穏やかに…、ただひたすら穏やかに日々は過ぎていった。
朝起きてバイトに行き、終われば部屋に帰る。
そんな毎日は部屋に鏡を置いてからも、その中にいる少年に時任と名を付けてからも、何も変わりはしなかったけれど、それでも前とは違う穏やかさが久保田の唇に本物の微笑みを刻ませた。
だが、それでもただの興味だと、それだけだと今も自分に言い聞かせるように胸の奥で呪文のように繰り返し…。あの雨の日、店を出る手前で足を止めてしまった理由も、鏡を衝動的に買ってしまった理由も考えようとはしなかった。
名を呼んでも、唇に微笑みを刻んでも…、自分の中で何かが変わっていくのを感じても…。無意識にそれを理解するのを、久保田は拒んでいた。
・・・・・・・わからない。
わからない、わかりたくない…、何も…。
けれど、そうして拒みながらも朝になれば鏡の前に立ち、バイト帰りには住んでいる古びたアパートの窓を見上げる。見つめ眺め、目を細めて…、名を呼んだ。
・・・時任。
他の誰でもない、久保田自身が付けた名を…、
名づけるように名を呼ばれて、答えるように名づけて呼んだ。
そして、微笑みに微笑みを返し、向けられた笑顔に笑顔を返して…、
二人きりの部屋の中、穏やかな空気に包まれながらも、それを拒む夢の切れ端が…、黒い葬列が久保田の胸の奥に巣食い続けていた。
・・・・テレビ、見れんのはうれしいんだけどさ。
「うん?」
も、もっと、他に方法ねぇのかよっ。
「…って、ちゃんと見れてるのに、何か問題あるの?」
問題っつーか、テレビ見てる間、じっと顔を見られてるとなんか落ち着かねぇしっ!
「けど、俺が鏡見てないと見れないっしょ?」
それはそーだけど、俺じゃなくてもっと端んトコみるとかっ。
「えー…、ヤダ」
な・ん・でだよっ!
「テレビ見てるお前のカオ見てると、百面相してて面白いし…。うん、つまんない番組見るよか、お前の方がよっぽど面白いよ」
とかって、俺のカオを勝手にゴラクにすんなっっ!
時任は教えられた事は、すぐに覚えた。
文字も計算も身の回りの事も、乾いたスポンジが水を吸い込むように難なく覚えて理解して、部屋に来て三か月を超える頃には、時代を感じさせるものは着ている着物だけになった。
元々、記憶力も頭も良かったのだろう。
そして、何よりも強い精神力と意思が薄暗い蔵の中に居ながら、言葉も正気も失わずに居続ける奇跡を起こした。
三か月たった頃にポツリと漏らした時任の一言が、それを示していた。
・・・・・初めてだ、こんなに長く俺のコト見えるヤツなんて。
久保田と同じように、鏡の中に居る時任が見える人間。
それはそう多くなく、しかも、見える時間は短いらしい。
短ければ一瞬、長くても一、二週間見えるかどうか…。
だから、あの雨の日に何も求めなかったのか、あんな笑顔を浮かべていたのかと問いかけるでもなく、じっと、話す時任の横顔を見つめた。
すると、時任はあの時と似た笑顔で言った…、誰も忘れないと。
俺がここに居る事を教えてくれた、俺を見てくれた瞳を顔を忘れないと微笑んだ。
その微笑みは、いつも真っ直ぐに久保田を見つめてくる澄んだ綺麗な瞳は、あきらめではなく、強い意志を秘めていた。
・・・・・・忘れない。
時任の口から出る、その言葉は別れの言葉にも似て…、
さよならと言われた訳でもないのに、なぜか噛みしめた奥歯に力が入る。
それは限りなく痛みに近く、でも…、それだけではない何かが含まれていた。
けれど、久保田はまた拒むように、その痛みからも目をそらした。
「忘れないなら、もっと、色々教えてあげるよ。俺の知ってるコトなら…、何でもね」
教える事のほとんどが、鏡の中から出られない時任には必要の無い事だ。
必要が無いなら教えなくて良いし、覚える必要もない。でも、お前が知りたいというなら…と、目をそらし逃げ続けている自分に気づきもせずに言った。
鏡を部屋に置いた日から、鏡の中に時任の姿を見つけた時から、すでに変化は始まっていて…、それに本当は気づいているのに…、
考えない、思わない事で変化を食い止めようとしている。
でも、それは無駄な足掻きだ。
鏡を見つめている限り、そこから視線を離さない限り、無駄な事だった。
「帰りたいなんて、今まで思ったコトなかったのに…」
今日もバイトの帰り、古びたアパートの前でふと足を止める。
けれど、それは朝のベッドでタバコを吸っていた時とは違っていた。
足を止めたのは迷っているからではなく、らしくなく、浸っていたからだ。
帰る場所に待っている人がいる、その状況に…、不思議な感覚に…。
それは少し前に皿洗いをしているバイト先で、同じバイトをしている大学生に聞かれてから始まった。もしかして、部屋で彼女でも待ってるのかと…。
そう聞かれて首を傾げると、だって最近上がるの早いしさ…と自分でも気づかなかった事実を目の前に突き付けられた。
そう言われれば、確かにそうかもしれない。
意識したことはなかったが、言われてみれば早い気がした。
夜道を歩く自分の足音も、部屋に帰りつく時間も…。
そうして初めて、ただ帰るだけじゃない…、帰りたかったんだとわかった。
ニャオーン…、ニャー・・・。
古びたアパートの窓を見上げていると、鳴き声と一緒に黒いモノが絡み付いてくる。鳴きながら柔らかい温かな身体を、久保田に足に擦り付けてきた。
視線を上から下へと下げると、そこには小さな黒猫がいた。
薄汚れているし、痩せているから…、きっと野良猫。
じっと見つめると立ち止まり、自分を映す久保田の黒い瞳を見上げてきた。
すると、久保田は自分を見つめ返してくる瞳に吸い込まれるように、ゆっくりと黒猫の頭に向かって手を伸ばす。けれど、触れる寸前で何かに弾かれたように、ピタリとその手が止まった。
「・・・・・ごめんね」
久保田がそう呟くと、黒猫が首を傾げたように見えた。
でも、実際に首に首を傾げていたのは黒猫ではなく、久保田の方だったのかもしれない。触れる寸前で止まり、引き戻された手は、表情には浮かばない戸惑いを示すようにわずかに震えていた。
けれど、久保田はそれを隠すようにポケットの中に手を押し込み歩き出す。
黒猫はそれを追いかけるように、ニャー…と鳴いて、その声は久保田の耳に届いてはいたが、振り返る事も立ち止まる事もなかった。
そうして、また何事もなく日々は過ぎていき、穏やかな空気が部屋を包み込み…、
久保田は曖昧な返事ばかりで、決して肯定はしなかったが、バイト先では彼女が待ってるという認識が定着し始めた頃…、唐突にそれは起こった。
「ねぇ、もしかしなくても…、コレ写ってるよね?」
久保田がそう言ったのは鏡を買って、もうじき四か月という頃のこと。
それまでは何も変わらず、鏡には何も映らなかった。
鏡に映るのは内の景色で、外の景色ではない。
なのに、突然、映らないはずのものが鏡に映った。
しかも、久保田の持っていた、コーヒーの入ったマグカップだけ。
それを持つ久保田の姿は、握っている指さえも映っていない。そのため、マグカップはまるで手品のように、空中に浮いているように見えた。
とても不思議な変化…、あり得ない現象…。
「・・・コレ、触れる? 熱いかもしれないから気を付けて…、ゆっくりね」
久保田がそう言いながら、視線を空中に浮かぶマグカップから時任に移す。
すると、時任はマグカップを見つめたまま、固まったように動きを止めていた。
さっきまでの自分と同じように…。
けれど、もう一度声をかけるとハッとして我に返り、マグカップに手を伸ばす。そして、ゆっくり、ゆっくりと手を指先を伸ばし…、鏡に映り込んだマグカップに触れた。
形を確かめるように撫でるように触れて、それを手に掴んだ。
すると、そのマグカップは久保田が差し出した場所からずれ、時任が動かすままに位置を変える。まるで久保田の手に持っているマグカップが、鏡を境に二つに分裂してしまったかのようだった。
「マグカップ…、熱い?」
うん、熱いっていうより…、あったかい。
「中には、何が入ってる?」
黒いヤツ…、くぼちゃんが前に言ってた、たぶんコーヒー。
「中を零さないように、ちょっとだけ揺らしてみてくれる?」
いいけど、なんで?
「俺が持ってるのと、ちゃんと同じか確かめたいから…」
時任の手の中で平面ではなく、立体として存在するマグカップ。
その中で揺れる液面、立ち昇る白い湯気…。
どう見ても時任の持っているものと、久保田が持っているものは同じ。
けれど、見た目だけでは、まだ完全に同じとは言えない。
見た目は同じでも、中身は違うかもしれない。
それを確かめるためには、時任に飲んでもらうのが手っ取り早いが…、久保田はマグカップを見つめたまま、考え込むように黙り込んだ。
・・・・なんでかはわかんねぇけど、腹とか空かないし、喉も乾かない。
名を付けた後、前から疑問に思っていた事を聞いてみた事がある。
蔵の中に食べ物や飲み物はあるのかと…。
すると、そんな返事が時任の口から返ってきた。
腹も空かないし喉も乾かないし、飲み物も食べ物も無い。
そして、それでも時任は薄暗い蔵の中で、鏡の中で生きている。
生きているように…、見える。
けれど、マグカップと中にある液体と同じで、時任も見た目だけではわからない。鏡の中という時点で、幽霊か幻と思うのが普通だ。
それは久保田も同じで、そういった意味での興味から鏡の梱包を解いた日に色々と時任に尋ねた。しかし、尋ねながら気づいてもいた。
幽霊だろうと幻だろうと、どうでも良いと思っている自分に…。
けれど、無意識の内にそれを頭の隅に追いやり、気づいた事実から目を逸らした。その時の事を今更のように思い出し、目を逸らした事実を見つめながら、久保田は鏡に視線を向け、もう良いよと…、時任にマグカップを床かどこかへ置くように言おうとした。
生きた人間でも幽霊でも目の前に居るなら、ここに居てくれるなら…、それで良い。
けれど、時任は自らの存在を証明するかのように自分から手に持ったマグカップを口に持っていき、コクリ…と中に入ってるコーヒーを飲んでみせた。
うわっ、にが…っ!! なんだコレっ。
「・・・・・・・・」
くぼちゃんっ、ウマいって言ってたじゃんっ!
「・・・・・うん、苦いけど、ウマいよ」
ちがーうっ、苦いならマズいんだろっ。
砂糖もミルクも入れていないコーヒーは苦い。
それは当然で、当たり前の感想だった。
時任には熱さを感じる感覚も、苦いと感じる味覚もある。
だからといって、鏡の中では何の証明にはならないのかもしれないが、わずかな光が…、無いはずの希望が見え隠れしているような気もした。
目の前に居るなら、ここに居てくれるならとそう思いながらも、そのわずかな希望の糸が久保田を誘惑する。いくら伸ばしても冷たい鏡面しか触れない指先を見つめ、次に時任が握っているものと同じマグカップの中のコーヒーに視線を落とした。
その先で揺れる黒い水面はただの手の揺れなのか、それとも心の揺れだったのか…、久保田はゆっくりと水面を映す瞳を閉じる。けれど、それもわずかな時間で、すぐに視線を時任へと戻した。
くぼちゃん? どうかしたのか?
「べつに、どうもしないよ…。ちょっと眠いだけで」
そっか、ならいいけど。
「・・・そう言えば、コーヒー飲んだけど、もしかして喉乾いた?」
いんや、乾いてないけど…、なんとなく。
「乾いてないけど、飲めるんだ?」
う、うん…、そうみたいだ。
「・・・・・・」
マグカップは、今日、初めて映った。
けれど、時任はコーヒーを迷わず飲んだ。
それは誰に言葉を教えてもらったのかと聞いた時と、同じ違和感がある。何かを探るようにじっと見つめていると、時任は目を閉じる前の久保田と同じようにマグカップの中で揺れる水面を眺めた。
瞳の中に映る哀しい色を、コーヒーの黒に混ぜて隠すように…。
時任は、何か知っている。
鏡の中から出る方法を、それに繋がる何かを…。
それは予感ではなく、確信に近かった。
マグカップを見つめている時任を見ていると、もしかして、鏡から出たくないのだろうかとそんな疑問がどうしても浮かんでしまう。鏡の中に居るを見れば、出たいだろうと自然に当然のように思ってしまうが、時任自身の口から、そんなセリフを聞いた事はない。
だから、一度だけ聞いてみようと思った。
ここから…、鏡の中から出たいと思った事はあるのかと…。
尋ねてどうしようとか、そんな事は何も考えもせずに…、そう聞いてみた。
すると、時任はコーヒーを見つめたまま、しばらく何も答えず黙っていた。
けれど、久保田が重ねて問いかけると視線を上げ、今まで見たどの微笑みよりも穏やかな表情で…、とても幸せそうに夢見るように言った。
鏡の中でも外でも、くぼちゃんと居られるなら…、それでいい。
出たいとも出たくないとも言わなかった。
ただ、それだけ言って初めて、時任の手が鏡に触れるのを見た。
その手が自分の輪郭をたどるように…、撫でているのを…。
けれど、その手に向かって久保田が手を伸ばすと、時任はそれに合わせるように手を鏡から引いてしまった。
・・・・・・・どうして?
手を伸ばした所で、鏡越しで触れ合う事など無い。
でも、それでもどうしてとなぜと呟いてしまいそうになる。
嫌われてはいない…と思うのに、態度から、それは明らかなのに引かれた手を見た久保田は、どこかの古い旧家から祖父が貰い受けたものだと言っていた鵠の言葉を思い出す。そして、時任と同じように久保田も時任が居るなら、それでいいと…、何の変化も望んでいないのに、明日、東湖畔に行くことを決めた。
それはもしかしたら、無意識に掴もうとしていたのかもしれない。
わずかな希望の光を…。
時任に向ける視線に微笑みに、指先に篭る自分の想いから目を背けながらも…、
それでも、望んでしまった。
時任の手を握りしめる…、そんな明日を…。
そうして、その日はそれ以上は何も言わず、問いかけず眠りにつき…、
次の日の雨の降らない午後、久保田は再び東湖畔に足を踏み入れる。
すると、それを待ち構えていたかのように、二つの白い湯呑に茉莉花茶を注ぎながら、店主の鵠がいらっしゃいと微笑んだ。
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