綿毛の雪 9
「今日は十六夜…、か…」
そう呟いた視線の先、窓から差し込む月の光は、とても穏やかで柔らかい。
だが、それでも光の中に冷たさを感じてしまうのは、なぜかと…、そんな考えてもどうしようもない事を考えかけた俺は、小さく息を吐いて軽く首を左右に振った。
月の光が冷たかろうと温かかろうと、何も悩む必要は無い。叔父との交渉が思ったよりも上手くいき、明日は俺を引き取りたいという養父に会いに行く事になっているのだから、今はそれだけを考えていればいい。
どうやって養父から多額の金を引き出すか、どうやってミノルを連れてイギリスへ行ってくれる人間を探すかを考えればいいだけだ。
しかも、今日は夕食も無事に食べられたし、腹も空いてはいない。何事も怖いくらいに順調に進んでるのだから、少しくらい月の光のように穏やかな夜であっていいはず…。
なのに、さっきから、ずっと俺の口からはため息ばかりが漏れていた。
叔父の洋館の二階の隅にある部屋で、俺は窓辺に佇み月を見上げている。
そして、そんな俺の横で窓枠に座り、同じようにミノルが月を見上げていた。
「・・・・・あのさ、松本」
「なんだ?」
「俺のハツコイって、マコトなんだって…」
「・・・・・・そうか」
「でも、俺のハツコイがマコトだったら…、松本のハツコイって、誰なんだ?」
「・・・・・・・・」
「松本にもいるんだろ? ハツコイ」
叔父の書斎を出た後、庭の片隅で見つけたミノルは白い羽を持っていた。
ミノルはその羽をなぜかこれは初恋なんだと訳のわからない事を言って、俺に渡そうとしたが、俺は首を横に振って受け取らなかった。
フワフワした白い羽は、俺よりもミノルに良く似合う。
庭で何があったのか知らないが、ミノルは初恋にこだわっていた。
ふと、視線を月から室内にある風呂敷に移したが、ミノルは文字が読めない。
だから、風呂敷の中にある本の題名など、知るはずもない。
…だとしたら、ミノルに初恋という言葉と意味を教えたのは、一体、誰なのか…と眉間に皺を寄せて顎に手を当てる。そうしながら、俺の答えを期待するように、じーっと見つめてくる視線に気づいて…、また小さく息を吐いた。
「そんなの…、俺には居ない。初恋なんて、した事も無い」
俺の答えにミノルはとてもガッカリした様子だったが、本当の事だ。
ずっと、俺の周囲には大人ばかりが居て、同じ歳の子供は居なかったから…、
一緒に遊んだ…、そんな記憶があるのは橘だけだ。
次期当主としての教育は別の人間から受けたが、橘からは遊び方と…、笑い方を教えられたような気がした。
『そんなに眉間に皺ばかり寄せていては、うれしい事も楽しい事も逃げていってしまいますよ。だから、笑っていてください…、僕と一緒に居る時は。それを楽しいと思っていてくださるなら、笑っていてください…』
好きだった…、橘の事が…。
だから、俺は橘と居る時はいつも笑っていた。
だが、それが恋かどうかなんて、あの頃も今もわからない。
もう・・・、何もかもが遠すぎてわからなくなってしまった…。
けれど、今、この洋館のどこかで橘が美和子と一緒にいるかと思うと、胸がしめつけられるように苦しくてたまらなくなる。終った事のはずなのに、いつまでも胸の奥をしめつけてきて離れてくれない。
そんな俺の目に映るミノルは、真っ直ぐにひたむきにマコトの事を想う姿は、眩しすぎて…、見ていられなかった。
「もう、夜に出歩く必要はないだろう。いつまでもそうしてないで、お前は早く寝ろ…」
視線をミノルではなく、ひたすら月に向けて俺はそう言う。
けれど、ミノルは俺の言葉にうなづかずに、月の光に照らされた外の景色を…、俺達の居る窓から見える庭をじっと見つめている。だから、ふと、それに気づいた俺は、何を見てるんだろうと不審に思い視線を月から庭へと落とす…、
すると、そこには一つの黒い影が佇んでいた…。
「あれ…、は…」
俺が思わず、そう声に出して呟くと、ミノルがあれは橘だ…と言う。
だが、ミノルは橘を知らないはずだ。だから、驚いてミノルの方を見ると、ミノルは橘と始めて会った日の事、そして庭で再び会った時の事をポツリポツリと話し始めた。
夜、下宿の近くに居て…、そしてミノルにお金をくれた事や…、
そして、庭の噴水で話をして、初恋の話をした事を…。
そんなミノルの話を聞いた俺の胸は、苦しいぐらいに早く鳴って…、
けれど、ある事実がミノルの口から出た瞬間、その鼓動は一瞬だけ止まった。
「橘のハツコイは、12才の年の差だって言ってた。だから、笑いグサだって…」
・・・・・・橘の初恋が、12歳の年の差。
そうミノルから聞いて、橘と12歳も年が違う人間は誰だろうかと考えて…、
そして、松本の屋敷に居た人間を次から次へと思い出し、思い浮かべて年を数える。そうして、やっと・・・・・、12歳の年の差を見つけた俺は、叫び出したいのを押さえるように右手で口元を覆った。
「あの言葉は…、本当は俺に言いたい言葉じゃなかった…。だから、きっと気まぐれで…、橘はもう俺の事なんて忘れて…」
橘と12歳の年の差で…、笑い草…。
それに当てはまる相手は、あの家にはたった一人しかいない。
橘も男で相手も男だったが、その可能性を俺は否定できなかった。
なぜ、俺の遊び相手になるという名目で、橘は足繁く松本家に来ていたのか…、
なぜ、お世辞にも可愛いと言い難い俺に、あんなに優しくしてくれたのか…、
なぜ、下宿の近くまで来ていたのに、俺の事を知らないと言うのか…、
そう考えると、何もかもが説明がつく気がした。
最初に橘を屋敷に連れて来たのは、俺に引き合わせたのは…、
・・・・・・・橘と12歳、年の差のある俺の父だったのだから。
そこまで、考えると頭の中も胸の奥も何もかもが麻痺したみたいに動かなくなる。
美和と婚約していた事より、叔父と関わりがあった事より、その事実は大きな波となって俺を襲ってきた。
「・・・・・松本?」
ミノルの心配そうな声が耳を打つ。
けれど、その声に返事する気力もなく、俺は床に膝を突いた。
あの本を俺に渡したのは、おそらく…、父へのメッセージのつもりだったのだろう。
俺に渡せば父の目に入るから、あんな題名の本を…。
・・・・・・・・父さんは、橘の気持ちを知ってたんだろうか?
わからない…、何もわからないけれど、胸が張り裂けそうだった。
「・・・・・・少し、夜風に当たってくる」
やっと、それだけ言った俺は、フラフラとおぼつかない足取りで部屋の外へ出る。
ミノルが着いて来ようとしたが、すぐに戻るとドアを閉めてカギをかけた。
心配してくれているのはわかる…、しかし、今は一人でいたい…。
だが、そう思っているのに、そう思っているはずなのに、俺の足は黒い影の佇む裏庭へと向かって進んでいく。そして、麻痺した頭で胸で佇む影の前に立ち、月の明かりの下、俺も同じ場所に黒い影を落とした。
すると、影は驚いたように肩を揺らし、月に向けていた視線を俺に向ける。しかし、驚いた表情をしていたのは数秒だけで、すぐに驚きに微笑みが取って変わった。
「月の光に誘われて、貴方もお散歩ですか?」
そう言った橘は、柔らかい微笑みを浮かべて立っている。
そんな様子は、昔と少しも変わらない。
子供である自分にも、誰に対しても敬語で喋る所も…、
けれど、自分の方を見つめる視線だけが違っていた。
俺を見る橘の視線は、婚約者の従兄弟に向けた距離のある、そんな視線。
でも、きっと…、あの頃も今も橘にとって俺は同じだった。
昔は初恋の人の…、息子。
今は婚約者の従兄弟。
それ以上でも、それ以下でもない…。
だが、その事実が逆に、最後の勇気を与えてくれる。橘の前に立った俺は月の光に影を長く伸ばしながら…、真っ直ぐな視線を橘に向けた。
「散歩のついでに、橘さんにお願いがあるんですが、聞いてもらえませんか?」
「僕に…、お願いですか?」
「はい」
「何でしょう? 貴方は美和さんの、僕の大切な人の従兄弟ですから、僕に叶えられる願いなら、叶えて差し上げたいとは思いますが…」
「・・・・・・」
「隆久君?」
突然、頼み事をしてきた俺に、橘は少し戸惑っている様子だった。
しかし、俺はそれに構わず、最初で最後の願いを言う。
すると、伸ばした手で俺の頭を軽く撫でた後、小さく笑った。
「貴方くらいの年頃だと、そういう事に興味が出てきたりするのかもしれませんね。ですが、そういう事は好きな人とするものです」
「橘…」
「さぁ、早く自分の部屋にお戻りなさい。子供は、もう寝る時間ですよ」
・・・・・・・キスして欲しい。
そう俺は願ったけれど、橘は子供の冗談は聞けないと笑う。
そして、俺の背中を軽く押し月の光の下から、夜から追い出そうとした。
でも・・・・、俺は橘の言葉を聞かずに立ち止まり、橘のシャツの端を握りしめる。
今を逃したら、きっともう…、二度と橘に触れる事はできない…。
だから、俺は笑われても唇を噛みしめて、橘を真っ直ぐに見つめ続けた。
「好きです」
「・・・・・」
「そう言ったら、キスしてくれますか?」
「今日、初めて会った貴方が…、僕を?」
「・・・・はい」
初めて会ったという言葉に、首を横には振らなかった。
けれど、好きだという言葉に嘘はなかった。
ただ、キスがしたくて言った…と、橘は思うかもしれない。
そう思うような言い方をしたのだから当然だ。
でも、その方がキスをしてくれるかもしれないと、ほんの少しだけ期待を…。無駄だとわかっている期待をして、俺は静かに目を閉じた。
すると、橘の小さく息を吐く音が聞こえてくる。
だから、俺は、あぁ…、やはり呆れられただけで終ってしまったと思い苦笑した。
しかし、俺が冗談だと言って目を開けようとした…、その瞬間に唇ではなく額に柔らかなものが押し当てられて…。それが離れてから、ようやく押し当てられたものが何だったのかを理解した俺は震える唇を硬く引き結び、拳を硬く握りしめた。
たとえ額でも、キスはキス。
でも、なぜか…、してもらえたのに…、
触れた部分が熱くて、呆れられただけだと思った時より、胸が苦しくて…、
俺は開いた目を地面に落としたまま、橘の顔を見る事が出来ない。
すると、上から伸びてきた手が、俺の頭を優しく撫でた。
「ありがとうございます。貴方のような可愛い子に好きだと言ってもらえて、僕は幸せ者ですね」
「・・・・・・」
キスは額に、伝えた告白の言葉は大人の微笑みで流される。
完全に子供扱いで、相手にもされていない。
だが、ようやく上げた視線の高さに…、俺は改めて自分が子供である事を思い知り、これで良かったんだと、何かを言いかけた唇を硬く引き結んだ。
一度でも…、あの微笑む唇とキスしてしまったら、きっと忘れられない…。
だから、これで良いんだと痛む胸を押さえて、俺は橘に微笑み返した。
そう、これで良い。
橘は俺の事を知らない、忘れてしまった。
もしかしたら、忘れてしまったのではなく、忘れたかったのかもしれない。
俺の事ではなく・・・、父の事を・・・・。
思い出す、橘に渡された本の題名は、胸の奥に染み渡るように滲み…、
そこから、ひたひたと迫り込み上げてくる、哀しさも切なさも誰にも伝える事が叶わず、俺は微笑む事しか出来ない。もしも、橘の想いが少しでもわずかでも、俺に向けられていたら…、どうしてとなぜと叫ぶが出来たかもしれない…、けれど…、
橘は本を胸に抱きしめながら、待ち続けた日々を知らない。
再び出会う日を夢見て…、何度も何回も折り曲げた指の数を知らない。
だから、何にも言えなかった…、何も叫べなかった。
「俺の方こそ、我儘を聞いてくれて、ありがとう…。美和とどうか幸せに…」
ようやく、それだけを伝えると俺は橘に背を向ける。
叔父と美和と知り合ったのは、何がきっかけでどちらが先なのか…、
この家の事や借金の事や…、一体、どこまで知っているのか…、
聞きたい事はたくさんあったのに、背を向ける事で崩れていく微笑みを隠した。
けれど、そんな俺の背中に向かって、橘の声が響き…、
その声に昔と同じ温かさを感じた俺は、握りしめた右手の拳に力を込める。
でも…、それでも振り返ることは出来なかった。
「今に貴方はきっと、本当に好きな人と出会って恋をして…、キスをする。そして、その人と一緒になって…、必ず幸せに・・・」
なぜ、橘がそんな事を言うのかわからない。
好きな人と出会って恋をして…、幸せになるのは橘で俺じゃない。
その証拠に、橘の指には婚約指輪があった…。
それは結婚するという約束に他ならなくて、俺は橘が去っていく足音を聞きながら、白い羽が降りそうな夜空を…、月を見上げる。けれど、やはりミノルの言っていた羽は、俺の上には決して降っては来ない。
無意識に上に伸ばした手のひらは、握りしめても何も掴めず…、
すり抜けていく空気の冷たさに、俺は肩を震わせた。
「そうか…、それでも願いごとは叶ったんだ…」
月を見上げながら、そう呟くと今度は自然に口元に笑みが浮かぶ。
さっきはキスをねだってしまったけれど、俺はそんな事を望んでた訳じゃない。
ただ…、ずっと会いたかった。
橘が自分に向かって微笑むのを見たかった。
そうして、名前を呼んでくれたらと、そう思っていただけだった。遠く離れていて、長く離れすぎていて…、それ以上の事を願う事も想う事も出来なかった。
でも、それは二人の居る場所の距離だけではなく、心も遠く離れていたからなのだろう。最初からたぶん…、俺と橘の距離は見上げた月のように遠く離れていた。
遠く…、遠く離れすぎていた。
けれど、それでも羽の降らない空を、月を見上げ続けて…、
自分の手のひらの小ささに、届かない距離に絶望を繰り返しながら…、
俺は心の中で祈るように、ずっと手を伸ばし続けていた。
この手が届く事ではなく、この手で橘の幸せを守るように…、守れるように…。
そうして、大切な二人の上に、橘とミノルの上に白い羽が降り注ぐようにと…、俺は叔父に連れられて面会した養父となる男のざらりとした乾いた感触の手を取った。
腕の中の一冊の本を…、白い羽とミノルを抱きしめながら…。
けれど、すべては子供の浅知恵でしかなく、自分がただの無知な子供だったのだという事に気づくのに、そう長くはかからなかった。
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2009.10.27改定
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