代だったようだ。座っているだけで金が儲かる、石綿業界はびっくりするほど派手だったという。石綿は、高層建築の耐火性を高め、電線の被覆に使われ、工場の屋根に、造船に、発電所に、そして何よりも、食糧増産のための肥料生産に欠かせない硫安の生産にと、日常生活に不可欠の物質として、まさにありとあらゆるところに使われていた。
戦後の復興から高度経済成長へと続く目覚ましい発展の時代を、石綿業界はがっちりと支えてきた。
新幹線(1964年)、オリンピック、東名高速道路、万博(1970年)と、廃墟から経済大国へ、日本は大きな変貌を遂げていった。日本の経済発展のために、石綿と石綿業界が果たしてきた役割は、私たちが今考える以上に大きなものだったに違いない。
「石綿」はまさに時代の寵児だった。そんな時代があった。
1970年代に入り、我が国の石綿の使用量が年間35万トンにも及ぶピークを迎えようとする頃、石綿の吹き付けが各地で盛んに行われた時代であった。