「……で、例の拾ったのが目ぇ覚ましたのはわかったが、何で包帯だらけになってんだ?頬の引っ掻き傷だけ見りゃあ、オンナか猫の仕業か…」
 「うーん、たぶんどっちかっていうと猫かなぁ、俺の萌え的には」
 「萌えた結果がソレってのは、実はお前ぇがマゾだったってことか?」
 「それはないなぁと思いたいけど、ちょっとクセになりそう?」
 「……俺は冗談のつもりで言ったんだが」
 「俺も一応、そのつもりだけど?」

 ……半分くらいはね。

 最後の一言はただの幻聴だが、そう言ったように聞こえたらしい葛西が、じっと久保田の顏を見つめた後、まったくてめぇはと小さく息を吐く。しかし、そんな葛西を気にした様子もなく、久保田は視線をリビングのドアの方へと向けた。
 ドアの向こうには廊下があって、玄関に向かう途中に寝室がある。そして、その寝室には拾った少年が、久保田の萌え的に言うと猫が今も居る…はずだ。
 そんな言い方をするのは、寝室のドアにも玄関のドアにも鍵をかけていないせいで。それは猫を閉じ込めたり監禁している訳ではなく、いつでも自分の意思で出て行けるようにしているためだ。
 でも、猫は目覚めてからも自分の意思で寝室の中にいる。
 いや、自分の意思ではなく、ただ混乱しているだけなのかもしれない。
 その証拠に目覚めた猫は、何も聞かず脇目も振らずに久保田に殴りかかってきた。二度目に目覚めた時も同じだった。
 その結果が頬の引っ掻き傷や、その他もろもろだ。
 とにかく自分に近づく者は敵だと認識しているらしく、身体が弱ってふらふらな状態でも攻撃をやめない。しかし、それでもここから出て行こうとしないのは、外がここ以上に危険だと本能的に感じているせいかもしれなかった。

 「まるで手負いの獣だな…」

 ちょっとドアを開けて中を見た瞬間、威嚇するように猫に睨みつけられたらしい葛西は、そう言いながら右手の人差し指でこめかみを掻く。それは葛西が考え込む時のクセで、どうやって猫を久保田から引き離して警察で保護しようかと考えてる証拠だ。
 獣化した右手を見ただけでも十分すぎるほど、危険な匂いはするが…、
 あの尋常ではない猫の様子を見ると、暇つぶしなどと言っている場合ではないし、その程度の覚悟で関わる問題ではないことがハッキリとわかる。
 やっかいごとを背負い込みたくなければ、今の内に警察に引き渡した方が良い。
 右手がああなっている以上、それが猫のためなのかどうかはわからないが、少なくとも久保田自身のためではあった。
 「やっぱり…、右手が原因か?」
 「…………」
 葛西からの二度目の質問に、久保田は今度は答えず沈黙する。けれど、だからといって答えが、久保田の中で形に言葉になった訳では無かった。
 猫を背負った時に感じた重さと、その時に考えていたことと…、
 そして、聞こえた気のした雨音と…、
 それらが混ざり合っても出ない答えが、戸惑いではなく自嘲に変わるのは、たぶんどんな答えがそこにあったとしても、決して誰のためでもない自分のためにしたことだと、それだけが確実にわかっているせいだった。
 「ま、今は手負いでも、じきに慣れるっしょ。このまま…、葛西さんいわくの手負いの獣サンがココに居るつもりならね」
 「それで、お前ぇは獣を慣らしてどうするつもりだ?やっかいごと込みで、飼うつもりってんじゃねぇだろうな?」
 「保護者としての責任上、見過ごせない?」
 「……本気か?」
 「さぁ、どうかな。自分でもわからないけど、無理やり警察へ拉致るつもりなら、今すぐ連れて逃げよっかなってくらいには気に入ってるかも?」
 そう自然に自分の口から滑り出した言葉を聞いて初めて、あぁ、気に入ってるんだと気づいた久保田は声を立てて小さく笑う。すると、葛西が笑いごっちゃねぇだろと、深々とため息をついた後で軽く睨んできた。
 「俺はいつもお前に言ってるよな」
 「面倒は起こすなって?」
 はいはい、わかってますってと睨む葛西に適当な返事しながら、久保田はどうしようかなと考える。当然のように猫を引き渡すことではなく、猫をここに留める方法を。
 やっかいごとでしかない猫について、そう思うこと自体がすでに暇つぶしなんて領域を超えていたが、久保田はそれについては何も考えようとはしなかった。
 そう…、拾った時と変わらず、これは人助けではないから考えなかった。

 「なら、一週間…じゃ無理そうだから、二週間くらい猶予くれない?」

 のほほんとした相変わらずの調子だが、ノーと言わせない押しの強い口調で久保田がそう言うと、葛西は睨むのをやめて深いため息をつく。久保田自身はさっき気づいたばかりだが、葛西の方はすでにそんな気がしていたらしく、なんでまたよりにもよってあんなやっかいな猫を気にいっちまったんだか…と呆れたように言った。
 「お前ぇ…、実は本気でマゾだったんじゃねぇか?」
 「うーん、まぁ二週間猶予くれるなら、そういうコトにしといてもいいけど?」
 「はぁ〜、まったくてめぇは…。どうしてもってんならそれくらいは待ってやってもいいが、二週間程度じゃ何も変わらねぇだろ」
 「まぁ、確かに右手がああなってる限り、やっかいな状況は変わらないかもしけないけど、ね。それくらいあれば、獣を野良猫に変えるくらいは出来るかもしれないし?」
 「だがな、獣が野良猫に変わったところで…」
 「獣を野良猫に変えれば、少なくとも今より話は出来そうだけど?」
 「…………」
 最近、久保田の住む横浜で増え続けている獣化した謎の変死体。混乱を防ぐため報道規制されてはいるが、実際に獣化した人間を目撃した者もいる。
 しかし、久保田のようにそうなった原因が、WAと呼ばれる薬である事を知る者は少ない。知りたくて知ったわけでも、関わりたくて関わったわけではなかったが、その薬の名を忘れるには、記憶に耳に残る雨音が強すぎたのかもしれなかった。
 「……期限は二週間、それ以上は一日も待たねぇ。何かあったら、すぐに俺に連絡しろよ」
 「了解」
 右手が獣化した少年から、WAについて何か情報を聞き出せるかもしれないという久保田の話に葛西が乗ったのは、ただ単に情報が欲しかったせいなのか。それとも、いつになく他人に執着を見せる甥っ子に、叔父として見守りたい気分にでもなったのか…、
 それはわからなかったが、本気で二週間待ってくれるらしい。
 葛西はちゃんと連絡しろよと何かと面倒臭がりの久保田に念を押すと、本当に何もせずに帰って行った。

 「二週間なんて期限つけて、どうするつもりなんだか…」

 葛西が帰ってから、そうぽつりと呟いた久保田はポケットから取り出したタバコをくわえてライターで火を点ける。そして、ふーっと吐き出しながら目を細めると、煙越しにどこか遠くを見つめるような瞳でベランダへと続く窓を見つめた。
 雨だか雪だかわからない…、けれど何か降り出しそうな曇り空を。
 すると今は居ない人の声が、久保田さんの痛みになる人って、どんな人なんっスかね…と、いつかの日と同じ質問をしてくる。その幻聴に細めていた目を閉じた久保田は、痛いのは嫌いだから…と見つめていた窓から視線を逸らした。


                                         2014.7.13
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