『あの女が…、お前の母親が亡くなったそうだ』
そう言った人間が、自分とどんな関係だったのか…、
母親の連絡をしてくるくらいだから親戚なのは確かだったが、正確な所は良くわからない。知らないし、知りたいとも久保田は思わなかった…、当時も今も…。
それは今ではなく、昔の話。
今まで思い出す事もなかった、出来事。
そんな出来事を映し出す夢を作り出した眠りから覚め、久保田が目を開くと、住んでいるアパートの部屋の薄汚れた天井が見えた。寝てたのは部屋に置いた狭いパイプベッドで、数回瞬きしたが、どこもいつもと変わりない。
しかし、今日はあまり見ない夢を見てしまったせいか、起きた瞬間、酷い頭痛がした。
その痛みは久保田の眉間に皺を作ったが、見ていた夢については、特に何も思う事も感じる事もない。眠っている時に見たのだから、それは確かに夢なのだが、久保田にとっては、ただ過去にあった出来事を見たという感覚でしかなかった。
まるで、古いフィルムを映写機で映したような光景、出来事。
なぜ、そんなものを見てしまったのかはわからないが…、過去に映る人々の顔がぼんやりと輪郭だけだった事だけが、夢らしいと言えばそうなのかもしれない。久保田は枕元に置いているタバコに右手を伸ばしながら、左手で眉間の皺を軽く揉んだ。
「ただ見るだけなのに、疲れるんだ…、夢って」
それは鏡を部屋に置いて、ちょうど一週間目のこと。
よっこいしょとベッドから上半身を起こし、タバコの近くに置いていた眼鏡をかけて、くわえたタバコに火をつけながら、ぼんやりと久保田は鏡のある方向を見た。
あれから、鏡は変わらずそこにあって、その中に少年も居る。
しかし、少年は居ても出歩かないし、声も音も聞こえない。
鏡さえ見なければ、居ても居なくても変わらない。
そのせいか、この一週間で朝になるとほんの少し迷うように、ベッドに上半身を起こしたまま、タバコを吸うクセがついた。
なぜか、鏡に視線を向けるまでに時間がかかる。
今日もタバコを半分吸い終わるまで、ベッドから出られなかった。
「・・・一体、何やってんだかね」
自分自身に向けた問いかけに答える声は、当然ながら無い。
ベッドの下に置いていた灰皿で、答えの出ないと問いかけと一緒にタバコを揉み消し、立ち上がった久保田はキッチンに向かうために鏡の前を通り過ぎる。その時、横目で鏡を見たが、写らない場所に居るのか少年の姿は無かった。
それを見て、ほっと息をついてしまった自分に、久保田は驚いたようにわずかに肩を揺らす。しかし、本当に何だってんだかと自分の反応や行動を不審に思いながらも、その理由に心当たりは無いし、深く考えようともしなかった。
食パンを焼き、バターを塗り、コーヒーを入れ…、
それから、朝刊を読みながら食べて、時間がくればバイトに出かける。
鏡さえなければ、いつもと何も変わらない日々だ。
ただ…、見た夢が長かったので、少し眠る時間は増えたのかもしれない。
だからと言って睡眠不足が解消された訳ではないが、変わらないようで変わった部分は、ごくわずかだが確かにあった。
そういや、ゲームもしてないか…。
朝食のトーストとコーヒーを手に部屋に戻りながら、心の中でそう呟く。
しかし、その原因の方はハッキリしているので、考えるまでも無い。
鏡の中の少年と話している時間が増えたので、その分、ゲームや本を読んでいる時間が減っただけの話しだった。
少年はいつも鏡の中から楽しそうに久保田のする事をじっと見つめ、疑問に思った事を質問してくる。だが、不思議とその視線をうっとおしく感じたり、質問してくるのをうるさく感じる事はなかった。
だから、ただ淡々と見つめてくる視線に視線を返し、質問に答える。
鏡の中の少年は楽しそうに笑っていたが、久保田の顔には何も浮かばない。
笑ってはいないが、冷たい訳ではない。
無愛想ではないが、愛想が良い訳でもない。
無表情…というのとは少し違う、だが、それに似通った表情。
けれど、故意にそうしているのではなく、それが久保田にとっての自然だった。
バイト先や東湖畔で鵠に向けたような微笑みこそが、故意に浮かべていたものであり、作られた不自然なもの。反射的に浮かぶ微笑みから、見る者の緊張を和らげるような穏やかさが滲んだとしても、そこに感情らしきものは胸にも心にも滲まない…。
・・・・・何を考えてるのかわからない。
夢に見た光景が昔ではなく、今だった頃、良くそう言われた。
けれど、わからないのは久保田自身も同じで問われても答えられず、それが更に聞いた相手の機嫌を悪化させる。だから、結局は微笑むしかない。
何を思っていようと何を考えていようと、それで何事もなく終わるなら、それで良い。だが、鏡の中の少年に限って、久保田は微笑む事が出来ないでいた。
・・・・・・なぜ?
そんな問いかけを自分自身にしてみても、反射的に浮かべる微笑みにたいした意味など無いのだから、そんなものを浮かべられない意味も、きっとたいした事は無い。
考えるまでもないこと…、なのだろう。
しかし、そう思うこと自体が、少年の事を考え思っている証拠だと久保田は未だ気づいていなかった。
こんなモノ、早く売ってしまえばいいのに…。
そんな日々の中で少年のことを考えた数だけ、何度も何度も、そんな囁き声が耳元で聞こえたような気する。けれど、久保田は変わらず淡々と少年と接しながらも、その囁き声を無視し続けていた。
微笑みもせず無視し続けて、鏡に少年に視線を向ける。
しかし、今日はどうした事か、キッチンから戻っても鏡に少年の姿はなかった。
「聞いた話しだと、そう広くはないはずだけど…、まだ寝てるとか?」
少年を姿を探すように鏡を見つめながらコーヒーを飲み、トーストを齧る。
鏡を見るまでに時間が必要だったのに、見てしまえば見つめてしまう。
居るはずの少年の姿がなければ、どうしたのかと気になってしまう。
不思議だった。
少年ではなく、そんな自分自身が。
トーストを食べ終えコーヒーを飲み終えると、久保田は持っていたマグカップを置き、鏡の表面に右手で触れてみる。すると、その手を拒むように、触れた指先と鏡の間でコツリと音がした。
これは鏡、当たり前の冷たい感触。
けれど、触れた鏡の冷たさは、まるで少年の居る薄暗い蔵のようだった。そして、その冷たさが指先に触れた瞬間、なぜか胸の奥がざわつき始める。
でも、わからなかった。
なぜ、ざわつくのかも…、そのざわめきが何なのかも…、
けれど、久保田は鏡の前に立っていた。
・・・・・・・おはよう、くぼちゃん。
待っているつもりはなかった、少しも…。いつものように少年がそう言わなくても、自分を見て笑わなくても、何も変わらないのだから待つ必要などなかった。
でも、それでもベッドの時と同じようにタバコが半分、灰に変わるのを待つように、意味も無く鏡の前から動かない。興味だけで買った…、鏡の前から…。
そうして、どれくらい待っただろう…。
鏡に触れていた手が、無意識に動き爪を立て始めた頃…、
鏡の中に少年の紺色の着物の袖が…、細い手が…、
黒い髪が痩せた身体が現れ…、
髪と同じ色の瞳が赤い唇が自分を見つけて笑みを浮かべるのを見た瞬間、久保田はゆっくりゆっくりと…、長い息を吐き出した。そして、いつものようにおはよう、くぼちゃんと唇が言葉を綴るのを見つめた後、ようやく右手を鏡から離した。
「・・・・・うん」
いつもの挨拶に、いつものように返事を返す。
そう、時間は少し遅れたけれど、いつも通りだった。
けれど、少年はじっと久保田を見つめ、少し驚いたような顔をした後、ちょっち寝坊しちまったんだ、心配かけてゴメンなと言う。そして、そんな少年の言葉に、久保田は小さく首を傾げた。
「ベツに心配してないけど…、どうして?」
なら、もしかして、具合とか悪い?
「悪くないよ」
ホントに?
「うん」
・・・けど。
「バイト…、行ってくるから」
あ、うん…。
今日のバイトは二つ。
クリーニング店と飲食店の皿洗い。
少年の姿を見るとざわめきは収まり、久保田は鏡と少年に背を向けると、畳に置いたマグカップもそのままに玄関に向かい部屋を出る。そして、もう一度だけ軽く首をかしげると、一つ目のバイト先へと向かった。
「・・・少し急がないと遅刻かもね」
あの日のように突如として空を覆い始めた雲を見上げながら、久保田はそうポツリと呟く。そして、また無意識に考える…、少年のことを…。
そう言えば、何か飲んだり食べたりするのを見たことないな…とか、そんな事を取り留めもなく考えて、どこからか聞こえてくる囁きを無視し続ける。
どうか…、お願いと…。
そう、自分が哀願する日が来るとも知らずに…。
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