もうじき…、冬が終わる。

 夜はまだ寒いが日中は暖かく、そう感じさせる日が続いていた。
 外出するのに、コートやジャンパーなどの厚手の上着が必要なものの、今はもう息が白くなるほどの寒さはない。だが、それはつい昨日までの話で、今はここ数日の暖かさがまるで嘘のように、街も家も道もすべてが白く染まっていた。
 突然、訪れた寒気団のせいで降った冬の終わりの…、3月の雪。
 しかも、その雪は軽やかに風に舞うような2月とは違い、ひどく重い。
 ふわりふわりでもなく、しんしんでもなく、ぼとりぼとりと雪は降り積もる。
 落ちてくる速度も、降る量も多いため、細くかよわい庭木の類は、すぐに雪に悩まされ深く頭を垂れさせた。もしかしたら、このまま降り続ければ、頭を垂れるだけではなく、パキリと折れて地面に額を擦り付け、土下座する事になるかもしれない。
 そうなれば、せっかく近づいてきた春に、空を見上げる事も叶わなくなる。
 だが、上空でかろうじて結晶となった3月の雪は、重く重く降り積もるばかりで一向に止む気配はなかった。

 「・・・・・・・重い」

 そう言ったのは雪に悩む庭木…ではなく、透明なビニールのカサを差した人間。はーっと白い息を左手に吹きかけながら、先ほどからずっと電柱の陰に一人佇んでいる。
 左手だけに息を吹きかけているのは、何もはめていない剥き出しの左手と違って、右手には黒い革の手袋がはめられているせいだった。
 右手の手袋があるのだから、当然、左手の手袋も存在するのだが…、実は家に忘れて来てしまっている。外は雪が降っていて寒いと知りながらも、左手の手袋を忘れた事に気付いたのは、いつもの習慣のせいか住んでいるマンションを出て、今の場所にたどり着いてからだった。
 左手に手袋をするのは、寒い時。
 そして、右手に手袋をしているのは隠すため。
 手袋の有無に関わらず、暑さも寒さも感じない右手は人間ではなく、獣の形をしている。自分の目で見ても嘘だろうと疑いたくなるが、これが獣の手を持つ時任の…、現実で今だった。

 「はー…ったく、何やってんだか…」

 ぼとりぼとりと降る雪の中、時任はそう呟いて、その場にしゃがみ込む。
 本当なら、こんな寒い場所ではなく、エアコンの効いたマンションの部屋でゲームでもしながら、のんびりとしているはずだったが…、
 誰に言われた訳ではなく、誰に呼ばれた訳でもなく、自分の意思でここにいた。
 さっきの呟きは、そんな自分自身に向けてのものだったが、雪が積もり重くなったカサ越しに見上げた視線の先には雀荘がある。正確には時任が見つめているのは雀荘ではなく、その中にいる人物なのだが…、裏路地の窓の無い位置からでは、目的の人物どころか他の誰も見えるはずはなかった。
 なのに、時任はじっと動かずに、ぼとぼとと降る冷たい雪の中…。
 何をしてるのかと聞かれれば、自分でも首をかしげてしまう状態だ。
 けれど、それでも…、時任はここに来なくてはならなかった。来なければ、暖かな部屋の中なのに、重い雪のような何かに押しつぶされていた。
 マンションの部屋で、唐突に襲ってきたのは、いつもの右手の痛みではなく…、
 ただ…、今は一人だという現実だけ…。
 見つめている雀荘の中にいる久保田がバイトに出かけてから、少しして突然、まるで発作でも起こしたかのように心臓の鼓動が早くなった。

 『今日は遅くなるから、先に寝てなね』

 出かける前に、久保田はそう言った。
 いつものように何も変わらず…、そう言ってバイトに行った。
 なのに、こんな風に時々、唐突に冷たい何かが胸を犯し、心臓を掴み鼓動を早くする。しかも、それは久保田の近くまで、そこに居ると感じられる場所まで行かなければ治らない。
 だから、いつもそんな時は、部屋を飛び出し走った。
 どこにいるのかわからない時でも、その姿を求めて闇雲に走った。

 「まるで・・・・・、ビョーキだよな」

 鼓動が治まり、頭が冷えてくると…、いつもそう思う。
 けれど、そう思ってていも、この病は治らない。久保田に知られないように、いつも近づきすぎない距離で治まるのを待つしかない。
 でも・・・、こんな風になってしまったのはなぜなのか、薄々、気づいてはいた。
 一人で居る時だけ起こる発作は、たぶん…、一人だという事を認識した瞬間に始まる。そう感じてしまった時にだけ、この発作は起こる。
 けれど、それはマンションの部屋にではなく、まるで、この街…、この世に自分以外…、誰もいなくなってしまったかのような感覚だった。
 たった一人…、誰もいない…。
 本当は暗闇の中にいて…、夢を見ている。
 すべては消えてしまうだけの夢で、久保田なんて人間はどこにも居ない。
 自分に都合の良い…、平穏で暖かな夢…。
 どちらが夢で、どちらが現実なのか…、わからなくなる。
 WAは獣化するだけではなく、もしかしたら、そんな何かが含まれていたのか…、
 唐突に強烈に襲ってくる症状は、失いたくない今を夢と錯覚させた。

 「バカだよな…、久保ちゃんはちゃんと居て夢のはずねぇのに…。消えるはずねぇのに、こんなトコに来ちまうくらい疑うなんて…」

 雪で重くなったカサを肩で支え、右手でアスファルトの雪を掴む。
 さっきまで息を吹きかけて温めていた手なのに、冷たさを感じていた方が早く錯覚を消してくれる気がして、そうした。
 けれど、ただ雪を掴むだけでは、心まで冷たく凍えてしまいそうで…、
 早く帰らなくてはならないのに、ここから動けなくなってしまいそうになる。
 だから、ふとした思い付きで、時任は掴んだ雪を次から次へと一か所に固め始めた。

 「うーさぎ、うーさーぎー♪ なに見て跳ねる〜…♪」

 雪を固めながら小声で口づさんだ歌は、冬でも春でもなく、秋のものだ。
 十五夜の丸い月の中で、ぺたんぺたんと餅つきをする兎の歌。
 季節外れのそんな歌は…、けれど、さらさらとしていないべったりとした雪を見ていると似合うような気がする。雪を固めて楕円形を作って、電柱の近くの民家の塀代わりになっている庭木から、耳にするのは少し短いが二枚の葉を拝借して付けると…、
 雪でつくったはずなのに、餅で作ったような気分の兎が出来た。
 けれど、耳はあっても目にするものが見当たらない。
 小石はあったが、それではあんまりだし、白い餅兎には似合わない。
 だから、何かないかとポケットを探ってみると、思わぬ感触に入れた手が当たって…、時任はここに来て初めて口元に笑みを浮かべた。

 「もらった時は、なんでイチゴとか思ったけど、イチゴでピッタリじゃん。三角なのは、御愛嬌…ってヤツでさ。ホント、なんつーか、いっつもタイミング良すぎ」

 風邪っぽくて少し喉がガラガラすると思っていたら、何も言っていないのに、久保田が三角をした赤い喉飴の入った箱を時任に向かって差し出した。
 それはバイトに出かける、ちょっと前の事で…、
 なんでわかったのかと聞けば、お前のコトなら何でも知ってると、久保田の口からさらりとした返事が返ってきた。
 
 『お前の名前は時任稔で、この部屋に住んでて。コーヒーには必ず牛乳入れるコトも、トースト焼くのが得意だってコトも、暑いのが苦手なクセに寒いのも苦手だってコトも知ってる。そんでもって、昨日から風邪気味で喉がいがらっぽいってコトもね』
 『…って、ソレくらいなら、俺だって久保ちゃんのコト』
 『うん、だから俺の喉が風邪でいがらっぽくなったら、今度はお前がその赤い飴、買ってきてくれる?』

 そんな久保田の問いかけに、時任も当然っとさらりと返事をする。すると、久保田はよしよしと時任の頭を撫でて、細い目を更に細めながら、また、うん…とうなづいた。
 その時の事を思い出しながら、二つの赤い三角を餅兎にはめ込んで…、
 けれど、それだけでは何かが足りない気がして、時任はうーんと首をかげながら唸る。耳の長さやの形や、色々と少し不格好だが良く出来たと思う兎なのに、何かが足りないし気にいらない。
 なんだろう…、なにが足りないんだと…、
 そう思いつつ、兎を作るために下に向けていた視線を上にあげる。すると、そこには雀荘があって、それを見て左手を右手の拳でぽんと叩いた時任は、兎は完成しているのに、また冷たい雪を掴んだ。
 そうして、兎の横にまた楕円形を作って、同じように耳と目をつける。すると、一匹だった餅兎が二匹になって、三角の赤い四つの目が時任を見上げてきた。

 「きっと、一人じゃダメなのは…、頬をつねってくれるヤツがいないからだ。これは夢じゃねぇって、教えてくれるヤツがいないとわかんなくなるからさ…」

 ・・・・・・・・だけど。
 と、その時を続けようとした言葉は、なぜか、そのまま途切れ…、
 時任は二匹の餅兎を見つめながら、立ちあがる。
 すると、カサに積もっていた雪が、ボタボタと重い音を立てて下へと落ちた。
 そして、じゃあなと二匹に声をかけると、見上げていた雀荘に背を向けて歩き出す。雀荘を見つめていただけで、久保田に頬をつねられてはいなかったけれど…、
 口にした言葉とは裏腹に、時任はいつも自分で自分の頬をつねる。
 ここまで走って来ても、結局、久保田とは会わない。
 その存在を近くで感じながら、夢じゃないと何度も何度も自分に言い聞かせて…、
 そして、走ってきた距離と同じ距離を歩いて帰っていく。

 ぼとりぼとりと降る雪の中…、二匹の兎を残して…。

 いつも誰よりも近くにいると、いつも誰よりも傍にいると…、そう思っている。
 だから、今、手の中にある赤い飴を買うのは、自分だとわかっている。
 けれど、それでも…、二人の距離はぼたりぼたりと降る雪の中の兎のように、隣に並んだまま、そこから手を伸ばし歩み寄り近づく事はなかった。
 時任も・・・、そして久保田も・・・・。
 誰よりも近いのに、その間には越えてはいけないものがある。
 そのせいか寄り添うように並び、微笑みを交わしながらも、二人はお互いの肩に背中に自分の重さを伝え、預ける事はしなかった。
 並び立ってはいても、支え合ってはいない。
 それが意地やプライドだったなら、きっと…、こんな雪の中を走ったりはしなかった。

 「もしも夢がずっと…、ずーっと消えないで続くなら、今が夢でも良かったなんて言ったら…。きっと、らしくねぇって笑っちまうよな…、俺も久保ちゃんも」

 久保田が帰る前に、マンションまでたどり着かなくてはならない。
 そうして、早く帰って冷えた身体を温めて、何事もなかった顔をして…、帰ってきた久保田にお帰りを言わなくてはならない。
 だから、次第に速足から駆け足になって、結局、行きも帰りも走るハメになった。
 でも…、それは辛い事じゃない…。
 暖かなものが胸を満たすのを感じても、そんな風に感じたりした事はない。
 その証拠にぼとりぼとりと重い雪の降る街を走り抜ける時任の唇には、柔らかな笑みが浮かんでいた。

 まるで・・・、何かを夢見るように・・・・。

                                             2010.3.20
 「明暗.1」

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