雪は相変わらず、ぼたりぼたりと降っていた。

 バイトに行くためにマンションを出た時から、そんな風に雪が降っている。
 だが、今ほどはひどくなく、視界が悪くなるほどではなかった。
 今日のバイト先である雀荘を出た久保田は、そんな雪を眺めながら、あまりの凄さに軽く肩をすくめる。帰れないほどではないが、やれやれ…といった感じだ。
 雪が降ってもコートだけで出歩く事が多いが、こんなに重く濡れていては、さすがにカサを差さずに歩く気にはならない。出がけに気まぐれに掴んだカサは、どうやら正解だったようだ。
 久保田が手に持った黒いカサの柄についたボタンを押すと、パンっと音を立ててカサが開く。そして、ぼたりぼたりと降る雪にかざすと、すぐにカサが重くなった。
 
 「3月の雪らしいって言えば、まぁ…、そうかも」

 誰に言うでもなく、白い息と共にそんな呟きを漏らす。
 雪が降るくらいだから、寒いと言えば寒いが、1月や2月ほどの寒さではない。
 だからこそ、みぞれではないが、こんなにも重い雪が降っている。
 そんな雪にカサをかざしながらも、久保田はすぐには歩き出さなかった。
 何かを思うように、ふと視線をわずかに下に向け…、着ている黒いコートのポケットに右手を突っ込む。それから、中に入ってたケータイを掴み出すと、片手で開いて着信を確認した。
 すると、叔父である葛西からの着信が記録されている。
 しかし、久保田が思っていた人物からの着信はなかった。
 それを確認すると久保田は親指で電話帳を開き、登録されている名前の中から…、『時任』を選ぶ。だが、その名前を選んだ親指が通話ボタンを押す事なく、パタリと二つ折りのケータイを閉じた。

 「今から帰るだけ…、なのにね」

 寝てくれていれば良いと…、思っている。けれど、時任という名の久保田の同居人は、おそらく寝ないで帰りを待っているだろう。
 寝ていたとしても、いつもリビングで毛布を被ってうたた寝だ。
 何が不安なのか…、何が心配なのか…、
 ちゃんと帰ると告げても、問題のない場合だけ行き先を告げるようになっても、それは変わらない。時任はゲームに夢中になっていて、そのまま、つい寝てしまうのだと言っていたが…、それは嘘だとわかっていた。
 時任は嘘をつけば、すぐに顔や態度に出る。コントローラーを手にテレビのゲーム画面を見つめながらの返事だったが、手元がすべったのかゲームオーバーになっていた。
 
 『ゲームは、やっぱ速攻クリアしねぇとなっ。最短クリアは、基本だし』
 『まぁ、ソレは俺的にもわかるけど』
 『だろ?』
 『わかるけど・・・、ほどほどにね』
 『わぁってるって』

 夢中になって、速攻クリア目指すくらいゲームが好きなのは本当だ。だから、新作のゲームが出ると、瞳をキラキラさせながら久保田に、コレ面白そくね?とか聞いてくる。
 けれど、それでも…、コントローラーを握りしめたまま、リビングで眠っている時任を見ると、なぜか言葉では言い表しがたい感情に囚われた。
 いっそ、少しの間だけでも運びや代打ちのバイトをやめてみようかと思いかけた事もあったが、そんな事をしたら間違いなく、時任は不審に思うだろうし…、
 稼げる時に少しでも多く稼いでおきたい…、という気持ちもある。
 何事も無いとは言えないが、今はかろうじて平穏だ。
 だからこそ、爪は失わずに磨いで置かなくてはならない。けれど、それでも出来る事と言えば、一発でも多くの弾丸を拳銃に込められるようにする事くらいだった。
 そんな事を考えていると弱層から雀荘から出てきた客が、軽く手を挙げながら、久保田の横を通り過ぎる。その客にお愛想程度に軽く手を挙げ返して、久保田は時任の待つマンションに帰るために足を前に踏み出した。
 けれど、ほんの五歩ほど進んだだけで、その足はなぜか止まり。
 ふと、視線を前から横に移した。
 それは視線を移した先にある小さな路地が初めて会った場所に…、座り込むようにして気を失っていた時任を見つけた場所に、似ていたからかもしれない。でも、ここは良く来る場所で、別に今、路地がある事に気付いた訳ではなかった。
 
 「うーん…、なんだかね」

 そんな風に呟いた通りに何となく気になる…、ほんの少しだけ。
 ただ、それだけだったが、久保田の足は路地へと向いた。
 違うのは雪が降っているか、降っていないかの違いくらいで…、あの日と同じように…。何かに引き寄せられるかのように、重い雪の中を進み、偶然にも久保田はそれを発見してしまった。 
 路地にある細い電柱の下、白い二匹の雪兎。
 きっと、近所の子供が作ったのだろうと、普通なら思うだろう。
 だが、その兎の前に立つ久保田は、何かを思うようにじっと二匹の雪兎を見つめ、その兎の目が赤い上に三角であるのに気づくと、はぁ…と細く長い息を吐き出した。
 ため息ではなく…、言葉にならない想いを吐き出すように…。
 見つめる視線にも、一つではない複雑な感情が浮かび、それを隠そうとするかのように瞼が閉じられる。そうして、再び開いた瞳はいつもの色を取り戻していたが、二匹の兎に向かって差しかけられたカサには…、瞳から消したはずの想いが滲んでいた。

 「わかってるつもりでも、わからないのがヒト…、なんだろうけど。お前のコトだけは、知ってるって言ってたいのは…、なぜだろうね」

 ・・・・・なぜなんだろうねぇと、続くはずの言葉は途切れ沈黙して、久保田はせっかく差したカサにも入らず、三角の目の兎を見つめる。
 雪兎の目は、三角の赤い飴。
 だからといって、時任のもっていたものと同じとは限らない。
 けれど、この兎を作ったのは時任だと、久保田は確信していた。
 例え兎の目が特徴的な三角でなくても、ただの木の実だったとしても、もしかしたら確信していたかもしれない。
 この場所に作られ、佇む二匹の雪兎を見た瞬間に…。
 ここに兎を作りながらも、そのまま帰ってしまった時任の姿を思い浮かべると、なぜか無意識にカサを握る手に力が籠る。そして、こうして雪兎を眺めている内に、少しずつ小降りになった…、けれど、未だ重い雪の中で久保田は思い出していた。
 倒れていた時任を抱えながら、その重さを感じた日の事を…。
 あの時はすこし…、重いと感じた。
 でも、今、同じように時任を抱えたら、きっと同じ感想は抱けない。
 それも兎と同じように、実際にそうしてみなければわからない事だったが…、

 そう…、確信していた。

 確信しているからこそ、目の前の兎のように並びながらも手も腕も伸ばす事はない。伸ばしかけても…、触れる事はない…。
 久保田は少し陰りを帯びた瞳で二匹の雪兎を見下ろし、やがて背を向けた。
 時任の待つマンションに帰るために…、そのために一歩ずつ足を踏み出し家路をたどる。そうして、いつもと変わらない歩調で歩き続け、マンションの前にあるコンビニにたどり着く頃には、瞳に帯びていた陰りは跡形もなく消え失せていた。

 「ただいま…」

 ようやく、マンションの部屋まで帰りつき、手に持ったコンビニ袋をカサカサ鳴らしながら、時任が居るだろうリビングのドア開ける。
 すると、おかえり…とガラガラの擦れ声が来て…、
 久保田はやっぱりと口には出さず心の中で呟き、小さく息を吐いた。
 喉がいがらっぽくなってる様子だったから、本格的にガラガラになる前に赤い喉飴を渡したのに、なぜか渡す前より酷くなっている。こうなると、もう完全に風邪だ。
 右手の…、WAの影響なのか、薬物に敏感でアレルギーを起こすので、風邪を引かないように気をつけなといつも言っている。なのに、こうして悪化させてしまっている時任を見ると、二匹の兎を見つけた時と同じように言葉にならない感情が、胸の奥から湧いてくるのを感じた。
 じわじわと…、じわじわと湧いてきて…、
 あの二匹の兎のように隣に並びながら、触れない距離を壊すように、その感情に右手がピクリと反応する。けれど、久保田はその手を時任ではなく、コンビニ袋の中にある新しく買った赤い飴の箱に向かって伸ばした。
 そして、箱を開けて中身を取り出すと、赤い飴を一粒口に入れる。
 すると、口の中にイチゴの味が広がった。
 甘い…、イチゴの味…。
 その味を舌に感じながら、いつものように毛布を被ってゲームをしている時任に近づく。ゆっくりと近づいて背後に立つと、それに気づき時任が後ろを振り返った。

 「久保ちゃん…、どうかし・・・っ」

 振り返った瞬間、軽く叩いたり触れたりした事はあるが、一度も抱きしめた事のない肩が揺れる。けれど、久保田はその肩には触れず、手も伸ばさずに、自分の名を刻んだ唇だけに触れた…。
 屈み込み近づけた顔で、唇で触れて…、
 それに驚いた時任の唇が酸素を求めるように開いた瞬間、口に含んでいた赤い飴を舌で押し込む。そして、まるでそれが目的だと言うように、ちゅ…っと軽い音を立てて触れていた唇を離した。
 「・・・・熱は、ないみたいだぁね」
 「なっ、な…っ、なにすん…っ!」
 「飴…、なめてなって言ったデショ」
 「・・・っ! で、でもだからってっ」
 「今日はおかゆ作るから、ソレ食べて無理に眠れとは言わないけど、ベッドでおとなしく寝てなね。ゲームは風邪が治るまで、おあずけ」
 「ちょっ、勝手に決めんな! コレくらいマジで何ともねぇしっ、大丈夫だって!」
 「喉をガラガラさせてるヤツの言い分は、ウチでは聞かないってコトになってるから」

 「って、そんなの聞いてねぇっつか、なんで俺がそんなの守らなきゃ…っ」

 頬が赤く染まっていても、それは熱のせいではない。
 そのせいか喉はガラガラでも、おとなしく寝る気は無いらしい。
 そんな時任を見た久保田は、口の中に残る甘さと触れた唇に残る感触に眩暈を感じながら、一瞬、何かに耐えるように目を閉じる。だが、すぐに閉じた目を開き微笑みながら、ポンと軽く時任の頭に右手を乗せた。

 「なんでって…、ね。それはお前が、ウチの子だからデショ?」

 軽く乗せた右手を頭から離しながら、おとなしくベッドに行きなよと久保田がそう言うと、時任は赤い顔のまま黙り込む。そして、少しして何かを言おうと唇を開きかけたが、結局、開きかけた口を閉じ、左手で口を押さえた。
 「わぁったよっ、おとなしく寝てればいんだろ」
 「うん、治るまでね」
 「くそぉっ、こんな風邪、すぐに治してやるっ」
 時任もおとなしく治す気になっているから、きっと宣言通り、すぐに治るだろう。
 また、今日のように外出したりしなければ、すぐに良くなる。なのに、触れた感触と甘さを覚えてしまった唇には、なぜか…、苦い笑みしか浮かばない。

 舌で覚えたのは甘さなのに…、その甘さは胸の奥で苦さに変わる。

 そうして、時任におかゆを食べさせて、きちんとベッドで眠らせた翌日…、
 久保田は再び、あの兎の前に立っていた。
 今日のバイトの場所は、この雀荘ではなかったが…、それでも、この場所に自然と足が向いた。なぜか、あの二匹の兎をもう一度見たかった。
 けれど…、その願いは叶わず、久保田は一人立ち尽くす。
 そんな久保田の視線の先、両サイドをビルに挟まれて、日の光など届かないかに見えた雀荘横の路地には、朝の限られた時間だけ日が差すらしい。しかも、その場所は限られていて…、日の差す明るい場所と差さない暗い場所が、同じ路地内でくっきりとラインを作り分かれていた。
 偶然なのか運命なのか…、誰の、何の仕業なのか…、
 二匹の雪兎のそれ程、広くもない隙で、真ん中で…、
 
 ・・・・・・明暗が分かれてしまっていた。

 そのせいで、片方の兎は溶けて跡形もなく、ただ名残りの耳が残るだけ。
 もう片方の兎は溶けながらも、未だ、その形をしっかりと保っている。
 あの雪の中も、朝の陽ざしの中も生き残った兎は、同じ場所に居ながらも一匹だけだった。やがては二匹とも同じように溶け、跡形もなく消え失せてしまうに違いないのに…、なぜかやけに、その光景が鮮やかに目に焼き付く…。
 久保田はくわえた煙草から灰色の煙を立ち上らせながら、ゆっくりと右足をあげた。

 残された兎を…、その足で踏み潰すために…。
 
 けれど、半分まで降ろした瞬間、どこかでニャオンと猫の鳴き声がして…、踏み潰す予定だった足は、なぜかピタリと止まる。そんな久保田の視線の先には、残された兎ではなく、溶けて消えてしまった兎の残骸の耳があった。
 久保田は上げた足を残れされた兎の上から引き、元の場所に降ろすと残骸の耳を拾い上げる。そして、昨日…、柔らかな感触に触れた唇に軽く押しつけると、残された兎の前に置いた。

 「・・・ホント、なぜだろうね」

 ポツリとそんな呟きを残し、久保田は兎に背を向ける。
 けれど、目に焼きついた光景は、脳裏から胸の奥から消えてはくれない。
 本来の目的地に向かって歩きながら、久保田は唇の柔らかさは知っていても、一度も抱きしめた事のない…、でも、誰よりも重いだろう人の笑顔を想った。

 
 「・・・・・・時任」


 名を呼ぶ声は、朝の冷たい空気の中に消え…、
 やがて、それから…、わずかの差で同じ場所にたどりついた人物は、明暗を分けた光を見て目を細めると、電柱の陰に少し残っていた雪を掻き集めて…、
 まるで、残され泣くように崩れた兎の形を優しい手つきで治す。
 そして、今度は自分で買ってきた三角の赤い飴を、その目にはめ込んだ。

 「溶けたって消えたって、傍に居る…、絶対に…。だから、そんなに泣くなよ…、目が溶けちまうだろ」

 そう言って浮かべた微笑みは、穏やかで優しい。
 けれど、その穏やかさが…、優しさがなぜか少しだけ哀しかった。
 哀しくて切なくて、分かれてしまった明暗が胸を焼く。
 でも、それでも微笑みを浮かべたまま、兎を治した人物は路地を出る。
 そして、すぐそこまでやって来ている春へと…、
 鮮やかに咲き、散り急ぐ薄紅色の花の咲く…、その季節へと向かうように…、
 まるで、雪のように舞う花吹雪の中を、共に歩く人の元へと…、

 ・・・・・・・歩き出した。

 
 
                                             2010.3.22
 「明暗.2」

「明暗.1」
                     *WA部屋へ*