・・・・・・鏡の中の少年。
彼には、名前が無い…。
頭を打って記憶喪失になったとか、そんな事情ではなく、ただ単純に無いだけだと少年は声ではなく、唇の動きで久保田にその事実を伝えた。
それは外からの音は鏡の中に届いても、鏡の中からの音は外へと届かないからだ。口をパクパクさせているだけに見える少年に、久保田が喉を指し示して声が出ないのかと尋ねた結果、その事実が判明した。
つまり少年が叫んでも騒いでも、外に声も音も何も届かない。
しかも、今のように外の景色が見えたのは、ずいぶんと久しぶりの事らしい。久保田のように見える人間が鏡を見た時だけ、外の景色が見えるのだと少年は言った。
少しの曇りも無い笑顔で、哀しく澄んだ瞳で久保田を見つめながら…、
とても・・・、嬉しそうに・・・。
そして、何度も何度も教えたばかりの久保田の名を口ずさむ。けれど、唇の動きを読むと久保田でも誠人でもなく、久保ちゃんと可愛らしい呼び方で呼んでいるようだった。
けれど、それについては何も言わず、淡々と聞きたい事だけを尋ねる。
そうしながら、名前を教えなければ良かったと…、なぜか少し後悔した。
・・・・・くぼちゃん。
目の前にある唇が、そう口ずさむたびに身体の奥が…、鈍く疼く。
それは痛みのようでもあり、別の何か知らない感覚のようでもあった。
だが、久保田は少しも表情を変えず、東湖畔の店主と話した時と同じ口調で、時に質問を時に返事をする。そして、良く動き良く喋る少年の紅い唇から、言葉を読み取った。
けれど、そんな事を続けている内に、なぜか紅い唇から視線を逸らしたい衝動に駆られ…、ふと思いついたように鏡に息を吹きかけ指で文字を書いてみる。しかし、少年は首をかしげるばかりで、その文字を読むことが出来なかった。
「・・・いつから、そこにいるの?」
首をかしげる少年に、書いた文字を読んでやる。
すると、少年はわからないと首を横に振った。
そして、でも…、最初から居た訳じゃないと、この部屋で向かい合ってから初めて、久保田から視線をそらし俯く。けれど、すぐに視線を上げて、もう昔の事は忘れちまったと明るく笑った。
その笑顔を見つめてから、改めて少年を眺めると表情はどこかあどけなく幼いが、年齢はおそらく16か17歳辺り。背丈は並だが、ちゃんと食べているのかと心配になるほど、とても痩せていた。
髪は短く、色は瞳と同じ黒…。
紺色の着物を着ていて、その装いはどこか古めかしく時代めいている。
良く良く見れば、呪いの方は未だ不明だが、幽霊に見えない事も無い。そう見える原因は、鏡の中に居る事を除けば、たぶん服装と部屋の薄暗さだろう。
東湖畔では店自体が薄暗かったせいで気づかなかったが、少年の居る鏡の中の部屋は同じくらい暗かった。
部屋の明かりはたった一つ、斜め上の辺りから光が差しているだけ。
しかも、それは電灯ではなく、おそらく自然の光。
久保田が明かりの差す方向を指差すと、少年の唇は窓という言葉を刻んだ。
「そこから、何が見える?」
・・・・・・砂。
「砂? 他には?」
あとは空だけ。
「そう」
久保田の目に見えるのは、鏡に映った部分だけだ。
けれど、少年の唇から言葉を読み取り、部屋の中の様子を脳裏に描く。
すると、そこは部屋というよりも、蔵に近かった。
鏡の中の…、蔵の中に少年は居る。
窓は一つだけ、同じく一つだけの出口は開かず閉ざされていた。
そうして、少年の唇が紡いだ言葉から、久保田の脳裏に鏡の中の景色が出来上がっていき…、でも、ただそれだけで何も変わらない。中の様子がわかった所で、少年がそこから出られる訳ではない。
久保田は一通り疑問に思った事を聞き終えると、床に置いていたマグカップを手に取り、鏡に背を向け廊下に向かった。
「話聞いといてアレだけど、俺には何も出来ないし、何もするつもりないから…」
興味があったから、話は聞いた。
興味があったから…、鏡は今ここにある。
でも、それだけだった。
出してやるとか助けてやるとか、そんな気持ちで鏡を買った訳じゃない。
鏡の中の少年に、無駄な希望を抱かせるつもりはなかった。
けれど、そう思いながらも、なぜか東湖畔に鏡を返す気にならない。
今もあの瞳に見つめられて、あの唇に名前を呼ばれると身体の奥が鈍く疼き…、それが止まらなくて目を逸らして、八つ当たりのように冷たい言葉を投げつけながらも…、
久保田は解いた梱包で、再び鏡を包んだりはしなかった。
「・・・なんで、雨に降られちゃったかな」
そんな久保田の呟きが聞こえているのか、聞こえていないのか…、
投げつけた冷たい言葉が耳に届かなかったのか…、
マグカップを台所のシンクに置いて戻っても、少年は相変わらず笑みを浮かべながら、久保田を澄んだ瞳で見つめて…、とても楽しそうに久保田を呼んだ…。
・・・・・・・くぼちゃん。
すると、なぜか聞こえないはずの声が聞こえた気がして、久保田は軽く頭を横に振る。そして、自分を呼ぶ唇から目を逸らし、床から拾い上げたタバコをくわえ…、
火を付けずに、その端を何かを押しつぶすように強く噛んだ。
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