すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「落葉 他12篇」 G・ガルシア=マルケス (コロンビア)  <新潮社 単行本> 【Amazon】
ガルシア=マルケスの若き日の作品集。
三度目の諦め/エバは猫の中に/死の向こう側/三人の夢遊病者の苦しみ/鏡の対話/青い犬の目/六時に来た女/天使を待たせた黒人、ナボ/誰かが薔薇を荒らす/イシチドリの夜/土曜日の次の日/落葉/マコンドに降る雨を見たイサベルの独白
にえ こちらはガルシア=マルケスの新しく出た本なんですけど、前に福武書店から邦訳出版されていた短編集「青い犬の目」に収録された全11編と、新潮社から出ていた「落葉」に収録されていた長編「落葉」、それに集英社の「ママ・グランデの葬儀」に収録されていた「土曜日の次の日」が1冊にまとまったって本なんです。年代順で刊行していってるからかな。並び順が変えてあったりもするんだけど。
すみ 短編集「青い犬の目」は私たち、前に読んでるんだよね。でも、あのときはなんだか最初から最後まで気持ちが乗らないままで……。
にえ 正直に言ってしまえば、今回、翻訳者さんも同じなものを再読したんだけれど、見事なまでに思い出さなかったよね(笑) どれを読んでも、ああ、前に読んだなって気持ちがほとんどわいてこなかったような。
すみ ひどいもんですよ(笑) アップしてある「青い犬の目」の紹介も、今読み返すと、ビックリするぐらい雑だし、内容理解してないし。この機会に差し替えてしまいましょう(笑)
にえ でも、良かったよね、再読して。今度はじっくり読めた気がする。
すみ うんうん、ガルシア=マルケスの初期の作品で、前に読んだときも、やたらと死を意識したテーマが若いなって感じがして、そこは同じなんだけど、かなり味わい深くて、やっぱりガルシア=マルケスは凄いなとようやく思えたような。
にえ 老境に入って書いた「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読んだあとでは、歳をとってからああいう作品を書く人が、若い頃にはこういう作品を書いていたのかと妙に微笑ましくもなったりしたけど、でもやっぱり、良いよね〜。というか、むしろこっちのほうが安心して読めたような。
すみ んで、読む前は、年代順の寄せ集めみたいになってるの? なんて思ったりもしたけど、読んだら納得だった。全作品にしっかりと関連性があって、これは1冊にまとめてくれてありがとうと言うしかないっ。
にえ 順序も良かったよね。「落葉」を読んでからの短編「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」はメチャメチャ味わい深かったよね。沁みた〜。新潮社から出ていた「落葉」ではこの2つが収録されていたけど、私たちは短編集「青い犬の目」で「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」だけ単独で読んじゃってたからね。
すみ ただ、正直なところ、短篇群と「落葉」で訳者が違うってのが、読んでいてけっこうハッキリわかって、そこは残念だったかな。なんだか短編での繊細さに比べると、「落葉」が粗く感じられてしまったような……。
にえ ままま、それにしても良かったので、オススメってことで。
<三度目の諦め>
彼が生きる屍となったのは、7才の時だった。死んだも同然で棺桶に入れられたが、医師がほどこした自動栄養摂取のシステムによって生きながらえ、棺桶のなかで成長していった。
すみ 死んだような状態でありながら、棺桶のなかで成長していく主人公、かいがいしく世話を焼く母親……マルケスが好むテーマそのものって気がしました。
<エバは猫の中に>
彼女は少女の頃から、美貌という特権の重みに苦しめられてきた。しかし、今はようやくその苦しみから逃れることができていた。重い美貌から逃れ、やっと平凡な女として暮らしていけるはずだった。
にえ 美貌が重みになって、苦しみとなってしまうというのも、マルケスらしいなと思ってしまうよね。ようやく解き放たれた今……って悲しみというか、衝撃の中に、人間の生きる業のようなものが見えてくるような。
<死の向こう側>
彼はひどく怯えていた。汽車に乗っていると、死んだはずの彼の双子の弟が手を振り、汽車を追いかけてきた。彼は弟を苦しめた腹部の腫瘍のことを考えずにはいられなかった。
すみ 死んだ兄弟を思い出すことで、死を強く意識するというのもマルケスの好むテーマのようで、このあとの「鏡の対話」もそうだし、大長編「百年の孤独」での、一族の中の死んだ人たちの存在感が色濃く出ているところにも、反映されているような。
<三人の夢遊病者の苦しみ>
彼女は家の片隅に放ったらかされ、目を大きく見開いて座っていた。私たち三人は彼女に気遣い、中庭へ出た。
にえ こういう常軌を逸した女性というのも定番かも。あまりセリフとかなくても、存在感がアリアリなのよね。
<鏡の対話>
朝、彼は髭を剃るために鏡を見た。鏡に映る自分を見るうちに、亡くなった兄の起きぬけの顔にそっくりなことに気づいた。
すみ 鏡に映った自分が自分とは思えなくなってしまい、そして……と、設定じたいはホラーチックとも言えるかな。でも、テーマはやっぱり死を意識することみたい。
<青い犬の目>
燭台の向こうに彼女がいた。彼女は<青い犬の目>という合い言葉を通じて、現実のなかで僕を見つけるために人生を捧げていた。夢のなかでは、僕も彼女の存在をたしかに感じていたのだが。
にえ プラトニックなエロティックがゾクゾクきます〜。
<六時に来た女>
つい今しがた六時になったところで、ホセのレストランに常連の女が訪れた。自堕落な暮らしをする女に、ホセはいつも無料でステーキを出してやっていた。話すうちに、女は五時四十五分にこの店に来たのだと言いだした。
すみ 殺人を予測させながらも、ハッキリ書かないという手法で、これはマルケスっぽいというより、他の作家がやっているのを自分も試しにやってみたって感じがしてしまったかな。
<天使を待たせた黒人、ナボ>
ナボは馬に蹴られ、長々と眠りつづけた。それまでは歌をうたいながら馬の世話をしていた。土曜日になると、町の広場に出かけて、楽団のなかにサキソフォンを吹く黒人がいるのを見つめていた。動かない少女のために蓄音機のネジを回していた。
にえ この短編にも「三人の夢遊病者の苦しみ」に出てくる女の子に似た登場人物が。同じ女性からインスピレーションを得た登場人物なのかも。これまた「百年の孤独」に通じるものが。
<誰かが薔薇を荒らす>
日曜日、ぼくは彼女のために赤や白の薔薇の花束を持って、お墓に行くことにした。お墓の下には、朽ち果てた子どもの姿でぼくの身体が眠っている。
すみ これはもう語り手自身が死んでしまっているみたいなんだけど、静かな美しさです。
<イシチドリの夜>
三人の男が手をつなぎ、家に帰れず、うろついていた。三人はイシチドリに目をえぐられた男たちとして新聞にも載り、知られていた。だが、人々はそれを嘘だと言っている。
にえ イシチドリは水辺にいる、足の長い全長30センチぐらいの鳥。この話は設定からなにからホントにおもしろいなと思ったんだけど、前の自分の感想を見たら、やっぱりおもしろいと言っていた(笑)
<土曜日の次の日>
七月、村の家々に鳥が飛びこんで死ぬようになった。大きな屋敷に住む未亡人、レベッカ夫人は、自分の家の網戸がすべて壊され、村役場へ行ったことでようやくそのことに気づいた。百歳近くになるアントニオ・イサベル神父は、悪魔を三度見たことがあると言ったときから村人たちに尊敬されなくなっていたが、それには気づいておらず、鳥たちの死を説教に取り入れることができるはずだと考えていた。
すみ これは長編にしていただいてもいいような深い味わいのお話で、ガルシア=マルケスが自分の故郷をモデルにして作ったマコンドの村の様子もじっくりと味わえました。
<落葉>
イサベルは父である大佐に命じられ、博士の葬儀に参加することになった。義母がどうしても出たくないと言ったのだ。イサベルはまるでお守りがわりにするように、一人息子も連れていくことにした。人々は博士が死後にきちんと葬儀をあげてもらえることに反感を覚え、その怒りは大佐やイサベル、そしてその息子にまで向けられてしまいそうだった。
にえ これはマコンドを舞台とした長編で、バナナ会社が来ていったんは栄え、それからバナナ会社が去っていって、また廃れるというマコンドの様子が背景となりながら、主人公一家と博士、そして一家のところで働いていたインディオ、グアヒーラの女メメが織りなす過去の物語が少しずつわかっていくお話。
すみ 25年前に紹介状を持って一家のもとにやってきた博士は、医師として患者を診ながらも、医師免許を持っているかどうかも怪しくて、それでも大佐は面倒見がよくて、でもそのうちに……というようなストーリーなのよね。そのあいだに、イサベルの結婚のことも語られて。
にえ イサベルは生まれたばかりのときに母を亡くしているけど、義母のアデライダは活き活きとした女性で、一家はそれなりに幸せな感じなんだけど、それがジリジリ、ジワジワと引きずられるように暗い方へと進んでいくことになるのよね。
<マコンドに降る雨を見たイサベルの独白>
永遠とも思えるほど降りやまない雨が、ゆっくりとマコンドを浸食していく。
すみ これは妊婦だったころのイサベルのお話。まだ夫のマルティンもいて、義母も活き活きとしていて。でも、雨はいつまで経っても降り止まず、読んでいるうちになんだか恐怖が忍び寄ってくるような、この先の不幸が垣間見えてくるような。
 2007.3.15