それは…、人助けではなかった。
 誰の目から見ても結果的にも、それが人助け以外の何ものでもなかったとしても、俺にとってはそうじゃない。明らかに違う出来事だった。
 ふと通りかかった裏路地の前で、何者かの気配を感じて立ち止まり。
 視線をそちらに向けて近づき近寄り…、それから…、
 気を失い座り込んでる少年の右手を見た瞬間、一年前の雨の日の光景が脳裏を過ったけど、でもただそれだけで…、
 結局、俺は誰も助けなかった。
 その少年の重さをカンジながら、自分の部屋までの道のりを歩きながらも、俺は誰も助けもせずに別のことを考えていた。


 「……どうしたもんだか、ね」


 久保田誠人がそんな言葉を白い息とともに吐き出した場所は、住んでいるマンションのベランダ。雪が降り出しそうな冬の空の下、さっきからぼんやりと眺めているのは、街の風景ではなく、半分開けられたカーテンの間から見える室内。
 でも、そこには誰も居ない。
 この4階の401号室で一人暮らしをしているのだから、それは当然だった。
 少なくとも…、三日前までは。
 今は久保田以外の人間が部屋にいるため、窓の向こう側に人影が見えてもおかしくはない。しかし、その人物は寝室で眠り続けているため、それは無いようだった。

 『倒れてるのを見つけたのはわかったが、やっかいごとを自分のベッドにまで引き込む気になったのは…、やっぱり、あの右手を見ちまったのが原因か? 誠人』

 つい先日、寝室のベットで眠る少年の顏を見つめる久保田に向かって、そう言ったのは叔父であり刑事でもある葛西だが。身元不明の青年の右手…、普通の人間よりも長い爪と指、獣のような毛まで生えた手を見せたのは、別に警察に相談や通報をしたかった訳じゃない。
 見せる代わりに右手についての…、正確にはそうなる原因と思われる薬の情報が欲しかっただけだった。けれど、誰も助けないのにどうして?と尋ねられても、いつかの日の雨音が聞こえてきたような気がするだけで…、
 その答えを言葉にすることは出来なかった。
 
 『さぁ、どうだかねぇ? ただのタイクツしのぎ…なのかも?』
 『それにしちゃあ…』
 『それにしては?』
 『…………』

 言葉にならない答えを誤魔化すように肩をすくめた久保田を、葛西は言いかけた言葉を止めてじっと見つめる。それから、何かあったら連絡することと無理はしないことを条件に、薬の情報を流すことを了承した後、腰を今はそういう事にしておいてやるよと小さく肩をすくめ返した。
 けれど、そんな事を考えたくて、ベランダに出たわけじゃない。
 ただ偶然通りかかった裏路地で拾った少年が、今も目覚めないせいでどことなく落ち着かないだけだった。
 知り合いの医者に診せた所によると、右手が獣化している他は異常はなく、倒れていた理由は過労と軽い栄養失調。命に別状は無いと言っていたが、今日で二日目なのに目覚めないとなると、そういえば無免許だったっけ…と、そんな事を今更のように思い出したりもする。
 でも、それでも久保田の口元に薄らと浮かぶのは自嘲的な笑みだった。

 「ただのタイクツしのぎにしては、気にしすぎ…かな。ベツに心配してるワケじゃないんだけどね」

 なーんて、まるで言いワケみたいだなぁと見上げた空からは、まだ雪は舞い落ちては来ない。けれど、この寒さではベランダに居るのも、そろそろ限界点。
 ふぁ〜っと大きな欠伸を一つして室内に戻ると、久保田はやれやれと右手で乱暴に後ろ頭を掻きながら寝室に向かった。
 拾ってきた名も知らぬ少年は、今も目覚めないままなのか、それとも目覚めているのか。それは寝室のドアを開けてみなければわからない。
 けれど、早く目開けないかなぁと、いつの間にか待ってしまっている。
 ベッドを占領されて困るという理由ではなく、目を開ける瞬間が見たいと思うのはやはり好奇心なのか。ゆっくりと開いたドアの向こう側、ここに連れてきた時と変わらない様子で眠ったままの男を見て、久保田は小さく息を吐いた。

 「早く目ぇ覚ましてくれないと、イタズラしちゃうかも?」

 そう言いながら伸ばした手で、そっと額にかかる黒い髪を払いのけ、優しく頬に触れてみる。すると、触れた場所から少年の温かな体温が伝わってきた。
 拾った時は冷たかったのに、今はこんなにも温かい。触れた手を滑らせて痩せた頬を撫でると、うーんと唸るような声と同時に寝返りを打った。
 でも…、それでも目覚めない。
 そろそろ強引に起こしてみた方が良さそうな気もするが、無免許医からは眠りたいだけ寝かせておいた方が良いと言われている。さて、どうしたものかなと首をかしげ、ホントにイタズラしちゃおうかと、さっきとは違う不埒な手を伸ばしかけた。
 すると、さっきまで目覚めなかった男が、まるでその不埒さに反応したかのように、今まで閉じたままだった目蓋を開く。そして、一度も辺りを見回す事も無く、ベッドの脇に立っていた久保田を真っ直ぐに射抜くように見た。
 すると、必然的に男を見ていた久保田と目が合い…、見つめ合う。いや、少年の側から見れば見つめ合うのではなく、睨み合っていたのかもしれない。
 久保田を鋭く居ぬく少年の瞳は明らかに敵意に満ちていて、でも…、それでも間違いなく久保田と少年は今が初対面だった。

 「コレはまた、派手な寝起きだぁね…、裏路地で行き倒れてたにしては生きも元気良すぎ」

 少年の瞳を見つめ過ぎていたせいか、少し遅れて躱した拳は久保田の頬をかすめ、わずかに傷をつける。拳が届いた分だけ近づいた距離で、再び交わした視線で久保田が口元に笑みを浮かべると、少年は鋭く睨み返すと同時に素早く後方へ飛んだ。
 しかし、目覚めたばかりの病み上がりで、いきなり激しく動き回って平気なはずがない。着地した時に目眩でも起こしたのか、少年の身体がくらりと揺れた。
 でも、それでも久保田が少年に向かって一歩足を踏み出すと、左手で頭を押さえながらも近くにあった灰皿を握りしめて身構える。なぜあんな場所に座り込んで気を失っていたのか、その右手はどうしてそうなったのかはわからないが…、
 少年が置かれていた状況は予想外ではなく、予想通りかなり悪そうだった。
 「どこまで記憶してるか知らないけど、自分が裏路地で気を失ってたの覚えてる?」
 「・・・・・・・・」
 「そこを通りかかった俺がおたくを拾ったのは、さすがに知らないし覚えてないだろうけどさ。ま、一応助けたことになるワケだし、殴らないでくれるとうれしいけど?」
 近づくのをやめた久保田が、のほほんとした口調でそう言ってみたが、少年はこちらを睨みつけるばかりで何も答えない。しかし、さっきよりも簡単な質問を…、ごく当たり前の質問をした瞬間、大きく目を見開く…、
 すると、久保田を攻撃するために握りしめていただろう灰皿が、力を入れ過ぎたのかぐにゃりと曲がった。
 それはおそらく右手ではなく、獣化した右手で握りしめていたせいで…、
 それに気づいた少年の右手から、曲がった灰皿が滑り落ちた。

 「なん…だ、コレ。なんでこんな…」

 名前を聞かれて大きく目を見開き、自分の手を見て愕然として…、
 そんな呟きを少し震えた声で漏らした後、今度こそ少年は糸が切れたように完全に床に崩れ落ちた。
 

                                         2014.6.15

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