「くー…、すぅー・・・・・」

 さっきから、すぐ近くで時任の静かな寝息が聞こえている。
 けど、ココはまだ俺らの住んでるマンションじゃなくて、海に行った帰りの電車の中…。結局、夕暮れ時まで海でぼんやりと寝転んだり散歩したり、遊んだりしてた俺達は、海から駅に戻る途中のファミレスでのんびりと晩メシを食べてから、マンションへ帰宅するコトになった。
 ファミレスで上機嫌でハンバーグを食べ、駅までたどり着いた時まで元気だった時任も、ケンカで体力を消耗した上にはしゃいで遊んだせいか、一度だけする電車の乗換えを終えると同時にうつらうつらと舟を漕ぎ始め…、俺が着いたら起こしてやるからと言ったら、安心したように頭を俺の肩に預けて目を閉じ眠ってしまった。
 けど、実は俺自身も着くまで目を開けてるのは至難の業って感じで、さっきから眠気に襲われ意識を飛ばしかけては引き戻す…という状態を繰り返している。時任の寝息を聞きながら、二人で見た海を脳裏に思い浮かべて…。
 あの海はもう見えないけれど、今も俺の耳の奥では繰り返し押し寄せてくる波の音がしていた。

 ・・・・・・・時任と俺の手形の残る、あの海の音がしていた。

 閉じそうになる目蓋を引き上げながら、俺は時任のつむじを見る。
 それはさっきまで、俺の世界の中心があった場所…。
 けど、時任は俺らの世界は、手のひらの中にあると言った。
 時任の手と俺の手が重なった場所に…、海も世界も生まれて…、
 だから、一人だけじゃ世界は出来ないから、俺の世界の中心もココに置いてくれなきゃ困るって言って耳まで真っ赤になりながら…、
 キスした唇にキスされた…。
 それはとても幼いつたないキスで、生まれたての世界の感触がして…、
 俺はぐらりと揺らいだ理性をなんとか保ちながら、俺達の世界の中心で時任を強く抱きしめた。

 「そんな無防備に寝てると手のひらだけじゃ足りなくて…、もっと深いトコに世界を孕ませたくなるんですけど?」

 無防備に眠る時任にそう小声で囁くと、寝ぼけた声でムニャムニャともう食べられない…という返事が返ってくる。そんな時任に小さく笑った俺は、肩に乗った頭が落ちないように気をつけながら大きなアクビをしようとした。
 けど、目の前をあの駅が…、ケンカをしてた二人の居た駅の看板が目に入り、出かけていたアクビは俺の苦笑に噛み殺されて…、
 俺達の間に、俺達の世界に生まれ続けている誤解が、駅の看板と一緒に俺の胸を過ぎる。
 たとえ、どんなに誤解が生まれようと、何が俺達の間にある海から生まれて来ようと…、一緒に居たい気持ちは変わらない。だけど、握りしめた手のひらの中に世界の中心があるとしたら…と、そう考えると駅で見た時任の無表情な横顔が脳裏に浮かんだ。
 俺の言葉にショックを受けて、頭の中を真っ白に染めて…、
 悩んで苦しんで…、俺に海に行こうと言った可哀想な時任の顔が…。
 すると、穏やかで優しい空気は俺の前で霧散し、代わりに開いていたドアから忍び込んでくる冷たい風が周囲を満たした。
 
 「ねぇ、時任…、聞いてくれる?」

 駅で停まっていた電車が再び走り出すと、時任の横顔を思い浮かべながら、隣で眠る時任に話しかける。
 そして、聞いていないのを承知で、俺は告白を始めた。
 でも…、それは好きだとか、そんな甘い告白じゃなくて…、
 ドロドロとした醜い感情と…、暴力と血に塗れた過去の追憶。
 そう、俺は確かに倒れてたお前を拾って助けた…って、そういうコトになるのかもしれないけど、優しさから親切から助けたワケじゃない。気まぐれなのか、それとも俺の中にある過去の何かが作用したのか、それはわからないけど…、
 少なくとも俺は良い人と呼ばれる種類の人間じゃない…。
 お前が思うよりも、もっと…、ずっと俺の手は血に塗れ汚れて…、
 
 ・・・・・・・・・・だから、誤解しないで。

 どんなに微笑んでも、俺が優しいなんて思わないで…、
 どんなに頭を撫でても、俺が良いヒトなんて思わないで…、
 どんなに抱きしめても、俺を好きだなんて言わないで…、
 どんなにキスしても…、俺を愛してるなんて言わないで…。
 俺達の手のひらに生まれた世界が、どんなに優しく見えても…、俺の手のひらが重ねられてる限り、世界は血塗れで救いようがないから…、

 ・・・・・・・・・・・・・だから、今だけは誤解していて、時任。

 あまりにも傲慢で自分勝手な告白と願いと、耳を打つ二人で聞いた波の音。俺の中で続いていく波と言葉は、きっと青い色をしていない。
 だから、きっと初めて触れた唇の感触に、たとえ何かが生まれたとしても、絶え間なく打ち寄せる波の数に飲まれ削られ壊され…。それでも、たぶん俺は時任の手を離せない…だから、その時は二人の間の海から、絶え間なく後悔が生まれてくるんだろうと思った。
 けど、吹き込んだ冷たい空気の中に沈み込み、俺が告白を続けてると、うっすらと目を開けた時任が、左手で俺の頭をベシッと軽く叩いた。

 「寝ぼけたコト抜かしてんじゃねぇ、バーカ」

 今まで寝てたのは時任で、寝ぼけてるのは時任のはずなのに…、
 起きてた俺は、そんな風に言われて叩かれた頭を撫でる。
 すると、時任は頭を撫でてる俺の手をぐいっと引っ張り握りしめてから、また眠るために目を閉じた。

 「俺らの海と世界をなめてんじゃねぇよ…、久保ちゃんのクセに。俺らの海は久保ちゃんが思うよか深いし、俺らの世界は久保ちゃんが思うよか広いに決まってんだろ。だから、久保ちゃんのモンなら何だろうと、全部飲み込んでやるよ…、残さず全部な…」
 「きっと、後悔するよ…、これから先、手を離さずにいるなら…」
 「俺らの海に航海はあっても、後悔の二文字はねぇ…。それに、俺らの海なんだから、ホントは久保ちゃんだって、そうだろ?」
 
 俺の告白をどこまで聞いてたのか、どこまで聞こえてたのか…、それはわからない。けれど、時任がやけに自信満々にそう言うから、俺は呆然とそれにうなづくしかなかったし…、
 そうね…という言葉以外、頭に浮かんで来なかった。
 だから、たぶん俺はもう海に、時任に飲み込まれてるのかもしれない。まだ、一度しかキスしたコトないのに、俺はもう深く時任に飲み込まれてて…、
 知らない内に、醜い欲望を吐き出しているのかもしれなかった。

 「うーん、生まれてくるコは女の子がいいなぁ」
 「・・・・・寝ぼけてねぇで、早く正気に戻れ」

 そう言われて再び時任にベシッと頭を叩かれながら、俺は小さく笑う。でも、それはもう、さっきまで浮かべていた苦笑じゃなくて、隣で目を閉じている時任のぬくもりを感じて自然に浮かんだ、微笑。
 握りしめた手のひらの中に、二人きりの世界を感じながら…、
 俺は緩んだ口元を隠しもせずに、窓の外を通り過ぎる何個目かの駅の看板を見る。すると、その視界の中に俺らと同じように…、組み合わせは男女だったけど、手を繋いで立っている二人が入った。
 
 「・・・・・・・あ」
 
 手を繋いだ二人を見て、俺が小さく声を出したのは顔に見覚えがあったから…。一度しか見たコトなかったけど、今日の出来事はその二人がきっかけで始まったみたいなモノだったから、俺は二人の顔をハッキリ覚えていた。
 時任と電車を待ってた駅で、別れる寸前だった二人。
 すくなくとも、俺と時任の目にはそう見えていた。
 でも、今、二人は手を繋いで電車に乗っている。
 男の方はやけに幸せそうに、女の方は怒ったような顔をしながらも、その表情の中に何か照れのようなモノが混じっている。握りしめた二人の手の薬指には、駅で見ていた時にあったかどうかはわからないけど…、指輪がはめられていた。
 握りしめられた二人の手のひらの中に、どんな世界があるのかはわからない。けど、それはたぶん…、時任や俺が思うよりもずっと深かったのかもしれなかった。
 何があっても、どんな事が起こっても…、一緒に居たいと願うなら…、
 一人じゃなくて…、それを二人が願うのなら…、
 ケンカしても仲直りするだろうし、離した手だって、また繋ぐだろう。
 目の前に立つ二人を見て、ケンカをしたいと言った時任の気持ちがほんの少しだけわかったような気がした俺は、握りしめた手を口元へ引寄せて…、
 時任の薬指に、軽く唇を落とした。

 「大丈夫…、何度でも仲直り出来るよ。何があっても起こっても、俺らの海に後悔の二文字は存在しないから…、ね?」
 
 もうじき、俺らを乗せた電車はマンションに近い最寄りの駅に到着する。
 そして、到着した駅から、しばらく歩けばマンションに帰り着くけど…、
 俺らの手のひらの中に生まれた世界は、それを握りしめて歩く道のりは遠く…、まだまだ始まったばかりだった。

                                             2008.10.13
 

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