グリーンレクイエム 3






 雨上がり、雲間にのぞいた空は青ではなく、オレンジ色。
 それは雨に降られたせいで、余計な寄り道をして帰りが遅くなった結果だ。
 せっかく買ったカップめんも、未だ湯を注がれないまま、右腕に下げている白いビニール袋の中にある。空いていた腹は、更に空いて…、背中にくっつくとまではいかないが、今に音を立てて鳴りそうだった。
 そんな自分にやれやれと肩をすくめながらも、使わない鏡を買った事を後悔しているのかしていないのかわからない。雨宿りで立ち寄った骨董品店でやっかい事を…、しかも金を払ってまで抱え込んだというのにわからなかった。
 ただ、鏡の中の少年が笑顔で手を振るのを…、その瞳を見た瞬間…、
 らしくなく、衝動的になった。
 けれど、そうなった理由については、今も良くわからない。鏡の値段がバイトの給料の約3か月分だと聞いても、なぜか出した財布を引く気にはならなかった。
 店主の鵠が言うには、値引きして、おまけして、その結果の値段らしい。
 だから、これ以上は無理ですが、カエルの灰皿を一つ付けましょうと胡散臭い微笑みを浮かべた鵠に、久保田は観念したように小さく息を吐き、支払いは手持ちじゃ足りないから配達の時にと言った。
 「うーん…、なんて言うかさ。買ったのは鏡だけど、気分的には高級羽根布団とか、圧力釜とか鍋セットとかなカンジ?」
 「まるで、押し売り紛いの訪問販売員みたいな言われようですね」
 「違うの?」
 「違いますよ。それが鏡の妥当な値段で価値だと、この店の主として思うのと…、もう一つは大切にして欲しいと願うからです。それにこれくらいの値段なら、いらなくなれば捨てるより、どこかへ売ろうとするでしょう?」
 「なら、ココに持ってくれば、同じ値段で買い取ってくれるってコト?」
 「えぇ、同じ値段で買い取らせて頂きますよ」

 ・・・・・一年後でも二年後でも、何年後でも。

 死ぬとか呪われているとか言われている鏡を買った久保田に、奇妙な骨董品店の奇妙な店主はそう言ったが、本当かどうか疑わしい。
 たとえ本当に買い取ったとしても、同じ値段かどうかは怪しい所だ。
 だが、それはいらなくなったらの話で、いらなくならないのなら、そんな事を気にする必要はない。ちらりと横目で鏡を見た久保田は、それ以上は何も言わず聞かず、買った鏡の配達日と時間だけを聞いて店を出た。
 そうして、今は降っていた雨も完全に上がった夕暮れの空の下を歩いている…、いつものように一人で…。すると、彼は今頃何をしているのだろうかと、なぜか鏡の中に居た少年の姿が脳裏に浮かんだ。

 「そう言えば、七不思議だとか怪談だとかにあったっけ…、異次元に繋がってるとか女のヒトが映るとかっての」

 けれど、そう呟きながらも、少年がそんな類のものだとは思えなかった。
 鏡の中には居るが、見た目は普通の人間と同じ。良くある七不思議の話のように怖くなかったし、怪談話のように誰かを恨んでいるようにも見えない。
 それにあの笑顔は、そんな笑顔じゃなかった。
 哀しい瞳の色と同じように、とても澄んでいて…、なぜか気になった。
 だが、あの鏡を買ってどうしたいのか、久保田自身にも良くわからない。だから、今は売るつもりはなくても、すぐにそんな気分になるかもしれなかった。
 
 「ま、いらなければ買い取ってくれるらしいし…」

 まるで、言い訳のようなセリフを口にしても、これから帰る先にはそのセリフを言うべき相手はいない。それを知ると聞くと寂しいと人は言うかもしれないが、少なくとも久保田にとってはそうではなかった。
 ようやく、やっと望んで手に入れた、静けさと空間。
 今のこの環境に状況に、久保田は特に不満もなく満足していた。
 長くなり始めた影だけを引き連れて、暮らしているアパートに向い歩きながら、久保田は空を街を眺める。けれど、その瞳は哀しみを浮かべていた少年とは違って、何の感情も浮かんではいない。
 ただ、目の前の光景を、景色をガラス玉のような黒い瞳に映しているだけだった。
 








 トン、トントントン・・・・。

 爽やかな朝の空気に雀の鳴き声と、ドアをノックする音が混じる。古びたアパートの二階、ノックされているドアには久保田というプレートがかかっていた。
 未だ開かれないドアの向こう側には、廊下とキッチン…、その向かいにはトイレと風呂。そして、廊下の突き当たりには畳の部屋がある。
 その畳の部屋に置かれたパイプベッドの上に寝ていた久保田は、ドアがノックされる前から目を開いて天井を見つめていた。
 夜明け前から、ずっとそうして天井を見ている。
 眠くない訳ではないが、基本的に眠りは浅く、すぐに目が覚めてしまう。
 だから、眠れない夜は珍しくなく、それこそ山のようにあった。

 「あぁ…、そー言えば鏡の配達、頼んでたっけ…」

 家主か訪問販売員にしかノックされる事の無いドアの方向に視線をやった久保田は、一つあくびをしてベッドから起き上がる。そして、枕元に置いていた眼鏡をかけ、右手で軽く後ろ頭を掻きながら、机に置いていた封筒を取ると鏡の受け取りをするために玄関に向かった。
 封筒の中身は、給料の三か月分。
 どう考えても、この部屋とは不釣り合いな買い物だ。
 しかも、その鏡は本来の用途では使えないばかりか、呪い付き。見たら死ぬというのは、すぐにではないのか、未だ身体に変調らしきものはなかった。
 「東湖畔さんより、お届け物です。中身は鏡…のようですが、どこへ運びましょうか?」
 「あぁ、荷物は自分で運ぶから、そこ置いといてもらえます? 支払いはコレで」
 「ありがとうございます。お支払頂いたので領収書…と、あと、ここに受け取りのサインをお願いします」
 「・・・・・・・」
 受け取りのサインをする時、ほんの少しだけ間があった。
 しかも、それは迷いではなく、ただの間。
 それはもしかしたら、予感…のようなものだったのかもしれない。
 久保田の中にある本能的な何かが、サインをしようとした手を止めた。
 「どうかされましたか?」
 「・・・・・・いや、別に何も」
 本能が手を止めたが、チラリと鏡を見た後、久保田はそれを無視する。そして、いらなければ売ればいい、元に返すだけだとまた言い訳のようなセリフを心の中で呟いた。
 そして、荷物を置いた配達員が玄関から出ていくと、丁寧に梱包されている鏡を畳の部屋へと運ぶ。けれど、部屋の隅に置いても、すぐには梱包を解かなかった。
 鏡を置いてまずしたのは廊下にあるキッチンへ行き、コーヒーを入れること。開いた冷蔵庫の中には、ペットボトルの水しか入っていなかったので、そのまま何も取り出さずに閉じた。
 いつもは食パンが入っているのだが、昨日、買い忘れてしまったし、部屋に最初から設置してあるキッチンの上の棚には、インスタント類が入っているが食べる気がしない。だから、結局、マグカップだけを手に戻ってきた久保田は畳の上に片膝を立てて、鏡の前に座り込んだ。
 「さて…、どうしたもんだか、ね」
 マグカップを畳の上に無造作に置き、同じように置かれていたテレビとゲーム機のそばのタバコを手に取り、一本取りだして口にくわえる。そして、火をつけると煙を肺の中に吸い込み、ふーっと吐き出した。
 すでに鏡は目の前にあるのだから、あとは梱包を解くだけ…。
 そして、この鏡の中に居る少年と再び対面する。
 普通の用途では使えない鏡を買ったのは、中に居る少年が原因だ。あの少年の笑顔に…、何も求めない哀しみが滲んだ瞳に、今まで感じた事の無い衝動と興味が湧いた。
 久保田は煙草をくわえたまま、ゆっくりと近づきながら手を伸ばし、梱包の上から鏡に触れる。それから、サインをしようとした時と同じように、自分の中の本能的な何かが止めるのを無視して梱包を解き始めた。
 ゆっくりとゆっくりと…、何かを暴くように…。
 本能を上回る興味と、好奇心で再び少年の笑顔と対面する。
 けれど、対面し暴かれていくのは鏡の中の少年ではなく、自分なのだという事に、その時の久保田は少しも気づいていなかった。
  
                                                                           2010.9.19   
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