「あーあ・・・、なんだかなぁ…」

 朝の体育館でそう呟いた相浦の前には竹刀を構えた松原がいるが、その松原と少し距離を置いて向かい合っているのは剣道部員ではなく室田である。二人はほとんど毎朝、こうやって修行のために竹刀と拳を交えているが、その勝敗の判定をするために相浦も自然にいつも付き合う羽目になってしまっていた。
 相浦も執行部の一員なのでそれなりに強いが、いつも修行している松原や室田ほどではない。そして、ケタ外れに強い時任や久保田とは比べるまでもなかった。
 しかし、執行部での相浦の主な役目は公務よりもデータ処理や情報収集なので気にする必要はない。今日も道場の片隅に置かれている相浦の鞄の中には、需要なデータの詰まったノートパソコンが入っていた。
 そのノートパソコンには松原と室田の対戦記録も入っていて、昨日は松原が勝ったので一勝分だけ松原がリードしている。けれど、今まで二人の勝敗は一勝以上の差がついたことはなかった。

 「隙らしい隙が見つからない…、さすがです」
 「すまないが、今日は俺が勝つ」
 「順番で言ったらそうなりますが、今日も僕が勝ちます」
 「勝負だ、松原っ!」
 「望むところですっ!!」

 二人の間に貼られていた緊張が、室田が一歩踏み出したことによって崩れる。室田が繰り出した拳を竹刀で払った松原は、その竹刀を素早く切り返して室田の肩に打ち込んだ。
 だが、室田の肩に当たるはずだった竹刀は何もない空を切る。そうなったのは松原が竹刀を振り下ろすよりも早く、室田がそれを察知して後方へと下がったせいだった。
 室田が攻撃を仕掛けてそれを松原がかわし、松原が攻撃をしかけると室田がそれをかわす。そんなお互いの呼吸を読み合いながら続けられる戦いは、身体の動きも技の切れも思わず見惚れてしまうほど見事だった。
 だが、相浦はそんな松原と室田の素晴らしい戦いをぼーっと眺めながら、昨日の時任と久保田の姿を思い浮べている。今日は目の前にアイスはなかったが、もしもあったらまたぐちゃぐちゃになってしまっていたかもしれなかった。
 
 「はぁぁぁ・・・・・・・」

 相浦の口からは、朝からため息しか出ない。けれど、それはもしかしたら思い浮べているのが時任一人ではなく、時任と久保田の二人だからかもしれなかった。
 時任に背中から抱きつかれた時、ドキドキしていて…、そんな風にドキドキしている自分のことを自覚はしている。でも、時任にそのことを告げるつもりはなかった。
 時任のそばには久保田がいて、そこに誰も入る隙はない。
 けれど、それがわかっても二人が一緒にいるのを見ていると、あまりにも似合い過ぎていて嫉妬する気にすらなれなかった。
 いくら頑張っても久保田のように時任のことをわかってはやれない…。
 だから、これでいいんだと思ってるけれど、二人が一緒にいる所を見ていると少しだけ胸の中に穴が空いていく気がした。でも、その感じは嫉妬とは少し違う気がして、相浦は胸に空いていく穴の正体をずっと考えていたが…、
 いくら考えても未だにその正体はわからなかった。
 
 「こういう感じ…、知ってる気はするんだけどなぁ」

 相浦はそう呟くと、また深々とため息をつく。しかし、もう一度ため息をつこうとした瞬間に大きな音がしてはっと我に返った。
 さっきからぼーっとしていたので何が起こったのかわからなかったが、松原が床に倒れ込んでいるのが見えたので慌てて駆け寄る。すると、松原の足首は赤くなってかなり腫れてしまっていた。
 実は足をくじいてしまったのは何度も何度も竹刀と拳を交えた後で、松原が竹刀を構えて渾身の一撃を繰り出そうとしたが、一歩踏み出した瞬間に足がすべって派手に転んだからなのである。けれど、足がすべった原因は松原のミスではなく、体育館の床が一部分だけワックスで滑りやすくなっていたせいだった。
 「・・・・・これって、松原を狙ったとは限らないけどさ。やっぱ誰かがわざと滑りやすく塗ってたんだよな」
 相浦はワックスが塗られた床を見ながら、松原に向かってそう言う。だが、松原は同じようにワックスが塗られた床を見つめながらも、黙ったまま何も答えなかった。
 もしかしたら…、何か心当たりがあるのかもしれない…。そう思ったがとにかく早く保健室に連れて行かなくてはならないので、それ以上は何も言わずに松原に肩を貸して起き上がらせようとした。
 しかし、それよりも早く鍛えられて筋肉のついた太い腕が伸びてきて、軽々と松原の身体を抱き上げる。すると、松原はムッとした表情で自分を抱き上げている室田の方を見た。
 「・・・・・僕を女扱いするのは、たとえ室田でも許さない」
 「気にさわったのならあやまるが、やはりお前をこのまま保健室に連れて行く…」
 「降ろしてくださいっ、これくらい自分で歩けますっ」
 「・・・・・・」
 「室田っ!」
 「無理をして腫れが酷くなれば、それだけ治りが遅くなるだろう。そうなるのは松原だけではなく…、俺も困る」
 「なぜ、僕の足が腫れて室田が困るんですか?」
 「それは・・・、修行で俺の相手ができるのも、そして公務の時に俺が背中を任せられるのも松原しかいないからだ。それでもこうやって保健室にお前を連れて行くことを許せないか? 松原」
 「・・・・・・・そんなことはない」
 「ならば、このまま行くぞ」
 「迷惑を…、心配をかけてすまない…」
 「そんな顔をするな、松原…。俺は心配はしているが、迷惑をかけられた覚えはない」

 「・・・・室田」

 室田の説得で松原は抱き上げられたままで保健室に向かうことになったが、二人ともワックスの件については何も言わない。挫いた足の具合もそしてワックスを塗った犯人のことも気になっていた相浦は、二人の後ろについて保健室に行こうとした。
 だが、そんな相浦に向けられた室田のサングラス越しの視線が、これ以上、松原に何も聞くなと言っている。相浦は室田の視線にうなづき返して立ち止まったが、体育館から去っていく二人の後ろ姿を見ながら…、
 また…、小さくため息をついた…。
 松原がこんな目にあうのは初めてではなく、実は必要以上にモテるせいで知らない間に恨みを買っていることが良くある。そのことを相浦も知っていて心配はしていたが、室田のように松原を守ることはできなかった。
 松原に友達以上の感情を持ったことはないけれど、それでもこんな風に背中を向けられるとため息をつきたくなる。その感じは時任と久保田を見ている時と良く似ていて、相浦はワックスが塗られた床を見て唸ってから鞄を持って一人で体育館を出た。

 「当分、朝錬は中止だな…」

 本当は寝坊ができてうれしいはずなのに、相浦はため息混じりにそう呟きながら長い廊下を歩いて自分の教室へと向かう。けれど、廊下の向こうに時任の姿を見つけて立ち止まった。
 珍しく時任の隣に久保田はいなかったが、それでもいつものように声をかけることができない。そんな自分にまたため息をついた相浦は、教室に行くのをやめて窓から外を眺めた。
 すると、窓からはいつものように不気味な笑みを浮かべながら、自分の妄想に浸っている藤原の姿が見える。でも、藤原は相浦と同じように一人でいたがため息をついたりはしていなかった。
 相浦は藤原を見て沈んでいた表情を少し和らげたが、同時にそんな自分自身に苦笑する。そして何度目かのため息をつこうとした時、後ろから良く知っている声がした。
 「なぁに、朝っぱらから一人でたそがれてんのよっ」
 「別にたそがれてなんか…って、なんだ桂木か…」
 「なんだとは何よ。時任じゃなくて悪かったわねっ」
 「そ、そんなこと誰も言ってねぇだろっ」
 「でも、図星でしょ」
 「だからっ、そんなこと思ってないってっ」
 相浦はそう言って否定したが、桂木が信じたかどうかはわからない。だが、それ以上は何も言わずに窓の外を見ている相浦の横に並んだ。
 相浦と同じように鞄を持っている桂木は、どうやらまだ教室には行っていないらしい。もうじきチャイムが鳴ってしまうので教室に急がなくてはならなかったが、それでも桂木は相浦の横で一緒に窓の外を眺めていた。
 「何か言いたいことがあるなら言いなさいよ。今なら、無料で聞いてあげるから…」
 「・・・言いたいことって、桂木に?」
 「そうじゃなくて、別に特定の誰かに言いたいって訳じゃないけど…、誰かに何かを聞いて欲しくなることってあるでしょ?」
 「・・・・・・・・」
 「でも、ただ一人でいたいだけなら、あたしは教室に行くわよ。邪魔をする気は毛頭ないしね」
 昨日から相浦の様子を見ていた桂木は、いつもと違う相浦の表情から何かを感じ取っていたらしい。けれど、そう言われても相浦は自分の中にある胸に小さな穴が空いてしまったような感じを上手く言葉にできなかった。
 こんな風に感じ始めたのがいつ頃からだったのかは覚えていないが、最近は特にそう感じることが多くなっている。相浦が何も言わずにいると桂木は軽く肩をすくめて窓から離れたが、教室に向おうとすると軽く頭を掻きながら相浦が口を開いた。
 「あのさ…、桂木」
 「なによ?」
 「なんとなくだけど、自分がいなくても何も変わらないって…、そんな風に思ったりすることってある?」
 「もしかして、それって執行部のことなの?」
 「自分で言ってても良くわかんねぇけど、たぶん執行部だけじゃないと思う…。そういうこと考えるのは、くだらないってのはわかっちゃいるけど…。なんで俺は誰の特別にもなれないのかなぁって…、ちょっとだけ思っちまってさ」
 「・・・・・・そう」
 「ああ…、そっか…。そうだったんだ…」
 「なに? 何かわかったの?」
 「あぁ…、さっきまでなんで胸の中にちょっとだけ穴が空いてんのかわからなかったんだけど、桂木に話してたらなんとなくわかっ・・・・た・・・・」

 
 ・・・・・・・さみしい。


 胸に空いた穴の正体は、わかってしまえば簡単だった。
 時任と久保田も、松原と室田も男同士だけどそういう関係で…、だからその中に入れないのは当たり前だとわかってはいる。でも、一緒にいるとどうしても自分が一人だということを強く感じてさみしかった…。
 自分も彼女を作ればそんなことも減るのかもしれないが、執行部の公務があってそんな暇はない。そして、忙しくて執行部にいることが多いせいでさみしさを感じることも多かった。
 自分の胸に空いた穴の正体を知った相浦は、もうため息をついたりはしていない。けれど、三年生である自分が後どれくらい執行部にいるのか、なんなく数えてしまっていた。

 「あのさ、俺・・・・・・」

 その次に続く言葉は、言ったら絶対に後悔するとわかっている。
 でも、また一人でアイスクリームをぐちゃぐちゃに掻き回すのは嫌だった。
 相浦はそこまで言って深呼吸をすると、次の言葉を桂木に告げようとする。だが、そうしようとした瞬間に、すでに教室に行ってしまったはずの時任の声が廊下の向こうから聞こえてきた。
 その声に気づいた相浦が窓から廊下の方に視線を移すと、一人の男子生徒と時任が言い争っているのが見える。そして、そのそばには保健室に行った松原と室田もいた。
 男子生徒は見覚えのない顔だったが、良く見てみると時任と言い争っているのではなく、松原に掴みかかろうとしているのを間に入った時任に止められている。こういった場合、普通は室田が止めるのだが、今日は足を挫いている松原を支えているので時任に任せているようだった。
 男子生徒は松原が自分の彼女を奪ったとかなんとか叫んでいるが、それが誤解であることは聞かなくてもわかる。けれど、男子生徒の言っていることが濡れ衣だとわかっていても、今日は松原達のいる所に行く気分にはなれなかった。
 松原のそばには室田がいるし、時任が来ているのだから、怪我人が出るような危険な事態にになれば久保田も来るだろう…。

 どうせ…、自分が行った所で何も変わらない…。

 相浦はそう思って三人から目をそらせたが、今度はそんな相浦を見て桂木がため息をつく。いつも明るい相浦なだけに、こんな風に沈んでいる姿を見るのは珍しかった。
 けれど、ため息をつきながらも相浦の気持ちがわからないわけじゃない…。
 同じようなことを思ったことがないと言い切ると、自分の心に嘘をつくことになる…。
 だが、桂木は少しだけ迷うように手を泳がせながらも、いつもの調子で思い切り相浦の背中を押した。
 「ウダウダ悩んでないで、さっさと行きなさいよっ!」
 「でもさ、俺が行かなくても時任がいるなら十分だろ?」
 「じゃあ、アンタにとって友達とか仲間が困ってるのって、十分とか十分じゃないとかそういう問題? 困ってるのを見て走り出したくならないの?」
 「それは・・・・・・」
 「自分は誰の特別にもなれないって、だったらアンタはどうなのよ? アンタの特別って何? 一番特別じゃなかったら価値なんてないの? 無い方がいいの?」
 「・・・・・・・・」
 桂木の問いかけに、相浦は答えられずに黙り込む。
 執行部員じゃなくなったら胸に穴が空くことも無いかもしれないと思ったけれど…、それは皆から離れたいと思ったからじゃなかった。でも、逆にずっとこんな風に一緒に執行部して、仲間で友達でいたいという気持ちが強いからこそ胸に穴が空く…。
 相浦は桂木に押されて一歩前に足を踏み出したが、それ以上は前に足を踏み出せないでいた…。すると後ろに何者かの気配がして、その気配に気づいた相浦は振り返るとそこには騒ぎを聞きつけてやってきた久保田がいた。
 これで…、もう行く必要なんて無い…。
 相浦はそう思って小さく息を吐いたが、廊下の向こうからこちらに向って呼びかける声がする…。そしてその声は後ろにいる久保田ではなく、相浦のことを呼んでいた。

 「相浦ーっ!! コイツがワックスの犯人だっ!! そっちに行ったから捕まえろっ!!」
 
 犯人を追いかけて走り出した時任にそう言われた相浦は、戸惑いながら後ろにいる久保田を見て、それから桂木の方を見る。そして廊下の向こう側に視線を戻すと、今度は松原を支えていて動けない室田が相浦を呼んだ。
 「頼むっ、俺の代わりにソイツ捕まえてくれっ!! 相浦っ!!」
 ワックスを塗って松原に危害を加えようとした犯人は、室田の声で相浦達の存在に気づいて走る方向を変える。けれど、相浦はまだ立ち止まったままでいた。
 すると、桂木がポケットの中に入れていた青い腕章を相浦に向って投げつける。それは学校にいる時には手帳と一緒に持ち歩くことになっている、執行部である証だった。
 「時任も室田もアンタのこと呼んでるのに、それでも行かないつもり?」
 「・・・・・・・・」
 「確かに一番じゃないかもしれないけど、時任も室田もアンタのことを呼んでるわ。仲間で友達で…、それって特別なことじゃないの?」
 「けどさ・・・・・」
 「けども、でももないわよっ!特別になれないってため息ばかりついて自分の中に閉じこもって、特別じゃないって否定してんのはアンタ自身じゃないっ!」
 「・・・・桂木」

 「呼んだのに答えてもらえなくて、それでさみしいって想うのは…、そう感じるのはアンタだけじゃないのよ…」

 時任と室田が…、目の前では桂木も相浦を呼んでくれている。そして松原も動かない相浦を心配するように、じっとこちらを見てくれていた。
 久保田はいつものようにぼんやりと立っているが、冷たい感じはしない。
 少しずつ少しずつ色んなことが重なって、まるで一人でいるような気分になっていたけれど…、桂木が投げた腕章を握りしめると胸に空いた穴が埋まっていくような気がした。
 相浦は腕に腕章をつけると、犯人を追いつめるために反対方向に向って走り出す。すると、それに気づいた時任が更に走る速度を上げて相浦達の視界から消えた。
 「やっぱ、俺って結構現金かも…」
 「いいんじゃない、別にそれで」
 「話聞いてくれてありがとなっ、桂木!」
 「礼はいいからっ、犯人絶対に逃がさないで捕まえなさいよっ!!」

 「了解っ!!」

 そう言って元気良く走っていく相浦の姿も、すぐに桂木の視界から消える。すると廊下には桂木と久保田が残り、室田は松原を連れて保健室へと向った。
 やがて校内にチャイムが鳴り響き…、また学校での一日が始まっていく。桂木はチャイムが鳴っても教室に向わず、さっき相浦がそうしていたように窓から外を眺めた。
 「時任…、勢い良く走って行っちゃったけど、後を追わなくてもいいの?」
 「ま、あれくらいならヘーキでしょ」
 「今日は余裕ね」
 「さぁ?」
 「…ったく、昨日のことといい。時任のことになると過保護だし独占欲剥き出しだし、気持ちはわからないでもないけど、たまには少し手加減してあげなさいよ」
 何を言っても無駄だということを知りながらも、桂木は久保田に向ってそんな風に言う。すると久保田はポケットからセッタを取り出して、口にくわえてライターで火をつけると煙を肺の中に吸い込んだ。
 「うーん、やっぱ無理かも?」
 「久保田君っっ」
 「お友達ゴッコするシュミないし、気づいてるのに気づかないフリして見てられるほどオトナじゃないんだよねぇ、俺ってまだコウコウセイだし?」
 「アンタねぇ…。タバコ吸いながら、こういう時だけコドモしないでくれる?」
 「まあまあ」
 「まあまあっ、じゃないわよっ!」
 桂木はセッタを吸いながら歩いてく久保田の背中に向ってそう叫んだが、もう手加減するように言う気はない。それは気づいているのに気づかないフリはできない…、そして友達ゴッコはできないと言った久保田の言葉の意味がわかったからだった。
 時任のことは絶対に譲れない…、だからこそ気づかないフリはできない…。
 そして執行部の仲間だからこそ…、友達ゴッコはできない…。
 いつも時任の方ばかりを見ている久保田だが、同じ執行部員達をちゃんと仲間と認めていた。

 「久保田君らしいわよね…、そういうトコ」

 桂木はチャイムが鳴り終わった廊下で久保田の背中を見送りながら、鞄を持ったままの手を上にあげて思い切り伸びをする。それから自分も教室に向って歩き始めたが、なんとなく授業が始まって静かになった廊下に響く自分の足音が耳についた。
 廊下に響く足音は一人で歩いているので、一人分しか聞こえない。桂木は歩くのをやめて振り返ると、誰もいない廊下を寂しそうに微笑みながら眺めた。

 「結局・・・、一人なのは・・・・・・・・」

 静まり返った廊下で、桂木はそう呟きかける。だが、その静寂を打ち壊すようにドタバタと走ってくる音が、立ち止まっている桂木に迫ってきた。
 それに気づいた桂木が足音のする方向を向くと、廊下の向こうからワックスを塗った犯人とその犯人を追いかけながら走ってくる時任と相浦の姿が見える。どうやら思った以上に犯人の足が速かったらしく、二人とも捕まえることに失敗して取り逃がしてしまったらしかった。
 「桂木ーーーっ!!! そいつを捕まえてくれっ!!!!」
 「そこで逃がしやがったら、承知しねぇかんなっっっ!!!」
 それぞれに勝手なことを言いながら時任と相浦が走ってくるのを見ると、桂木はふーっとため息をつく。けれど、そのため息はさっきとは違って穏やかで柔らかかった。
 
 「なーんて…、そんなこと思ってるヒマなんてないわよね」

 そう言って予備で持っていた腕章を鞄から取り出して腕につけると、桂木はトレードマークである白いハリセンを取り出して構える。そして真っ青な顔をして勢い良く走ってくる犯人に狙いを定めると、正義の味方の執行部員らしく不敵にニッと笑った。


 「天誅ーーーーっ!!!!」

 バシィィィィンッッ!!!!!


 今日も私立荒磯高等学校の校舎に桂木のハリセンの音が響き渡り…、暑い日差しの中で鳴く蝉の声が、その音に重なって夏の季節を告げる。
 そして、そんな暑い季節の中で今日も元気に相浦や時任と笑い合う桂木の笑顔は、雲一つ無い青い夏の空のように晴れ渡っていた。


                                             2004.8.15



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