運命というものがあるとしたら、僕のそれは、いつ歯車が狂い出してしまったのだろう。
唯一の親友と呼べる友と別れてしまったときからなのか、母があんな形で僕の前から姿を消してしまったときからなのか。
それとも、軍へ入ると決めたときからなのか。
僕には判断のつけようもないのだけれど。
でも―――。
僕には判っていた。
僕の体のどこかに、少しずつ少しずつヒビが入ってしまったことを。
体のどこかの螺子が、外れてしまったことを。
僕が歩もうとしている道が、正しいのかは判らない。
ただ、決めた道に背くことはしたくなかった。
じっと、その場に立ち尽くすことは出来なかったから。
護ることが真実だと、決め付けていたのかもしれない。










久々に帰った家は、どこか寒々しくて、アスランは軽く息を吐く。
「おかえりなさい」と暖かな笑みで彼を迎えてくれた母が、過去の中でしか捜せなくなって、もうすぐ一年。
広すぎる家には、父と息子の二人だけ。その父とも、この家で過ごす時間は少なくなった。
アスランはリビングのソファへと、身を沈める。壁に掛けられた一枚の写真へと、自然に視線が移動する。
アスランが月からプラントへ越して来て、直ぐに撮ったものだ。
父と母の真ん中に、彼がいる。今から三年前、十三歳のとき。
大好きな親友と別れ、プラントでの生活に多少の不安を抱いていたアスランの肩を、父の手が包んでくれた。
とても大きな、優しい手だった。
あの、さりげない優しさを、忘れてはいない。母の温もりも、忘れてはいない。
忘れてはいないが―――。
自分以外に誰もいない家。ひんやりとした家。
プラント最高評議会議員であり、国防委員長でもある父が多忙だということは、それだけ戦況が悪くなっているということなのだろう。評議会でヘリオポリス崩壊に至る経緯と、地球軍から奪取したモビルスーツの性能の高さを説明するために、一時プラントへ戻っているとはいえ、休暇ではない。
また、慌しく戦場へ戻ることは、判っている。
忙しい父との擦れ違いも、判っている。
軍を選んだ時から、きっとこういう生活になるのだろうと判っていたはずなのに。
―――迷いが、生じてしまった。
甘えを許して欲しいとは思わない。けれど、あの優しさを欲してしまう衝動に、体が震える。
こういう静かな家に一人でいると尚更。
彼のことを、考えてしまう。
こういう静かな家の記憶は、最近のことだ。一年前までは、確かに母の笑顔があった。
三年前は、彼もいた。
月の鮮やかすぎる過ぎ去った日々。
戻らない、戻らない、戻らない。
サフトに入隊すると決めたときにも、確固たる信念があったわけではなくて。
何かをしなければならない、という気持ちだけで体を動かしていた。
戦争は嫌いだ。
しかし。
母を失った現実が、アスランの体のどこかに、小さなヒビを作ってしまった。
小さいけれど、確かなそれ。
血のバレンタインで、何かが変わった。アスランも、彼の父親も。
戦争が人を変えるのか。それとも、人が変わるから戦争が起こるのか。
きっと、どちらでもあるのだろう。少なくとも、アスランは変わった。人を殺したいほど、憎いという凶器を知ってしまった。
銃の重さも知った。奪う人の血の熱さも知った。
アスランは、軍人になったのだ。
だから余計に。
地球軍ではないと叫ぶ、幼なじみの声が、耳から離れない。
何故ヘリオポリスにいたのか。
どうして―――出逢ってしまったのか。
偶然は、時に残酷だ。
三年前に別れた親友は。
三年分の空白の彼方だ。
大人びた表情に浮かぶ、驚いた色。
彼は一体何に、驚いたのだろう。
あまりにも偶然すぎる再会にか。それとも、アスランのナイフを持った姿にか。
ザフトは、自分は―――彼が生活をしていた場所を、壊してしまった。
―――壊してしまった?
「ヘリオポリスとユニウス7・・・。どこがどう違うんだよ・・・」
呟いて、アスランの胸がキリリと痛む。違う、そういうことが言いたいのではない。
新型のモビルスーツさえ奪えれば、それで良かった。ヘリオポリスを崩壊することが、目的だったのではないのに。
地球軍ではないと言いながら、地球軍の中に組み込まれてしまっている彼に。
ユニウス7の哀しみを深さを、知らないであろう彼に。
何を言っても、伝わらないような気がした。
彼が悪いわけではないのだ。ただ、自分は変わってしまったから。体のどこかにヒビが入ってしまったから。
別れてから三年。
月の想い出を、大切な宝物として胸に秘めていたけれど。
今は、それさえも。
単なる過去となってしまった。
また逢える。彼も月からプラントへ来るはずだと。
そう信じることで、淋しさを紛らわせて、プラントでの生活を過ごしていた。
桜色の風景。脳裏に染み付いている、別れたあの日。
戦争が起こるなどと、想像すらしていなかった幼い日。
忘れようにも、忘れることを体が拒否していた、甘い胸の疼き。
彼とは、兄弟のように育ったからだろうか。何も言わなくても、互いが何を考えているのか解った。
本当に、いつも一緒にいたから、双子のようだとも良く言われた。
それほどまでに、互いの存在が近かった。
アスランは、ぼんやりとした視線を、リビングに漂わせる。
いろいろな感情が、体中からあふれ出そうとしているのと同時に、懐かしい光景までもが、アスランを捉え始めた。
銃を取った手に、迷いはなかったはずなのに。
正しいことだと、思っていたのに。
たった一人。
たった一人の人間が、アスランの行く手を阻む。
このまま彼と、戦い続けることになるとしたら―――。
「・・・キラ。人は人を簡単に殺せるんだ。お前がそんな所にいる必要は、ないじゃないか・・・」
再会は、二人の少年の運命を弄ぶ。
アスランは。
戦場へ出ることが、怖いと思った。











プラント最高評議会。
ラ・ウル・クルーゼは、評議会全員の表情を一つ一つ思い浮かべ、口の端を上げた。
各プラントの代表者が集い、プラントの意志を決定する機関。本来なら、十二人全員の気持ちが、一つに纏まっていなければならないのだが。
―――戦争に対して、全員が同じ考えになることはないな。
クルーゼは評議会を後にすると、早々にヴェザリウスへ戻っていた。
ヘリオポリスで地球軍が造った、新型モビルスーツの奪取。評議会にしてみれば、新型モビルスーツを奪うという行為よりも、その結果ヘリオポリスを破壊してしまったことに、どれだけ正当性があるのか気になるところではあるようだ。
同時に、地球軍が開発したモビルスーツへの脅威。
彼らは、血のバレンタインを忘れてはいない。
しかし、残念なことに、それでも穏健派はいるのだ。
今更、何を議論したところで、プラントには戦争を起こす最大の理由がある。
ユニウス7が、それだ。
穏健派とて、始まってしまった争いを止めることは出来ない。どうすれば、少しでも無駄な血を流さなくて済むかと考えている。
が、無駄なことだとクルーゼは思う。
白旗を掲げるなど、あの男が許さないだろう。
「戦いに狂った男を、止められる奴はいないさ」
クルーゼの小さな呟きは、ブリッジの扉が開く機械音に消された。
「・・・随分と、お早いお戻りですね」
後ろからの声に、彼は座っていた椅子の向きを少し変えた。
「ヘリオポリスの報告さえ済めば、あそこにいる必要はないだろう」
にんまりと笑い、クルーゼは自分を見下ろす、この艦の艦長に同意を求める。
「・・・それは、そうでしょうが・・・。評議会は、何とおっしゃっていましたか?」
「意見はバラバラだな。だが、戦争を止めましょう、と大声を出して言う奴はいない。あのモビルスーツを見れば、ナチュラルの技術力を怖いと思うのは当然だ」
「本当に・・・。OSの問題をクリア出来れば、ナチュラルでもアレを動かせる、ということなのでしょうか」
「だろうな。実際に造っていたんだ。我々と戦う意志の表れだろ。それを奪ったからといって、プラントの勝利が、目の前にあるわけじゃないさ」
クルーゼの勝利という言葉に、アデスは彼からブリッジの外へと眼を移す。軍事エアポートに隣接している整備区域。
地球軍が極秘に造った、新型モビルスーツと巨大な戦艦。
敵であれ、見事なものを造ったと、アデスは苦い気持ちになる。
あの戦艦、足つきとの戦闘で、少なからずヴェザリウスは、無事とは言い切れない姿になった。その修理のための、プラントへの帰還であり、ヘリオポリス崩壊の経緯を評議会から求められたためでもあるが。
修理に勤しむ整備士の中には、まだ若い顔が沢山ある。
アデスたちを後ろで支えてくれる彼らも、プラントの勝利を信じ、兵士たちに己の想いを託している。
勝ってこそ、意味がある。
それは解ることだ。
負ければ、ナチュラルは間違いなく、コーディネータの存在自体を排除しようとするだろう。
しかし、勝利とは何を基準として、勝利とするのだろうかと。
プラントが勝てば、やはりナチュラルは排除の対象になるのか。
時折感じる疑問は。
若い命を失うたびに、アデスの中で増えていく。
ヘリオポリスで、散ってしまった若い二つの命がある。
彼らは、戦争の終結を見ることはなく、逝ってしまった。
アデスが記憶しているかぎり、彼らは陽気な若者だった。止まってしまった彼らの時間に、アデスは祈る。
クルーゼ隊と呼ばれる、まだ幼さを残す少年たちを、護って欲しいと。
傷つきやすい、少年たちだ。
純粋だからこそ、プラントの未来を絶望へは変えたくない想いが強い。ただ、どんな形でさえ、戦争は終わる。
その時まで、どうか彼らの時間が、止まることのないように。
そして、勝ち負けではない何かが、少年たちを救ってくれるように。
奪うだけの戦争は、したくない。
そう口に出したことはないが、死ぬのなら戦場がいいと思ってしまうあたり、やはり自分は根っからの軍人なのだろうかと、アデスは一人苦笑した。
「・・・アスランは、一緒ではないのですか?」
アデスはクルーゼに向き直り、彼と行動を共にしていた少年のことを訊く。
「あぁ、出航は七十二時間後だと伝えてある。家に寄りたいと言っていたし、他にも行きたい所があるだろう」
「そうですか。隊長はこちらで?」
「私はヴェザリウスを気に入っているのでね。ここの方が落ち着く」
青年の低い声音は、彼の本心を隠してしまうことがある。きっと今も、アデスには解らない何かを考えている。
その何かは、この戦いとは違う種類の次元のようでもあり。
アデスは、小さく息を吐く。
青年は自分のことを検索されるのを、あまり好まない。だから、アデスは何も訊かず、黙って彼の背中を追う。
それが今のアデスに出来る、精一杯のことだ。
誰かが打つであろう、戦いのピリオドは、プラントにとっても地球にとっても、良い方向が示されると良いと思う。
今は無理かもしれないが、遠くはない未来に、その日が訪れると信じて。
犠牲だけではない、何かを得られるなら、それでいい。
憎しみの輪から、抜け出す希望が欲しいと。
アデスは思っていた。











瞼が重い。数回瞬きを繰り返して、アスランはゆっくりと上体を起こした。
いつの間にか、ソファで眠ってしまったようだ。リビングの窓から見える街は暗い。時計の針は、八時より少し前を指していた。
空腹感はないが、体の重さを感じる。肉体的というよりは、精神面の疲労が浮き出しているようだ。
アスランは軽く頭を振る。
考えたくはない、考えたくはないのに。
アスランの体は、彼のことで侵食されていく。
そこにいるのは彼だと、親友なのだと、叫びたいけれど。
それが出来るのなら、これほどまでの息苦しさを感じはしない。
彼は。
地球軍ではないと言った、彼は。
ミゲルを殺した。皆のムードメーカーだった少年は、もういない。
ラスティも、いない。
アスランたちの前から、消えてしまった仲間。アスランの母親のように、もう二度と彼の名前を呼んではくれない。
大切な大切な親友と、仲間と、自分と。
泣きたいほど苦しいこの関係を、自分だけで抱えきれるか、アスランには自信がなかった。
「ミゲル・・・ラスティ・・・」
幼なじみとの再会の衝撃に加え、仲間への想いが競り上がってくる。
じんわりと、滲み始めた視界。彼から奪われたもの。そして、このままの状態が続けば、アスランが彼から何かを奪ってしまうかもしれなくて。
怖い、と心が悲鳴を上げる。
話してもいいだろうか。どうしようもないこの現実を、話してもいいだろうか。
でも、誰に?
アスランの話しを、聞いてくれる人なんて―――。
あぁ、そうだ。
アスランは、冷たさの中にも、熱さを秘めた瞳を思い出す。
同じ仲間。
いつの頃からか、彼との距離が、少しだけ近づいた気がしていた。
親しく話しをすることはあまりないが、確かに彼のことを、どこかで意識し始めていた。
時折、気まぐれのように向けられる、彼のさりげない暖かさ。
―――あの夜の屋上。
まだシュミレーションの中でしか、戦争を知らなかった日の、あの屋上から。
彼と自分の関係は、ほんの少し親しみを感じるものへと、変わったのかもしれない。
屋上で、アスランの手をとってくれたときから、彼は優しかった。
気になった、と。
そう言った彼が、一体何を気にしたのか、アスランには判らないが。
独りで膝を抱えていた屋上の、夜のせいだけではない体の冷たさに、熱を点してくれたのは、紛れもない彼、イザークだ。
―――友達というのも、悪くない。
互いをライバル視することはあっても、仲間というよりも、もう一歩踏み込んだ響きに、アスランは縋っていた。
突き放すわけではなくて、己の内側へと迎え入れてくれた彼になら。
話しをしてもいいだろうか。
ミゲルを殺したのは、自分の親友なのだと。
幼なじみで、とても大切な友人なのだと。
でも。
―――言えない。
親友という枷は、自分だけが背負っていればいいことだ。プラントのために戦う気持ちは、ちゃんとある。
同情が欲しいわけじゃない。慰めも、いらない。
ただ、許して欲しい。
甘い願いだと思う。身勝手だとも。
それでも、許しが欲しい。
「・・・ごめん、ミゲル。イザーク・・・。ごめん、これは僕とあいつのことで。あいつは流されるままだから。きっと、そうだから・・・。あいつを許して・・・。その分、僕が・・・」
罪を、受けるよ。
内側へと引き込むだけの事実は、アスランを苦しめる。
平和の国を襲った代償だと。
誰かが、囁く声がした。



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