グリーンレクイエム 9






 キィ…と軋む古びた入口のドア。
 そのドアのガラスに書かれた、右上がりの店名。
 足を踏み入れると店内は薄暗く静かで、その静寂の中に何の規則性も無く、バラバラに置かれた売り物の骨董品。
 およそ四か月ぶりに訪れた東湖畔は、店主の胡散臭い笑みまで何一つ変わりなく、あまりにも何も変わらないせいか、あの日、あの時間に戻ってしまったかのような錯覚さえ覚える。そんな事はあり得ないとわかっていても、小さなテーブルに置かれた茉莉花茶の入った湯呑の位置まで、寸分たがわず同じ場所に置かれているような気がした。
 けれど、それでも今日はあの日じゃない。
 その証拠に外は快晴で、空には雲一つなく雨音も聞こえない。
 腹も空いていないし、手にも何も持ってはいない。
 ここに居るのは、東湖畔に足を踏み入れた理由は雨宿りではなかった。
 
 「・・・・・どうも」

 いらっしゃいと自分を迎えた鵠に、久保田はそう短く挨拶する。
 そして、あの日と同じように古い床を軋ませ、最小限の音を立てて歩き、穏やかな微笑みを浮かべる鵠の前に立った。給料の三か月分をはたいて買った鏡のことを、その中に居る少年に関する情報を聞くために…、
 けれど、久保田よりも早く鵠の方が先に口を開き、いらっしゃいませと言ったのと同じ口調で、思ったよりも随分と遅かったですねと言った。
 「もう、あれから四か月ですか…。もっと早く…、また雨宿りのついでにでもいらっしゃるかと思ってましたが、こんな天気の良い日に来られるとは意外でしたね」
 「意外ってワリには、お茶を準備してたり?」
 「これは習慣…というより、おまじないのようなものです。お茶を入れる時は、二人分入れる事にしてるんですよ」
 「それで、おまじないついでに、お茶しながら客待ち?」
 「えぇ、そうです、待ってるんですよ。貴方の様な、お客様が来てくださるのを…」
 「・・・・・・・・」
 二人分入れるのは、習慣、おまじない。
 鵠はそう言ったが、本当にそうだろうかと白い湯気の立つ茉莉花茶と胡散臭い微笑みを眺めていると疑わしく思えてくる。雨も鏡も何もかもが偶然に見えて実はそうではなく、何か得体の知れない思惑が、理由があったのではないかと勘繰りたくなる。
 しかし、当の本人である鵠の方はあっさりとしたもので、湯呑を手に取り茉莉花茶を一口飲むと、久保田の前に一枚の茶封筒をぽんと気前良く置いた。

 「それでは、引き取りは近い内に…。都合の良い日にちと時間が決まったら、封筒に書かれた番号にご連絡ください」

 ・・・・・・茶封筒、引き取り。
 まるで、当たり前のように鵠の口から出た言葉と差し出された封筒が、なぜか久保田の中で上手く繋がらない。だから思わず、じっと封筒を見つめた。
 けれど、それも瞬きを三度するまでの間だけ。
 そう、本当なら三度の瞬きを待つまでも無い。
 骨董品に興味が無さそうな久保田が再び東湖畔を訪れる、その理由を鵠の立場で考えれば、買った鏡を売りに来たと思うだろう。きっと、その方がらしいのだろうと、久保田自身も思ってはいたが、それでも封筒を受け取る気はなかった。
 「・・・期待外れで悪いけど、鏡を売る気は無いよ」
 差し出された封筒を差し戻しながら、自分の意思を告げる。すると、今度は鵠が瞬きを三度するまでの間、じっと自分の元に戻ってきた封筒を見つめた。
 それから、視線を封筒から久保田に移し、わずかに目を細める。
 けれど、ここに来た本当の理由には思い至らなかったらしく、まるで見当違いの事を久保田に言った。

 「売らないという事は…、もう一度、映るまで待つおつもりですか?」

 もう一度…、映るまで…。
 それは、鏡に映るものが見えなくなったという前提で言われたセリフ。
 だから、また映るまで待つのかと、だから売らないのかと聞かれた。
 しかし、久保田の目には、今もまだ見えている。
 自分を見つめる瞳も、自分の名を呼ぶ唇も…、自分に向けられた笑顔も…、
 鏡に隔てられていても、すぐ近くに、すぐ傍にその存在を感じていた。
 テレビのように平面に映った映像ではなく…、自分と同じ人間として…。
 鵠のセリフを聞いて改めて、そう感じている自分を認識した。そう感じているからこそ、いつも鏡に向かって伸ばしてしまう指先に、ゆっくりと視線を落とした。

 「・・・待たないよ。ちゃんと傍に居るから、待つ必要なんてないし」

 久保田がそう言うと、鵠が微笑み以外の表情を顔に浮かべる。
 わずかに細めていた目を、今度はわずかに見開き…、驚く。
 そして、「そう…、ですか」と、ゆっくりと吐息を吐き出すように言った。
 「貴方には、まだ見えているのですね…、鏡に映るものが…」
 「見えるよ。モノ…じゃなくて、ヒトだけどね。いつから居るのか知らないけど、鏡の中の蔵の中に紺色の着物を来た少年が居るのが見える。初めてココに来た日から、ずっと」
 「これは本当に驚きましたね、そんなにハッキリと鮮明に見えているとは…。それに、こんな風に見えると、素直に教えてくださるとは思いませんでした」
 「うん、まぁ…、自分でも驚いてはいるけどね…、色々と…」
 初めて店に来た日はやっかい事に関わりたくなくて、何も見えないとシラを切った。何も見えないのだから勧めても無駄だと、鵠に向かって暗に告げた。
 けれど、鏡を買う事になってしまったのだから、結局、意味の無い事だった。
 あの笑顔を見た瞬間から、逃げられない籠に捕えられてしまったかのように…、
 いつも少年のことばかりが、時任のことばかりが気になって…、
 自分の中の本能的な何かが止めるのも聞かずに、鏡の梱包を解いて…、
 そして、今度は最後通告の様な封筒を受け取らないで、届かない鏡の向こうに手を伸ばすように、何か手がかりを持っているかもしれない鵠に時任の事を尋ねた。
 
 「昔、どこかの古い旧家から祖父が貰い受けたもので、死ぬとか呪われるとか言ってたけど、売った値で買い取るなんて普通じゃないし…。他に何か知ってるコトがあるなら、何でも、どんな小さなコトでもいいから…」

 教えてください、お願いします…と頭を下げた後で、そんな自分の行動に驚く。
 ただ知ってる事を聞きたいと思っただけなのに、腰を折り曲げて頭を下げて…、これではまるで必死みたいだった。
 そんなつもりは、微塵もないのに…、
 ふと脳裏に時任の顔が浮かんで、気づけば頭を下げていた。
 本当に時任に出会ってから、正確にはその姿を鏡の中に見つけてから驚く事が多い。買うつもりもない鏡を買ったり、帰り道を急いでみたり、住んでる部屋の窓を見上げてみたり、名前をつけて呼んだり…、東湖畔に来たのもそうだった。

 「・・・・・貴方は、そこまで鏡の中の彼の事を?」

 そこまで…とは、どこまでのことだろう。
 微笑みではなく、真剣な眼差しを向けられて問いかけられても、久保田の中でその答えは出ない。考えた事もない、考えない、だから答えられない。
 けれど、何かが胸をしめつけてくるような、そんな感覚があった。
 
 「わからない…」

 胸をしめつけてくるものも、何もかもわからない。
 考える事を無意識に、久保田の中にある何かが拒絶する。
 時任に関わる事は、いつもそうだった。
 だから、目の前の鵠にも誰に言うでもなく、一人呟くようにそう言った。
 けれど、そんな久保田を見つめていた鵠が、更に重ねて問いかけてくる。
 聞いてどうしたいのかと、知ってどうしたいのかと…、何かを探るように…。
 しかし、久保田はやはり考える事を拒絶して、さぁ?と首を傾げただけだった。
 「鏡を見てる内に知りたくなったし、聞きたくなっただけ。元々、興味があって買った鏡だし…、ね。だけど、聞いて知ってどうしたいかまで、考えたコトなかったし」
 「それで、なぜ頭を下げてまで?」
 「なんでかな…、普通に聞いたつもりだったんだけど…」
 「・・・・・・・・」

 「ホント、なんでだろうね…、ただ、ちょっとだけ顔が思い浮かんだだけなのに…」

 久保田がそう言うと、鵠は浮かんだのが誰の顔かとも聞かず、なぜか目を伏せる。そして、「貴方は…」と何か言いかけたが、そのまま胸の奥に仕舞い込まれてしまったのか、その先に続く言葉が鵠の口から出る事はなかった。
 すると、元々静かだった店内が更に静けさを増し、黙り込んだ二人の間でいくぶん冷めた茉莉花茶の湯気がうっすらと立ち昇る。
 ゆらりゆらりと不安気に立ち昇り…、消えていく…。
 そんな湯気越しに伏せた目を開けて久保田を見ると、鵠は細く長く息を吐き出し、少し待っていてくださいとだけ告げて店の奥に入って行った。
 そして、しばらくたって戻ってくると、テーブルに置いていた封筒の横に古びた鍵と小さな手帳を置く。そのどちらも、骨董品店にふさわしく年代物に見えた。
 「鏡を見たら死ぬとか呪われるというのは、鏡の中に映るものを見た人間の内の誰かが言い始めた噂のようなものです。鏡を見た後で何か不吉だと思えるような事が起これば、鏡が原因だという気がしますからね。しかし、本当に噂ばかりなのかどうかは、見えない私にはわからないことですか…」
 「・・・それで、この鍵と手帳は? 鏡と同じで売りもの?」
 「これは売り物ではなく、祖父が遺したものです」
 「遺したってコトは、もう亡くなってるってコトだよね?」
 「年齢的に考えてですが」
 「それって、どういうイミ?」
 「僕がまだ十歳の頃でしたか…、行方知れずになってそれきり…。ですが、生きていれば九十六歳にもなりますし、そう考えれば生きている可能性は低いでしょう」
 祖父が行方不明になった…、そう聞いた時にまず思い浮かぶのは鏡の呪い。
 しかし、尋ねてみると鵠は、違いますよと首を横に振った。
 「骨董品店を始めたのは祖父ですが、その頃はすでに店を父に譲っていました。譲った後は、店に寄り着こうとはしなかったらしいですし…、ただ…」
 「ただ?」
 「ずっと、鏡の事を気にしてはいたようです。店を譲る時に、頼むと父にこの鍵と手帳を託し、それを同じように父から私が受け継いだ。興味を持った客に鏡を売り、同じ値段で買い取るのも祖父が決めた事なんですよ」
 「・・・・この手帳を読んでも?」
 「構いませんよ」
 鵠に許可を取り、久保田は差し出された手帳を手に取りページをめくる。けれど、一番最後のページに住所が一つだけ書かれている他には、何も書かれていなかった。
 その住所自体も、どこのものとも書かれていない。
 もしかしたら、鏡を貰い受けたという旧家のものかもしれなかったが、他に何も書かれていない以上、それはただの予測でしかなかった。
 だから、パタリと見ていた手帳を閉じ、テーブルに置くと鵠に行った事があるかと尋ねてみる。すると、すぐに拍子抜けするほど、あっさりと行きましたよという返事が返ってきた。
 「ここに書かれている住所にあるのは、きっと貴方も予想してらっしゃる通り、鏡を譲り受けたという旧家があります。ですが、三代前の当主の豪遊が原因で没落、今は住む人も無く家屋も崩れ荒れ果てていて、面白いものは何も見つかりませんでしたよ」
 「その家に住んでたヒトとか、血縁者は?」
 「居るにはいますが、何も知らないようです。家にそんな鏡はなかったと…」
 「ウソをついてる可能性は?」
 「わかりませんが、見た感じはウソをついているようには見えませんでした」
 「なら、その旧家から譲り受けたっていうのも、アヤシイってこと?」
 「祖父が生きていれば、もしかしたらわかったのかもしれませんが…」
 「ん〜…、そうなると結局は何もわからず仕舞いってコトになるのかなぁ」
 東湖畔に来て得た情報は、旧家の場所だけ。
 しかも、そこには崩れかけた家屋があるだけで何も無いという。
 鏡や時任に関する情報は、今、知っている以上のものは何も聞けなかった。
 結局、無駄足だったとか思いかけたが、まだ聞いていない事が一つだけ残っている。それは、手帳と一緒に置かれた鍵の存在だった。
 古い型の大きな錠前などの鍵にみえるそれは、鉄製で手に持ってみるとずっしりと重い。その重さを手のひらで感じていると、どこか怪しい秘密の匂いのする鍵のように見えた。

 「それは、蔵の鍵ですよ」

 蔵の鍵…。
 その言葉に弾かれるように、久保田は鍵に落としていた視線を上げる。すると、鵠は軽く肩をすくめて、「そこにも何もありませんでしたけどね」…と言った。
 「古いタンスや本棚、そんなものが多少はありましたが、鏡に関するものは何もありませんでした。残念ながら、本当にまったくの無駄足でしたよ」
 「・・・・・・」
 何もわからない、まったくの無駄足。
 実際に手帳に書かれた住所の場所、鏡があったかもしれない旧家を訪れた鵠はそう言ったが、蔵…という言葉に引っ掛かりを覚えた。
 あくまで時任の居る場所は鏡の中で、目の前にある鍵は実際にある蔵を開ける鍵。けれど、その鍵を何か知っていたかもしれない鵠の祖父が、手帳と一緒に遺した。
 何か意味のあることなのか、それとも無意味なのか…。
 思考をめぐらせている内に、無意識に手のひらで転がしていた鍵を、徐々に指を折りしっかりと握りしめる。そして、鍵を握りしめたのとは反対側の手で、再び旧家の住所の書かれた手帳を取った。
 「コレ借りていい?」
 「貴方さえよろしければ、差し上げますよ」
 「お爺さんの形見…、じゃないの?」
 「そうかもしれませんが、鏡の持ち主ではなくなった私が、それを持っていても仕方がありませんし…、何より祖父がそれを望んでいる気がしますから」
 「それじゃ、遠慮なく…」
 手帳を持ち、鍵を握りしめて行く先は一つだけ。
 今から手帳に書いてある旧家に、そこにある蔵に向かう。
 無駄足でも何でも、手掛かりがある可能性があるなら行くしかない。
 それでどうしたいとか何も考えもせず、ただひたすら…、鏡に向かって指先を伸ばすように久保田は鵠に背を向けて歩き出した。
 すると、そんな久保田の背を見つめていた鵠の唇が、「一つだけ…」と引き止めようとするかのように言葉を紡いだ。

 「一つだけ、これだけは覚えておいてください。もしも、鏡がいらなくなったら…、つらくなったら、またココにおいでなさい。私はいつでも、ココにいますから…」
 
 鏡がいらなくなったら、つらくなったら…。
 ドアを開けようとした久保田の背を、そんな鵠の言葉が優しく撫でる。
 すると久保田は振り返り…、けれど拒絶するように腰を折り頭を下げた。
 鏡の事を尋ねた時と同じように…、そうして「ありがとうございました」と礼だけを言って、開いたドアの方へと向き直ると東湖畔を出た。

 「あの鏡の呪いは、もしかしたら、本当なのかもしれませんね…、彼にとっては」

 ドアが閉じられると同時に、鵠がぽつりとそう呟く。
 けれど、その呟きは歩き出した久保田の耳には届かなかった。

                                                                           2011.3.7 
                                                                        
次 へ       
                                        前 へ