「どうやら、その鏡がお気に召したようですね」
・・・・・・鏡の中の不思議な少年。
その少年と見つめ合ったまま、動きを止めていた久保田の意識を引き戻したのは、自分以外の人間の気配と耳触りの良い穏やかな声。いつの間に…と少々驚きはしたが、少年の時と違い、久保田の顔に浮かんだのでなく、浮かべられたのは意識的に作られた微笑みだった。
「・・・・・そう見える?」
そう短く答え、視線を少年から声のした方向へと向ける。
すると、そこには艶やかな黒髪を腰の辺りまで伸ばした美人が立っていた。
しかし、美人と言っても女ではなく男。
着ている中国服の詰襟の部分から、見え隠れする喉仏と声とで性別がわかる。そして、久保田も近眼のため黒縁の眼鏡をかけているが、男がかけている小さな丸いレンズの眼鏡の方には、度が入っているのかいないのか…。
どちらにせよ、目の前に立つ男の微笑みも外見も、どことなく胡散臭い事には変わりなかった。
「実はこの店、雨宿りにちょうど良い立地条件なんですよ。ですから、晴れの日よりも雨の日の方が繁盛してましてね」
鵠と名乗った男は、そう言いながら売り物か来客用なのかわからない小さなテーブルの上に、手に持っていた茶の入った二つの湯呑をコトリと置く。すると、湯呑から立ち昇る湯気から、茉莉花茶特有の香しい匂いがした。
久保田は一度、チラリと鏡に視線をやってから、雨の降り続く外へと向ける。
そして、未だやまない雨にやれやれと肩をすくめた。
「売り上げは雨宿りならぬ、雨頼り…ね。でも、そのワリに、さっきから誰も来ないみたいだけど?」
「ふふふ、痛い所を突きますね。ですが、貴方があの鏡を…」
「買わないよ」
「ずいぶんと気に入っていたようにお見受けしましたが、即答ですか」
「ウチにある洗面所ので充分だし、鏡に用事、あまり無いから…」
そう言った久保田にお茶を勧めると、鵠は自分の分の湯呑を取り口をつける。
それきり会話が途絶えてしまったせいか、やけに外からの雨音が大きく聞こえた。
すぐに止むかと思われた雨は、未だ激しく降り続け、大きな雨粒が黒いアスファルトの上を跳ねる。けれど、久保田の意識は止まない雨でも、目の前にいる店主でもなく…、鏡に向けられていた。
視線は窓を向いているのに、意識は鏡の少年だけに向けられている。
あれは・・・、夢でも幻でもなかった。本当なら店内の風景が映っているはずの鏡には、どこかの部屋が映っていた。
いや…、もしかしたら『映っていた』のではないのかもしれない。
なぜなら、あの部屋も少年も鏡の中にしか存在していないからだ。
「やはり気になりますか? あの鏡が…」
出された湯呑に手をつけず、窓を見ていた久保田に鵠がそう言う。そんな鵠の胡散臭い微笑みに視線をやり、少しだけ考えるように目を細めた久保田は、そうね…と鵠の発言に同意した。
「気になるっていえば、確かに気になるかな。他にも色々あるのに、なんで男の俺に鏡ばっかすすめるのか…とかね」
「それはあの鏡を見た貴方が、驚いた顔をしていたからですよ」
「ちょっとベツの考えごと、してただけだけって言ったら?」
本当は鏡に…、鏡の中の少年に驚いていた。
だが、それについて久保田は何も言わないし、聞かない。
その理由は鏡の中に人がいるなんて、普通はあり得ないからだ。
自分の目にはそう見えていても、他の人間にも見えるとは限らない。
それに見えるかどうか確認した所で、意味は無いし、どうにもならない。ただの雨宿りで入った店で、やっかい事を背負い込む気もない。
だが、鵠はどうしても久保田に売りたいのか、店の片隅に置かれた鏡について話し始めた。
「もしも、それが本当なら残念ですね。鏡を見て驚いた顔をしていたので、てっきり…、貴方には見えているのかと思ったのですが…」
「見えてるって、何が?」
「あの鏡は曇っていて、何も映らないでしょう? けれど、貴方の様子を見ていると、あの鏡に何かが映ってるように見えたんですよ…」
「・・・・・」
鵠の言葉に、久保田の目がわずかに見開かれる。
やはり、あの鏡は普通の鏡ではないらしい。
しかも、貴方には…という事は、誰にでも見えるものではないらしい事がわかる。そして、この鵠という男には、鏡に映るものが見えていないという事も…。
ようやく、久保田が先程から目をそらし続けていた鏡に視線を向けると、鵠は鏡の言い伝えだか噂だかわからない話をし始めた。
「この鏡は昔、どこかの古い旧家から、私の祖父が貰い受けたものです。なんでも、何も映らないはずの、この鏡に映るものが見える人間は死ぬとか、呪われるとか…」
「けど、そーいうのって良くあるハナシで、珍しくもないデショ。特に古いモノ扱ってる、こういう店してると」
「まぁ、他にもそういった品はありますし、そういう品を好き好んで買って行かれる方もいらっしゃいますし、確かにそうなんですが…、急に気になりましてね」
「気になるって、何が?」
「もちろん、何も映らないはずの鏡を見ていた貴方の目に、一体、何が映っていたのかがですよ。それに、じっと鏡を見つめる貴方の瞳は…、まるで」
・・・・・・・・・そう、まるで。
自分から話し始めたのに、そこから先に言葉は続かなかった。
けれど、久保田もその先の言葉を求めたりはしなかった。
たとえ、向けた視線の先で…、哀しそうにうれしそうに笑っていても…、
少しも関わるつもりはなかった。
だから、再び鏡から視線をそらし、茉莉花茶の匂いを嗅ぎながら窓を見つめ、ひたすら雨が止むのを待っている。腹が減り過ぎたからカップめんだけじゃ足りないなぁとか…、そんな事を考える。
鵠もすすめても無駄だとわかったのか、それ以上は何も言わなかった。
雨音だけが…、静かな店内に響いていた。
でも、それでも居心地の悪さを感じなかったのは、鏡を勧めつつも鵠が店の客…というよりも、茶飲み友達を相手にしているような雰囲気だったからだ。
見た目は胡散臭いが、嫌な感じはしない。
けれど、ただ、それだけだった。
やがて、雨音が遠のき、窓から見える雨粒も小さく少なくなってくると…、
久保田は出されたお茶を一口だけ飲んで礼を言い、入ってきたドアへと向かう。
すると、また気が向いたら、雨宿りにでも寄ってくださいと鵠の声が背後から聞こえてきたが、それには答えず店を出ようとした…、振り返らずに。
しかし、ドアに手を伸ばそうとした瞬間、一度だけ…、
そう…、もう一度だけ少年の顔が、なぜか見たくなって…、
久保田は後ろを振り返り顔を、視線を少年の方に向ける。
すると、鏡の中の少年は、久保田に向かって手を振っていた。
決して広くない店内…、そのせいか手を振る少年の表情まで見えてしまった。
・・・・・・サヨナラ。
初めて見た時と同じように、少年は久保田に笑顔を向けていた。
死ぬとか呪われているとか言われている鏡の中から…、
たった一人で手を振っていた。
笑顔を向けるだけで、何も伝えようとはしなかった。
・・・・・何も求めなかった。
それに気づいた瞬間、久保田は顔だけではなく、身体ごと後ろへと振り返り…、
そして、軽く息を吐いて、茉莉花を飲んでいる鵠の元へ歩み戻る。
けれど、ここは雨宿りに来ただけの店で、やっかい事に関わりたくないという気持ちは変わらない。鏡に何が映ろうと、呪いだろうとなんだろうと気にならないし、店を出たら忘れる気でいた。
なのに、気づけばポケットから財布を出し、茉莉花茶の入った湯呑の置かれたテーブルに置いていた。鏡なんていらないし、置いてたって邪魔になるだけなのに、そうせずにはいられない何かが…、少年の笑顔にはあった。
「・・・・・・あの鏡いくら?」
久保田がそう言うと、まるでこうなる事がわかっていたかのように鵠が微笑み目を細める。だが、そんな事も気にならないほど、気になって仕方がなかった。
哀しそうな目をしてるクセに…、涙一つ零さない…。
・・・・・・・・そんな少年の笑顔が。
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