すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「母」 高行健 (中国→フランス)  <集英社 単行本> 【Amazon】
台湾の聯合文学出版社から出された「高行健短篇小説集(前に短編集「給我老爺買魚竿」として出版されていたものに1編を加えたもの)」収録の18編のうち、8編を収録した短編集。
母 /円恩寺/公園にて/痙攣/交通事故/おじいさんに買った釣り竿/瞬間/花豆―結ばれなかった女へ
にえ ノーベル文学賞作家、高行健の3冊めの邦訳本です。前の2冊「ある男の聖書」「霊山」は長編だったから、短編集は初めて。
すみ 上(↑)を見て、なんだ、18編収録の短編集から8編だけか〜、と思いの方もいるかもしれないけど、これはちょっと事情が違うんだよね。この短編集のフランス語版、英語版は、外国人にわかりやすいものだけをってことで著者が選んだ6編を収録、日本語版だけは、翻訳者の方の提案で2編増やして、8編を収録。だから、マイナス10じゃなくて、プラス2と考えたほうがいいかも。
にえ ああ、なんか急に得した気分になってきましたねっ(笑) って、そんなことより内容なのだけど、7編は1980年から1986年、まだ中国にいるとき、雑誌に掲載されたもの、あとから加えられた「瞬間」だけが出国後に書かれたものだそうで、40才以降に書かれたものを初期作品と言うわけにもいかないけど、ほとんどが「霊山」よりは前に発表された作品ってことになるみたい。
すみ 「霊山」は1982年から1989年にかけて書かれたものだから、平行して書かれた短編って言ってもいいかもね。読んでみると、「霊山」を彷彿とさせるというか、同じぐらいの時期に書かれたんだなとヒシヒシ感じる作品が多かった。
にえ そうだね、ひとつの作品のなかで自分のことを「ぼく」と呼んだり、「彼」と呼んだり、「おまえ」と呼んだりするところとか、現在、過去、幻想が混在するところとか、すでに「霊山」のスタイルが確立しているし、共通するテーマのひとつを扱った短編が多かったしね。
すみ 「痙攣」と「交通事故」はまた違った感じがしたけどね。この2つは似た印象を持ったんだけど。溺死しそうな主人公、交通事故で死んだ男、それぞれが死に直面しながらも、その死ひとつで世界はなにも変わらないというような、突き放されたような描き方がされてて。
にえ 一番近いのは「おじいさんに買った釣り竿」でしょ。短いながらも「霊山」と同じ味わいがあって、素晴らしかった。「霊山」読むのをためらってる方にもぜひオススメしたいな。
すみ うんうん、「おじいさんに買った釣り竿」は本当に素晴らしかったね。小さな世界から大きな世界へ広がっていく、その広がりに圧倒されてしまったな。慣れないとちょっとわかりづらいかもしれないけど、高行健作品まだな方にはぜひお試しいただきたいな〜。
<母>
二十数年前に亡くなった母に対し、ぼくはあまりにも親不孝だった。愛する息子のために切りつめて金をため、食べる物までためておいた母の葬儀にさえ参列できなかった。
にえ これはとてもストレートな感情が伝わってくる短編だった。母親への思いや後悔の数々は時を経ても薄らぐことがないようで、読んでるこちらのほうがひるみそうになってしまう。
すみ 「霊山」ではかなり戸惑ってしまった人称がえなんだけど、この短編で「ぼく」と書いていたのが、自分を責めるところで「おまえ」と変化するのはものすごく自然で、違和感がなかったよね。この短編のおかげで、人称がえについてかなり納得できた気がする。
<円恩寺>
ぼくたちは半月の休暇を得て、新婚旅行に出掛けた。そこで立ち寄った円恩寺は有名な寺ではなく、それどころか人もあまり訪れない荒れ寺だったが、そこを訪れたことはぼくたちに強い印象を残した。
にえ これは珍しく爽やかな、明るい短編。お互いを気遣いながら、楽しく旅行する最中、見た目はちょっと怖いけど、気持ちのよい男の人と出会ったというお話なの。
すみ 「この世には善人が多い。」ってサラリと書いちゃうところが高行健らしいなと思ってしまった。そこで好き嫌いが分かれそうな気もするけど(笑)
<公園にて>
久しぶりに再会した幼なじみの男女は、公園で話をすることにした。そこには恋人を待っているらしき娘がいて、いつまでも待ち人は現れなかった。
にえ 高行健はこういう設定で小説を書くのが好きみたいね。一組の男女が話をする。でも、そこには二人だけじゃなくて、会話をしながらも二人が気にしている、別のだれかがいる。二人の会話には二人のことだけじゃなく、観察しているだれかへの言及も加わるの。これで会話は平面的じゃなく、立体的になっていくような。
すみ 会話をしている男女は幼なじみで、女の人はもう結婚して、6才の娘がいるの、男の人はまだ結婚していなくて、恋人がいてその人と結婚してもいいと思っているみたいだけど、あまり結婚するだけの情熱は感じられないの。こういう、女性は感情的にはいろいろあっても地に足をつけて前向きに進んでいき、男性はどこか踏ん切りをつけきれずにおぼつかないって構図も、高行健らしいって気がする。
<痙攣>
海岸から1キロのところで泳いでいた男は、腹に痙攣を起こした。海には他に人の姿もなく、海岸線は見えない。
にえ 溺れ死にそうになっている男の話にしては、なにか焦燥感に欠けるような、ドラマティックさに欠けるような、落ち着かない静けさ。それがものすごくリアルだと納得してしまった。
すみ 最後の暗示的なシーンは、あまり深読みしないほうがいいのかな。薄ら寒くもある余韻があとを引く短編だった。
<交通事故>
午後5時、徳勝大街で交通事故が起きた。ベビーカーを取り付けた自転車が道を横切ろうとしたところを、クラクションを鳴らしながらも減速しないバスが突っ込んできた。さいわい子供はぶじだったが、父親は死んでしまった。
にえ これは交通事故が起きたあとの短い時間を描いた短編。衝撃的な悲劇が起きて、目撃した人たちが動揺しまくった会話をして、それがしだいにあとから知った人たちへと移り、短い間にすっかり日常的な会話になっていくというドラマティックさには呆然とするほど。
すみ 当事者や家族にとってはものすごい悲劇でも、まったく見も知らぬ他人の死なんてこんなものだと、なんとなくわかってはいても、こうして見せられちゃうと愕然としちゃうね。
<おじいさんに買った釣り竿>
ぼくは新しく回転した釣具屋で、おじいさんのために、輸入品と明示されたプラスチック製で十本継ぎの釣り竿を買った。おじいさんはいつも自分で作った竹製の釣り竿を使っていた。魚網も自分で作った。釣ってくるのはせいぜい3センチぐらいの魚だったけれど。
にえ とにかくこの短編が素晴らしいのよ。現在、過去、幻想が溶け合って、はっきりとした線引きもできないような流れで進んでいくの。その美しさときたらもうっ!
すみ 最後になってどういうことなのかわかったとき、グワーンときたっ。小説の出来としては「霊山」より上かもしれないよね。この短い小説のなかにこんなに劇的な変化と広い世界が入っているなんて。
<瞬間>
彼は一人きりで浜辺の寝椅子に座っている。コートを着た女は扉から出ていった。彼はパソコンの前に座り、タバコをくわえている。彼女は二人の男とセックスをしたときの話をしている。
にえ これは出国後、最初の、そして唯一の短編みたい。私的にはピンとこなかったんだけど。
すみ 断片的な情景を短く描写した文章が、幾つも重なっていくんだよね。最後にはひとつの物語だったと気づく、のかと思ったらそうでもないみたい。フランスっぽさを意識したのかな。切れ切れの映画のシーンみたいだった。
<花豆(ホアトウ)―結ばれなかった女(ひと)へ>
あと11日で五十才になる。ぼくは医者に高血圧、初期の動脈硬化と診断され、自宅で休養している。きみも五十才になり、技師長に任命された。ぼくたちは幼なじみで、互いに惹かれ合ったこともあったけれど、今は別々の家庭を持っている。
にえ これは50才になった男女の幼なじみの回想記のような短編。この短編集のなかでは一番長いんだけどね。若い頃の結ばれなかった恋をノスタルジックに描いたお話、と思いきや、やがて花豆と呼ばれる女性のほうには過酷な人生が待ち受けていたり・・・。
すみ この短編の語り手が言うように、淡い恋心も文革時代の地獄の日々も、今となってはすべて古い昔の話ということになるんだろうけど、その時代がなければ、今もないのよね。