グリーンレクイエム 7





 
 「夢は見なかったけど…、今日はそれ以前の問題?」


 鏡の中の少年に名前をつけようと、名を呼ぼうと決めた日の翌朝。
 久保田は前の日もそうだったように、タバコに右手を伸ばしながら、左手で眉間の皺を軽く揉んだ。
 しかし、ぼんやりと天井を見つめながら眉間を揉むのは、疲れる夢を見たせいではない。昨日から、一睡もしていないせいだ
 少年におやすみを告げてベッドへ潜り込んだ時にはそんなつもりはなかったのに、うつらうつらとしながら天井を眺めていると…、つい考えてしまった。
 どんな名前が良いだろう…、と。
 そう考え始めると元々、そんなに強くなかった眠気は遠のき、色々と少年について思考をめぐらせている内に気づいたら朝だったという具合だ。

 「ただの呼び名…、なんだけどね」

 ふぁ〜っと大きな欠伸をしながら、結局、決まらなかった呼び名にそう漏らす。
 呼ぶ時に困るという理由で付けるだけの呼び名なのだから、呼ばれる本人が決めればと思わないでもなかったが、そう言おうと口を開きかけた瞬間…、それは少年にとって酷なことだと気づいた。今まで人間にも生き物にも、物にも何にも名前など付けたことは無いかったが、ずっと薄暗い蔵の中に居て、名も無く字も読めない少年に自分で決めろとは言えない。 
 久保田にたくさんの質問を投げかけてきた少年は、本当に何も知らない。久保田が教えるまでテレビもゲームも、いつも朝に飲んでいるコーヒーすら知らなかった。
 自分の生年月日も言えない少年は記憶喪失ではないはずなのに、話すとそれに近いものがある。もしかしたら、長い間、一人蔵の中に、鏡に閉じ込められているのだから、言葉を話せるだけでも奇跡なのかもしれない。
 そもそも言葉というのは、自分以外の誰かの声を聞き覚えるもので、生まれながらに喋れるものではない。だから、ふと…、思ったままに誰に言葉を教えてもらったのかと尋ねてみた。
 すると、少年は戸惑ったような顔をした後、珍しく曖昧な返事をした。

 忘れた…っていうか、なんていうかさ…、覚えてない…。

 それは、きっと嘘…。
 少年はいつも向けてくる真っ直ぐな瞳、そのままに心根も真っ直ぐで、どうやら嘘をつくのがとても苦手らしい。他の質問をした時と違って言葉につまり、目を泳がせながらの返事は聞き返すまでもなく、そうなのだろうと思えた。
 今、蔵の中にも外の沙漠にも、少年以外には誰も居ないらしいが…、
 過去、誰か少年に言葉を教えた人間が、中か外に居たのかもしれない。
 そう考ながら、いつものようにくわえたタバコに火をつけたが、半分灰になるのを待たずにベッドから抜け出し眼鏡をかけた。

 「寝てても解決しないし、早起きは三文の徳って…、誰が言ったんだっけ?」

 寝ていないのだから、三文の徳が当てはまるのかどうか…。
 まだ、少年の呼び名を決めていない久保田は、鏡を見ないようにしながら廊下に向かう。そうして、名前、名前ねぇとブツブツ呟きながら、トースターでパンを焼き、コーヒーを淹れ、玄関で朝刊を取った。
 それらを持って今に戻ったが、決まらない。
 どうしたもんかとトーストを齧りながら新聞を広げた…が、ふと何かを思いつき、開いたはずの新聞を閉じた。

 「そうだ、・・・読めなくても見れるなら」

 名前はただの記号…、他人と自分を分けるための。
 けれど、なぜか適当に付けるのではなく、少年が気に入った名前を呼びたいと思ってしまった。なぜだろう、理由はわからない。
 相変わらず流されるままに、流れ続けているだけだからなのか、考えた所で何一つ答えは出なかった。
 でも、それでも真っ直ぐな少年の瞳が自分の姿を捕え、赤い唇が自分を呼ぶのを見つめていると自然に口元が柔らかく緩んでいくのを感じる。
 昨日と同じように今日も…、そう感じた。
 「ねぇ、この中で好きな文字は…、気に入ったカタチのモノはある?」
 ・・・気に入ったカタチ?
 「そう、気に入った好きなカタチ」
 うーん・・・・。
 「なかったら、ベツなの持ってくるけど?」
 文字の形には、それ自体に意味がある。文字になった元の形…、そこから変化していく様を、昔、学校の授業で見た覚えがあった。
 でも、それは新聞を広げて思い出したのではなく、テレビ欄を見つめながら考え込んでいる少年を見つめながら思い出したこと。この少年を形にしたら、一体、どんな形になるのか、どんな文字になるのかと想像しかけたが…、久保田の中で少年は未だぼんやりとしていて上手く形にはならなかった。

 なぁ、コレってなんて読むんだ?

 吸っていたタバコから、いつの間にか長くなっていた灰がポツリと畳に落ちる頃、じーっとしばらく新聞を見つめていた少年が、ようやく文字を指差す。
 それを待っていた久保田は、落ちた灰も気にせずに新聞を覗き込み、少年が指示した文字を目で追った。
 人差し指が示す先には、ニュースではなくドラマ…。
 そこに出演している役者の名前の一つで…、おそらくは時任…。
 これかと名字と名を久保田が指で指し示すと、名の所は違うと首を横に振った。
 ・・・・・・・時任、ときとう。
 それは聞けば誰もが名ではなく、名字だと思うだろう。
 けれど、口ずさむと響き良く唇に馴染んで、不思議と呼びやすかった。
 「おはよう・・・、時任」
 とき…、とう?
 「そう、ときとう…。今日から、それがお前の名前」
 ときとう。
 「・・・・うん」
 そっか…、俺ってときとうっていうのか…。
 「もしかして、気に入らない?」
 久保田には久保田の感覚が、少年には少年の感覚がある。だから、久保田が呼びやすくても、少年は形は気に入っても、呼ばれるのは嫌かもしれない。
 そう思い聞いてみたが、少年は…、時任は首を横に振った。
 
 気に入らないワケねぇじゃん…、初めてくぼちゃんが呼んでくれた名前なのに…。
 
 あんまヘンなのはイヤだけど、そうじゃないなら…、くぼちゃんが呼んでくれるなら、どんな名前でも良いって思ってたんだと、そう言って笑った時任の顔は、脳裏に胸の奥に焼き付いてしまいそうなほど鮮やかで…、うれしそうで…、
 それを見た久保田は眩しそうに目を細め、唇に微笑みを浮かべながら、持っていた新聞をするりと畳へと落とし、手を時任に向かって伸ばした。
 それは未だ無意識で、だからこそ…、自分に正直で…、
 鏡に触れる指先も、撫でる仕草も言葉にも形にもならない想いを伝えようとしているかのようだった。

 「・・・時任」

 その名を形づくる文字は時間をあらわす時と、それに任せる…、任。
 けれど、たとえ時に任せたとしても、このまま月日が流れたとしても鏡の中から出られるとは思えないし…、触れる指先が鏡ではなく、少年の髪を頬を…、唇を撫でる日が来るとも思えなかった。
 
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