「久保ちゃん、まだ?」
 「ん〜、もうちょっと」
 「腹減った」
 「はいはい」
 
 朝起きて、おはようって言って、二人でベッドを抜け出す。
 俺も時任もまだ眠かったけど、学校に行くために朝の準備を始めなちゃならない。
 あれから、表向きはすべてが日常を取り戻したように見えるけど、やはりそんな何気ない一日一日にも、確実に痛みと息苦しさが侵食し始めていた。
 時々、何か考え込むように俯いている時任も、やはりそれを感じてるんだろうと思う。
 俺はフライパンで目玉焼きを焼きながら、窓から見える景色を眺めていた。
 すべてを覆い尽くすように広がる雲、降り続く雨。
 今日は昨日の天気予報で言ってた通り、雨が降ってる。
 こうやって朝ごはんの準備をしつつ窓から降り止まない雨を見ていると、俺は一週間前のことを思い出してしまう。
 その日もこんな風に雨が降っていたから。

 それは…、俺が時任を殺そうとした日のことだった。

 時任から逃げるように走り出した俺は、気づくとマンション近くの公園のブランコに座ってた。
 なんでこんな所に来てしまったのか、自分でもわからない。
 それはまるで、時任から逃げてきたはずなのに、少しでも時任の近くに居たいと願っているかのようで、俺は雨に濡れながら、ただひたすら相反する二つの感情に混乱していた。

 …切り裂かれるようなこの感覚は、一体どこから生まれてるんだろう?

 何もかもがはっきりとした形を失っていくような気がして、俺はじっと自分の両手を眺めた。
 この手には、まだ時任の首を絞めた時の感触が残ってる。
 その感覚だけがやけにリアルだった。
 恐怖に歪んだ時任の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
 何よりも誰よりも…大切で守りたかったものを、俺は自分自身の手で壊していく。
 身体中を支配する、この痛みを止めるために…。
 けど、この痛みが決して止まらないことを俺は知ってる。
 痛みが止まらないのは、出会って、恋して、愛して、抱きしめた事実と、この狂おしい想いが消えたりしないのと同じで、時任の存在を自分自身の中から消すことなんてできないからだ。
 もしかしたら、大切っていう本当の意味を知ったのはそれを壊そうとした瞬間だったのかもしれない。 たぶん、大切だから何もかもが許せなくなった。
 まるで、俺から時任を取り上げようとしているすべてのモノを憎むみたいに…。
 そんな風に憎しみが胸の中で重く苦しく痛んでるのに、スキだ、アイシテルんだって俺は絶叫してるのかもしれない。ただひたすら一緒に、ただひたすら傍にいたいと願って、ココロをキシキシと軋ませながら…。
 ありきたりな日常も、平穏な日々もいらない。
 時任が生きていてさえいてくれたら、それだけでいいのに。
 たった一つ、それだけを望んで願っているのに。
 どうしてそれだけ叶わないんだろう。
 何を引き換えにしたっていいのに・・・・。
 「時任…」
 知らずに漏れてしまった呼びかけは激しい雨音にかき消され、あたりは静けさと薄闇に包まれていた。
 
 
 
 
 どれくらいそうしていただろうか、ふと暖かいモノが頬に当たったので顔を上げると、そこには時任が立っていた。
 その瞳には恐怖の色なんかなくて、ただ哀しみだけが浮かんでる。
 てっきり、もう俺のコト恐がってそばに来てくれないと思ってたのに、時任は暖かい手で俺の頬を包み込んでた。
 「目ぇそらさないで俺を見ろよ、久保ちゃん」
 時任は俺をじっと見つめながら、そう言う。
 どうして俺のコト責めないの?
 嫌いになったかなんて聞いたりして、殺すかもしれないって言ってるのに、決して俺から瞳をそらそうとしない。
 時任は自分の病気のコト知っても、その運命を嘆き哀しむこともせずに、ただ暖かい腕で俺のコト抱きしめてくる。まるで壊れかけた俺のすべてを包み込むみたいに…。
 そんなのは優しすぎて痛いよ、時任。
 痛くて痛くて…、声も無く泣いている時任のココロが想いが痛くて、俺はその涙と時任の唇に自分の唇を重ねる。
 深く深く口付けて、止まらない哀しみを、愛しいその存在を強く抱きしめた。

 ・・・・・涙に似た雨が時任にも俺にも降り注いでる。
 
 「ゴメン、久保ちゃん」
 「…ゴメンね、時任」
 俺があやまらなきゃならないのに、先に謝ったのは時任の方だった。
 悪くないのにあやまったのは俺のせい。
 俺は…、時任の負担になってしまっているのかもしれない。
 時任は自分のことより、俺のこと心配してる。

 「帰ろう…」
 「うん」

 俺のせいでずぶ濡れになった時任に置いてあったカサをさしかけると、時任はすごく嬉しそうに笑った。まるでいつもみたいに。
 だから俺も、いつもみたいに微笑み返すしかなかった。




 「できたよ、時任」

 朝ごはんを作り終えると、俺はそれをテーブルに並べた。
 時間はそれほど遅くないから、食べてもまだ学校には十分に間に合う。
 「いっただきまーす」
 「はい、どうぞ」
 俺はご飯と目玉焼きをパクついている時任を見ながら、やっぱりさっきと同じように外を眺めていた。
 俺は行き帰りと時任を自転車の後ろに乗せて通学していたから、どうしても雨は気になる。
 時任は自転車通学のことを始めは気にしていたが、今は楽しそうに俺の後ろではしゃいでいた。自転車に乗ると風が気持ちいいし、景色が流れるのが面白いんだって言ってたっけ。
 けど、今日くらい降ってるとかなり濡れちゃうから、あまり時任を自転車に乗せたくない。
 俺はそう思って、外から時任に視線をうつした。
 「時任、今日はお休みしない?」
 「なんで?」
 「雨降ってるから」
 「降ってても学校あるじゃん」
 「それはそーだけどさ。こんだけ降ってると、ね」
 「…どしてもダメなのか?」
 「どしてもじゃないケド」
 「・・・・わぁったよ、休む」
 「うん」
 あれから時任は、無茶なことは絶対しないって俺と約束した。
 公務の方は生徒会室に顔は出してるけど、巡回には出てない。
 巡回だけは出ると言ってきかなかったけど、俺も巡回に出ないから休んでって言ったら、
 「久保ちゃんは出ろよ。二人も抜けたらキツイじゃん」
と、笑って時任は首を縦に振った。
 泣き出しそうになるのを必死に耐えたみたいな笑顔。
 俺はその顔を見た瞬間、ちよっとだけ時任が執行部にこだわっていた理由がわかったような気がした。
 そう、俺達は執行部でコンビ組んでる。
 俺は時任の相方っていうポジションで、それはたぶん一番俺達らしい関係の呼び名。
 対等で、一番信頼してる存在で、前でも後ろでもなく、真横に、隣に並んだカンジ…。
 確かにそれは執行部や学校でのコトだったけど、俺はそんな風には思ってない。
 いつだって、どこでだって、俺の相方は時任一人なのに。
 時任はそう思ってくれないの?
 
 「…久保…ちゃん」
 「どしたの?」
 物思いに沈んでいた俺が、かすれた感じの小さな声にハッとして時任を見ると、時任の顔が真っ青になってた。
 苦しそうな呼吸、額に浮かんだ汗。
 「・・・・・・・」
 「時任っ!!」
 椅子からずれ落ちるように倒れた時任に駆け寄った俺は、その身体を抱き上げてソファーに横たえると、いそいで受話器を取って119番へとプッシュした。
 どんなに時任が苦しくても、俺はそれを助けることができない。
 携帯用の酸素ボンベを口元に当ててやりながら、俺は時任の手をぎゅっと握り締めた。
 何も出来ない自分に怒りを感じながら…。
 



 時任が倒れて三日後。
 俺は学校に、二人の休学届けを提出した。
 「久保ちゃんまで休みにすることねぇじゃんっ」
 そう時任は言ったけど、時任を置いて学校に行く気には絶対になれないし出来ない。
 時任の顔を見ていないと原因不明の息苦しさに襲われてしまうから…。
 俺は今まで以上に、病的に時任から離れられなくなってきていた。
 時任の身体は一日一日が過ぎるごとに確実に弱ってきてる。
 機能低下が著しいため、医者に病院に入院するように言われたけど、時任はそれを激しく拒絶した。
 
 「あそこは俺の家なの。だから、俺はあそこにしか帰らねぇのっ!」
 「けど、病院にいた方がいいっしょ? 苦しくなったら、お医者さんがすぐに診てくれるよ?」
 「かもしんないけど、イヤっ! ぜってぇヤダっ!」
 「時任」
 「久保ちゃんに迷惑かけるし、すっげーワガママだってのもわかってる。けど、俺はあそこにいてぇの。…頼む、久保ちゃん。俺のコト追い出さないで」
 追い出さないでって、時任は本気で俺に頼んでた。
 泣き出しそうに顔を歪めて…。 
 俺は胸に痛みを感じて、医者の前だということも気にせずに時任の額に小さくキスした。
 「追い出したりするはずないでしょ?あそこは俺と時任の家なんだから」
 「だけど…」
 「そんなの当たり前だって、時任は思ってくれないの? だったら悲しいケド」
 「…そーだよな」
 「うん」
 本当なら、強引に入院させたりとかするんだろうけど、医者があまり強く反対はしなかったのは、それだけ希望がないということなんだろう。
 医者としては入院させたいが、患者のことを考えると家にいさせてやりたいといった感じなのかもしれない。
 これ以上悪化したら必ず入院するようにと言われて、俺らは病院を後にしたけど、やっぱり悪化しても時任は入院しそうになかった。
 時任は苦しいはずなのに、苦しいなんて言わない。
 そうやって一人で耐え、戦ってんのが時任の強さなんだってわかってる。
 生きることを絶対にあきらめないで、今を必死に前だけを向いて歩いてんだって。
 俺はそんな時任を強く抱きしめて、ずっと、ずっと時任だけを見つめてたいと思う。
 ただひたすら足掻いて足掻いて足掻きまくって、生きることに、その姿勢に必死でしがみついてる時任の姿を・・・・・。

 …誰よりも近くで。

 相変わらず時任が眠ってる時に、俺は手首から感じ取れる心臓の鼓動を数えてた。
 トクン、トクン、トクン…と刻まれる心音。
 それが、時任が生きてるんだって確実な証だから…。
 そうやって鼓動を聞いているせいか、俺には眠りの時間というものがほとんど訪れなくなってきてる。
 
 俺は時任と一緒にいても、神経が張り詰めている自分に気づいていた。
 

                                             2002.5.1


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