顔を覆う白い布の感触に、体中の悔しさが頂点に達しそうになる。 何がどうなったのか、はっきりと覚えていない。 気が付いたら、ヤツが目の前にいた。 気が付いたら、激しい痛みが襲ってきた。 信じられない。 この俺が、ヤツの攻撃を、まともに受けるなんて。 この俺が、ヤツの動きに反応すら出来ないなんて。 何故だ、何故だ、何故だ。 これではまるで、機体の性能ではなく、俺がヤツより劣っているようではないか。 傷が―――疼く。 これほどの屈辱はない。これほどの悔しさはない。 ヤツは、俺が倒す。 絶対に、倒してみせる。 ―――俺の怒りは、地球軍というより、ストライクに向けられていた。 ガモフ艦内にある、あまり広いとはいえない休憩室で、ニコルは疲れの余韻を残す体を椅子に沈め、瞳を閉じていた。 さきほどの戦闘を、もう一度頭の中で、反芻してみる。 足つきとストライク。 月艦隊と合流される前に沈められなければ、決定的なダメージを与えられるよう、必死に機体の操縦桿を握っていた。 そう、いつも必死だ。 少しでも隙を見せれば、こちらが堕ちてしまう。命と命をかけている戦い。 それが戦争であり、自分の身に、何時何が起こるかも分らない。 それは分っていることだと、何度も己に言い聞かせてきたけれど。イザークの受けた傷が、ニコルに例えようのない恐怖を齎した。 モビルスーツのコクピットに座ることや、敵との交戦を怖いと思ったことはない。 が、今回の、あのストライクの動きに、鼓動が速くなったのは否めない事実だ。 敵の、主にストライクのパイロットに、ニコルたちは敏感だ。ストライクを倒さなければ、足つきも堕とせないと思うほどに。 だから余計に、ナチュラルであろうパイロットが、あれほどの機敏さでモビルスーツを動かしていることに、恐怖を覚える。 自分たちは本当に、あの機体を倒せるのかと。 あのパイロットが、怖い。敵であれ、誰か特定の個人に対する、初めて覚えた強すぎる波。 しかし、決して気後れしないようにと思う。戦場では、致命傷にもなりかねない心の揺れに、フタをする。 変に臆病にはなりたくない。 ニコルは、ゆっくりと瞼を開ける。自分たちは負けはしない、と強く思う。 赤服に恥じぬよう、選ばれたという自覚以上に、終戦を近づけるだけのことをしたい。 誰に言うでもなく、自分の胸の中だけで呟いて、少し離れた椅子に座り頬杖をついているディアッカを、視界に入れた。 彼もストライクのパイロットに対して、思うことはあるようだ。多少の苛立ちを含んだ微粒子に、ニコルは気付いている。 二人しかいない空間は、どこか息苦しい。会話らしい会話がないのも、息苦しさの原因だろうか。 ニコルは応えを期待せずに、独り言のように声を落した。 「・・・イザーク、大丈夫かな・・・」 ストライクからの攻撃で傷を負ったイザークは、ガモフに戻るなり直ぐに医務室へと、連れて行かれた。額の中心から斜め右へと続くそれ。 視力を失うことがなかったのは、運が良かったと言うべきことだ。処置が終わったとはいえ、暫くデュエルに搭乗するのは控えた方がいいと、医務長が話していた。 悔しいのだろうな、と思う。 プライドの高い彼のことだから、尚のこと。 が、怒りにまかせた行動では、ストライクは倒せない。医務長ではないが、頭を冷やすには、休息も必要だ。 そんなことをニコルが考えていると、ディアッカが彼を見ることはせずに、口を開いた。 「・・・あいつは、バカが付くほどまっすぐだぜ」 「えっ・・・?」 「だからさ、大丈夫っていうか、今も戦闘態勢っていうか。ストライクしか見えてないんじゃないの?」 ちらりと視線を寄越すディアッカに、ニコルはそれは判っていますと前置きをして 「でも、イザークの悔しいっていう気持ちが先走りすぎても、駄目だと思います。頭に血が上った状態から、少し冷やさないと・・・」 「冷やしたところで、ストライクしか見てなければ同じじゃん。ていうか、あいつも怒りだけじゃヤツを倒せないって、解ってるさ。ただ、今はその気持ちが、前面に出ちゃってるだろうけど」 「そう・・・でしょうか」 心配げな色のニコルに、ディアッカはもう一度、大丈夫だよと短く応える。口を噤むニコルの気持ちが、解らないわけではなくて。 イザークの性格を考えるなら、怒りの矛先は間違いなくストライクであり、きっとこれからもそれは変わらない。 戦場で感情に左右されることは、命取りになることだと、ニコルは言いたいのだろう。もちろんディアッカも、彼と同じ危惧を抱いているけれど。 (その時は、俺の出番ってね) 無闇に突っ走りすぎることを、諌める役目は必要だ。 今のイザークは。 ストライクしか、見ていない。 それはディアッカにもニコルにも、解ることで。 だからこそ、無茶な行動は止めさせるし、それが自分の役目のようにも思う。 (まぁ、俺の言うことを聞いてくれる連中じゃないけどさ) 目の前で、仲間が傷つくのは嫌だ。理由はそれで充分じゃないか。 ディアッカは、椅子から立ち上がる。 「ディアッカ・・・?」 上目遣いに自分を見るニコルに、彼は笑う。 「イザークのお見舞い。いろいろ話してくるからさ、大丈夫だよ」 「・・・・・・・」 何か言いたげな瞳に、溜息を一つ。イザークのことだけではない不安も、感じてはいるけれど、上手い言葉は見つからない。 でも、何も言わないよりはいいだろう、と口を開く。 「ストライクのパイロットも、俺たちと同じ人間じゃん。怖いことなんてねぇよ」 ニコルは少し驚いたように瞬きをしてから、眼を細めて頷いた。 「はい、そうですよね」 年下の少年を残し、ディアッカは休憩室を後にする。 ―――怖いと思ったのは俺も同じ、とは言えねぇよな。 不必要なことは、言わなくていい。 ディアッカは、医務室へ足を向けた。 病人ではないから、ベットで大人しく横になっていることもなく。 病人ではないから、食欲が全く無い、とも言い切れず。 病人ではないから、医務室内で喚いて叫んでみたりもして。 要するに、態度は実に偉そうだ。 それが、ディアッカのイザークに対する素直な感想でもあり。 彼が傷を負ったことを知った時は、まさかと信じられなかった。 ニコルからの通信が、緊張を帯びていたから、ディアッカの気持ちも焦っていた。 医務長から「それほど酷い怪我ではありませんでした。傷も消せます」という明確な答えを貰って、一気に体の力が抜けた。 同時に、ストライクのパイロットの力が本物だ、と気付いた。自分が負ける姿は想像出来ないが、戦いたくはない相手だと思う。 ヘリオポリスから、足つきとストライクを追い続けてきた。簡単に堕とせると、堕とせるはずだと思っていた。 が、考えを改めなければならないらしい。 赤服なのに、結果が出せていないのは、笑えない事実だ。 溜息が出る。出したくもないのに、出る。 その無意識さが、彼の機嫌を損ねたようだ。突然、ディアッカの頭上に、雷が落ちた。 「ディアッカ!貴様、一体何しに来た!溜息なら、自分の部屋で力いっぱい吐け!」 「あ・・・イザーク・・・。ははは・・・そんなに怒ったら、血管が切れるぞ」 「切れさせるようなことをしてるのは、お前だろうが!」 「・・・・・スミマセン」 ベットに腰掛けているイザークと、丸椅子に座っているディアッカ。自然とディアッカを見下ろす形となっていた彼からの威圧感は、ここぞとばかりに、無駄に威力を発揮していた。 「・・・ったく、ここへ来るほど暇なら、機体の整備とか、もっと時間を有効に使えよ」 「え〜!俺は有効活用してるケド?お前と話しがしたかったの」 「話し・・・?」 ディアッカの、惚けた口調の下に隠された真意を探るように、イザークの薄い水色の双眸が細められる。 ほんの少しの沈黙。 イザークは医務室へ来た友人が、何を話したいのか理解したようだ。嫌そうに顔を背ける。 「俺は、話すことなんて、何もないぞ」 「お前がなくても、俺があるの。だから付き合えよ」 決して改まった響きではなく、いつもと何ら変わることのない声音に、イザークは勝手にしろと短く吐き捨てた。 そんな彼に「傷は痛むか」とか、「暫く休めよ」という慰めにも似た言葉は無駄だと、ディアッカは思っている。だからそれらは省き、単刀直入に訊いた。 「ストライク・・・堕とす自信はあるか?」 「・・・なんだ、それは?自信の問題なのか?」 「まぁねぇ、そういう問題じゃないのかもしれないけどさ。俺は実際に怖いと思ったよ。前にも話したじゃん。なんつーの、戦闘慣れして来たってさ。でもさ、慣れとは違う隠れてた力、みたいなの感じたってのがホント」 「・・・・・」 応えの代わりではないのだろうが、イザークの右手が傷を覆う白い布へと伸ばされる。思い詰めた表情がそこにあるわけではないが。 漠然とした掴み所のない、足元が揺らぐような波の存在を、ディアッカは感じている。 本能が―――そう伝えてきている。 イザークが、ストライクのパイロットに対し、何を思い何を感じているのか。 悔しいとか、そういう感情以外の、所謂客観的な考えを知りたい。 「・・・俺は、悲観的な物の考えをしてるわけじゃないぜ。でもさ、手強いってだけじゃ収まらない、何かがある。そういう気がする」 「手強いね・・・。実際、そうなんだろうよ。お前の言うように、慣れだけあの動きは出来るもんじゃない。軍人だからって、ナチュラルだぞ。俺たちと同じレベルの身体能力があるってことか?」 「問題はそこ。だから怖いんだって。足つきから、バンバン大砲撃ってるヤツらと違って、パイロットだもんな。俺らの前に立ち塞がる壁は、間違いなくアイツだ」 「フンッ。壁が大きければ、それだけ倒しがいがあるじゃないか。俺は負ける気なんて、さらさら無いぞ」 「それは、俺も同じ。だけどさ、無闇に突っ込んでも駄目じゃん」 「・・・何が言いたい」 睨んでくる、強い光を放つ瞳に、ディアッカは真剣な眼差しを向けた。 「お前の悔しさは判る。判るけど、一人で走り過ぎるなよ、俺たちのバランスが崩れたら、良い結果は出ない。ニコルもお前の突っ走りを、心配してる」 「そんなことは、お前らに言われなくても判っている!」 「そう?じゃあ約束。俺らの任務は、足つきを堕とすこと。共倒れじゃないぜ」 「当たり前だ。お前、それを言いに来たのか?」 「ん〜、似たり寄ったり」 「・・・暇だな、お前。余計な心配だ」 多少の呆れさを含んで肩を落とすイザークに、苦笑を漏らして。それから程無くして、ディアッカは医務室を出た。 自室へと戻り、ベットへ転がり込む。 イザークの言うように、壁が大きければ倒しがいはあるだろうが。 その壁を個人とするなら、やはり恐怖はある。 何かが起こりそうな予感。万が一、なんて考えること自体が、後ろ向きなのかもしれないけれど。 そういった不安が、拭えない。全てはストライクのパイロットへと繋がる線だ。 強さと恐怖を、同時に感じさせる人物。一体、どんなヤツなのだろう。 そして、自分たちの戦いの行方。 勝つために、護るために、選んだ道。袖を通した、赤い制服。 いつだって、揺れることのない自信を抱いていた。 今も、そうだ。 ただ、少しだけ、漠然とした不安を覚えてしまっただけのこと。 それが、何を意味するものなのか、ディアッカ自身にも判らない。 ふと、懐かしい顔が浮かぶ。もういない、彼らと共に語った世界は、まだ見えてこない。 「・・・大丈夫だよな。俺らの手は、戦い以外のモノを掴めるよな」 望む未来に、間違いはない。この先、何が起きても、前に進んでみせる。 ディアッカの耳に「シケたツラ、するんじゃねぇぞ」と陽気に笑う、ミゲルの声が聴こえた気がした。 月艦隊と足つき。ヴェザリウスとガモフ。そして、メビウスとモビルスーツ。 激しい戦闘。 炎を上げる、地球軍の駆逐艦。 沈むのは、どちらか一方か。 それとも―――。 人々は、戦う。己の抱く、正義を貫くために。 機体の操縦桿を握る少年たちが、見据えているものは敵。 倒すべき、相手。 砲弾の渦の中、少年たちは自らの機体を走らせる。 ひときわ大きな炎を吹き出す戦艦。 燃える、燃えてゆく艦。 沢山の命が、散る。この場所で、散ってゆく。 彼らの想いは、引き継がれる。 それはまた、新しい火種を生む。 人は、護るために、どれだけのものを失うのだろう。 どれだけの犠牲を、払うのだろう。 少年たちの想いを、嘲笑うかのように。 燃え上がる炎は、止まることを知らない。 |