しとしとと…、しとしとと雨が降る。
久保田が一つ目のバイト先に着いた頃から降り始めた雨は、二つ目のバイトが終わっても未だ降り続けていた。
あの日のように激しく打ち付けるのではなく、しとしとと濡らすように降る雨。
それは夜のせいか、とても静かに…、静かに降っていた。
そんな雨の中、クリーニング店の店主が貸してくれた黒いカサの上を雨粒が跳ねる音を聞きながら、久保田は住んでいる古びたアパートを目指して歩く。すると、やがて前方にあの骨董店が、東湖畔が見えてきた。
少年が居た…、少年の居る鏡を買った場所。
けれど、今日はカサも持っているし、雨宿りの必要は無い。
用事は何も無いはずだ。
しかし、久保田の足は東湖畔の前で止まり、ぱたりぱたりと黒いカサを跳ねる雨の音が耳を打つ。その音はどこか鏡を買った日から、時折聞こえる囁きに似ている気もして…、久保田は足を止めたまま、入口に書かれた右上がりの文字を見つめた。
「あれから一週間…、か…」
あの雨の日から、まだ、たったの一週間しか経っていない。そう改めて考えて初めて、もうずっと前から部屋に鏡があったような…、そんな不思議な気分になった。
それくらい久保田の中で、少年が居ることが自然になり始めている。
唇の動きで言葉を読むのも、始めは少し時間のかかっていたが、今は慣れてきて早くなった。声が聞こえなくても、会話に支障は無い。
だが、それでも時折、聞こえる囁き声は無くならなかった。
「ベツにうるさくないし、手間もかからないしね」
雨の中、漏らした呟きはまるで言い訳のようで…、
けれど、それを聞き咎めるような人間は、ここには居ない。
久保田はそれ以上は何も言わずに、どこからか聞こえてきた猫の鳴き声に軽く肩をすくめると再びアパートに向かって歩き出した。
そして、返却、買い取りだけではなく…、
もしかしたら、何か鏡について知る手がかりがあるかもしれない…、
そんな場所をいつものように行き過ぎ、通り過ぎた。
右手にカサを持ち、左手に食料の入った白いビニール袋をさげ、心なしか早足になりながら、少年の待つ部屋へと帰った。
何もかもいつも通りのようで…、ほんの少しだけ変わり始めた自分に気づかず、言い訳ばかりを並べるように、鏡を買ってしまったのも、いつもより早く帰り着いたのも雨のせいにした。
・・・・・そう、すべては雨のせい。
そこには意思も、想いも、何も存在しない。
ただ、降る雨が流れるまま排水溝に吸い込まれていくように、流されてしまっただけ。けれど、そう思いながらもアパートに帰り着くと、鏡の前に立ち、鏡の中の少年を見つめ…、その唇がおかえりと言うのを自分を呼ぶのを聞く。
そうして、鏡の前に立ちながらも、自分がどんな顔をしているかも知らず…、
自分を見てうれしそうな顔をする少年の笑顔に、眩しそうに目を細めた。
「・・・・ただいま」
そう答えた唇は、わずかに緩やかなカーブを描いていた。
それを見た少年は、浮かべていた笑顔を深くした。
けれど、久保田はまた不思議そうに少し首を傾げただけで、特に何の疑問も抱かなかった。目の前に少年は居るのに、伸ばしかけてしまった指先の意味も何も…、考えようとはしなかった。
まるで、何かを恐れるように…。
何も変わらないと思い続けて、そうして…、また夢を見る。
夢を見て、過去を見て、疲労を感じて目覚めた。
『あの女が…、お前の母親が亡くなったそうだ』
顔の無い、髪の毛も着ている服も黒い、おぼろげな黒いばかりの人々。
申し訳程度に集まった人々は、たぶん葬列だった。
亡くなった人間を見送るために集まった、何らかの繋がりがあるはずの人間。
何度見ても誰の事も知らないし、顔も見えない。
何度見ても知らないし、知りたいとも思わない。
そんな夢に過去に特に感想は無いが、見ると疲れるのだけは少々頂けない。ただでさえ少ない睡眠時間が夢にまで削られてしまっては、その内、体調を崩しバイトに支障が出る可能性が無いとは言えなかった。
それは困るなぁ…と他人事のように呟き、いつものようにタバコをくわえて火をつけ、半分灰になるまでぼんやりと天井を眺る。そして、鏡の前に立った。
おはよう、くぼちゃん。
「・・・・うん」
・・・・・・くぼちゃん。
初めて鏡が部屋に来た日から、初めて話した日から少年は久保田の事をそう呼ぶ。けれど、いつもの何も変わらないというのに、その日だけは…、今日だけは何かが違った。
何度も何度も同じ夢を見続けて、それで何かがおかしくなってしまったのか…、
まるで、雨上がりの空の下、出来た水溜りに屋根からの雫が落ちて斑紋を描くように、少年の呼ぶ声が久保田の中に響いて…、
そう言えばと夢を過去を思い出し、二、三度、目覚めた時のように瞬きをした後、改めて鏡の中の少年を見た。
どうかしたのか?
「・・・・・・」
くぼちゃん?
黒い黒い葬列…、それに連なる人々。
そう言えば、その中で誰一人として自分の名を呼ぶ人間はいなかった。
父親の名から一字もらったという、名前を…。
今まで、その名を呼ぶ人間が、まったくいなかった訳じゃない。
けれど、名字だろうと名前だろうと、なぜかそれがいつも他人ごとのように耳に響いた。呼び名なんて、ただ他人と自分を分ける記号のようなものに過ぎない。
そう思っていても、それは昔も今も変わらず…、
なのに、少年に呼ばれた時だけは、自分を呼んでいるような気がした。
・・・・・くぼちゃん。
似合わない呼ばれ方なのに、なぜかしっくりと馴染む。
斑紋のように響く、声無き…、声。
低いのか高いのかすらわからない声は、けれど、確かに聞こえていた。
きっと…、気づかなかっただけで最初から。
初めて、そう呼ばれていた時から聞こえていた。だから、見つめてくる視線をうっとおしく感じたり、質問してくるのをうるさく感じる事はなかった。
けれど、そんな風に思いながら、少年の瞳を見つめ返し…、何かを言おうと口を開きかけた瞬間、今更のように気づく。
呼ぼうと思って口を開いても、少年には名が無いことに…。
このままでは名を呼ばれても、呼び返すことが出来ない。
そんな当たり前のことにようやく気付いた久保田は、ほんの少し考えるように床を見つめた後、少年に向かってポツリと言った。
「名前・・・、なんて呼ぼうか?」
そう言って真っ直ぐ見つめてくる瞳を、真っ直ぐに見返し…、
驚いた顔をした後、とてもうれしそうに笑った少年を見つめ、自分の口元が自然に柔らかく緩んでいくのを初めて、あぁ、自分は笑ってるんだと自覚しながら…、
久保田は二人を隔てる冷たい鏡越しに、伸ばした右手で少年の頭を撫でた。
二人きりの部屋の中で…。
|
|
|