すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「ある男の聖書」 高 行健(ガオ・シンヂエン)  (中国→フランス)  <集英社 単行本> 【Amazon】
中国で、かつてはイギリス風の洋館に住み、豊かな生活をしていた<彼>の一家は、激しい時代を生き 抜くにはあまりにも温厚で弱々しい父親のために没落していった。幼い頃から創作に興味を持っていた彼は、 大学を出てから出版の仕事にたずさわっていたが、問題のある者として五・七幹部学校に送られた。その数年後、 フランスに渡り、演劇の仕事をしながら新しい生活をしている<おまえ>は、あの苦しかった文化大革命の時代 を振り返り、小説にして書いている。
にえ 高 行健(ガオ・シンヂエン)は2000年度のノーベル文学賞受賞作家。 フランス国籍ではあるけれど、初の中国人作家の受賞ということで話題になりました。
すみ でも、日本では翻訳本が1冊も出版されてなかったし、私たちにとっては、 だれ?って感じで、著作を読みたいなあとは思いながらも、そのまま忘れかけていたのよね。
にえ それが去年、2001年にこの「ある男の聖書」がやっと翻訳出版され てて、私たちがそれに気づいたのが今年の2002年になってから。それであわてて読みました(笑)
すみ これは自伝的な小説なのよね。ただ、過去の自分のことを「彼」、 今の自分のことを「おまえ」と二人称で呼んで突き放してる印象はあるけど。
にえ そういう書き方しかできなかったというところに、この小説のすべてがある ような気がしたけど。だいたい「ある男の聖書」という題名じたいが、すでに自分のことを「ある男」と第三者的に 表現してるでしょ。じっさいのところは、自分の「主義をもたない主義」を語る聖書でもあったけど、 「私の背負っている十字架について語る」小説だったと思う。
すみ うん、作者がそういう書き方しかできなかったのは、文化大革命で受けた 精神的な傷、というより人格の一部を破壊されてしまったためなんだろうね。
にえ 文化大革命当時の中国のことを書いた小説はいくつか読んだことが あったから、その内容については衝撃は受けなかったけど、これまで読んだものとは主人公の立場が違ってて、 別の視点で見る驚きが多かったな。
すみ そうだね、これまで読んだものって、上層部の強制や混乱に苦しめら れ、一方的に抑圧されてる人たちの話だったけど、この小説の主人公はかなり能動的。自分で考えて動ける立場の人だったもんね。
にえ 主人公が文化大革命の初期に五・七幹部学校という、エリートだけど 問題のある人を集めたような学校に入れられちゃうでしょ、あそこで起きる抗争は、日本の学生運動をモロ 連想したな。
すみ 当時の日本の極左思想って、中国の影響をすごく受けてるもんね。 似てるっていうより日本のが似せたって言ったほうが正確かも。
にえ それにしても、上層部の批判から抗争へと発展していき、 血なまぐさいところまでいっちゃう流れが、日本の学生運動から連合赤軍にまで行ってしまう流れとすごく ダブったな。
すみ それだったら、資本主義に抵抗して人民のために戦い、理想を追うと ころからはじまって、権力争いに発展していくところも同じでしょ。
にえ 自己批判によって個性が破壊されているところとか、少しあやしいと 思われただけで処刑されてしまうという極端さは、連合赤軍内部で起きてたこととそっくりだし、それが小 グループではなく、国全体で行われてたんだと思うと、あらためて恐ろしくなるよね。
すみ 主人公のまわりでも人があっけなくどんどん死んでいくよね。 自殺だったり、刑務所内で病死してしまったり、飢餓のために亡くなったり。処刑を自殺に見せかけるところも 恐ろしかったけど、建物の下に自殺した人の死体が転がっているのが、驚きもなく対処されていくさまも怖かった。
にえ まともではいられないよね。友だちと部屋で会話をするのさえ、盗聴をおそ れて遠回しなことしか言えないし、親しい人でも、もしかしたらチクるんじゃないかと用心しながらしかつきあえないし。
すみ 二十年も三十年も前にさかのぼって行動を責められたりするから、けっきょくは 上の人に嫌われてしまったら、だれも潔白ではいられないんだよね。
にえ 主人公はそういう上の人に好かれるか嫌われるかで決まっちゃうってところに気づいて、 うまく立ち振る舞おうとするけど、ただもう怯えて、押し潰されるままになっちゃう主人公のお父さんは痛々しかったね。
すみ でも、主人公も結局は逃れられないよね。うまく学校を出て、農村に行くけど、やっぱり 変わらなかった。牧歌的な生活をしている人たちと知り合えてほっとしても、じつはノンビリ生活しているように 見える農夫たちが、前の革命では平気で人を殺していた人たちだと知ってしまうし。
にえ 主人公は文化大革命のあいだも、自由になった今も、とにかく女性と 肉体関係を持つことに執心してて、この本のなかでも、かなりの女性と関係を持つんだけど、それもわかる ような気がした。本心をさらけだして相手を心の底から信頼することができないから、 人との結びつきを感じるには肉体を使うしかないのよね。
すみ そういうつきあいしかできないから、今になっても、だれとも深い友 情とか愛情とかで結びつけないんだよね。中国に対する複雑な感情も、なにも変わらないままだし。
にえ 淡々と語られているけど、凄まじい話だった。ちょっと話が前後して いくから読みづらい小説かもしれないけど、今まで読んだなかでは文化大革命当時のことが一番把握しやす いと思った。
すみ 自分を見失って、捜し求める魂の叫びみたいな小説だったよね。 たんに文化大革命の経験を語るだけの小説ではないところにノーベル賞作家だなと感じたけど。感情移入なしで 読む重い小説が嫌いじゃなければ一読の価値ありです。