綿毛の雪 8
養子の件で話をするために、叔父に連れて来られた書斎…。
そこで俺は叔父と向かい合いソファーに座っていたが、さっきから黙り込んだまま、口を開く事が出来ないでいる。それはたぶん口を開けば、胸の奥から沸き起こる激しい感情のままに橘の事を聞いてしまいそうだったからだ。
いつ…、どこで橘と知り合って…、
なぜ、橘と美和が婚約しているのかと…、
ここへ来た目的も忘れて橘の事を問いつめて、目の前のテーブルを叩く。
気持ちを落ちつかせるために目を閉じると、そんな自分の姿が見えるような気がしてたまらなくなった。押さえ込んだ感情の渦が、橘の事でいっぱいになってしまった胸を焼き尽くしてしまいそうだった。
なのに、怒りを感じているのか、哀しみを感じているのか…、
泣きたいのか叫びたいのか、自分でもわからない。
けれど、ただ一つだけわかる事は、何を感じても何をしても…、
・・・・・・・・・あの暖かな日は、もう二度と返って来ないという事だった。
さっきから何度も…、何度も同じ言葉と声が耳ではなく、頭の中に響き…、
俺はその声に、何度も名前に心当たりがないと言われ…、
まるで、初めて会ったように美和の婚約者だと名乗られ…、
叔父の前だと言うのに唇をきつく引き結び、片手で顔を覆う。
今から、叔父と交渉しなくてはならないとわかっているのに…、
ミノルを黒いクマのいるかもしれない国へ、行かせてやりたいと思っているのに…、
頭の中も胸の奥も、何も入り込む隙間がないくらい橘の事でいっぱいだった。
「どうしたんだ? 気分でも悪いのか?」
様子のおかしい俺を見た叔父が、そう尋ねてくる。
だが、俺は混乱していて喋る事が出来ず、首を横に振るだけで精一杯だった。
なぜだ…、どうしてだと心の中で呟いて…、
遠い日にすがりつくように…、風呂敷を強く抱きしめる事しかできない。
どうせ一人だと、一人きりだと思っていたはずなのに、目の前に橘が現れた途端、過去を追い求めて手を伸ばしていた。
どんなに手を伸ばしても、無駄だとわかっているのに…。
けれど、そんな俺を正気に戻らせたのは、風呂敷の中のミノルの存在。
抱きしめた風呂敷が、さっきよりも小さい事に気づいた俺は驚き、わずかに目を見開く。橘の事に気を取られていて気づかなかったが、いつの間にかミノルの柔らかな…、温かな感触が風呂敷の中から消えていた。
俺にはもう…、この風呂敷の中にしか…、
この中に居たミノルしか、抱きしめるものがないのに…、
また、父さんと母さんを亡くした時のように、突然にミノルが居なくなって…、
このまま…、何もかも失ってしまうのか?
唯一残されたぬくもりさえ、何もできないままに…。
そう思い握りしめた拳は小刻みに震え、俺はそれを押さえるために拳にぎゅっと強く硬く力を込める。そして、風呂敷の中の一冊の本の上に握りしめた拳を置き、それに祈りと願いを込めた…。
今だけでいい、ほんの少しでいい…。
俺に力を貸してくれ…、橘…。
目の前にいる叔父との疑惑を、美和との婚約を忘れたわけじゃない。
だが、何かを想い願う時、思い浮かべるのは橘の姿。
壊れてしまっても、失ってしまったのだとわかっていても、俺は…、どうしても橘を忘れられない。どうしても、求める事をやめられない自分を、拳の下にある捨てられなかった一冊の本に感じていた。
でも・・・・、今は考えない…。
今、俺がしなくてはならないのは、ミノルをイギリスへ行かせてやる事…。
そのための資金を手に入れて、それから先の事は後で考えればいい。
一人で居るなら、きっと、想う時間も考える時間もたくさんあるだろう。
取り留めのない、無為で無駄な事を考える時間には、不自由しないはずだ。
俺は細く長く息を吐くと顔を引きしめ、真っ直ぐな視線を叔父に向ける。
すると、さっきまでの震えは止まり、俺は顔に作りモノの笑みを貼り付けた。
「では、話を始めましょうか…、叔父上」
俺には失うものなど、もう何も無い。
ミノルをイギリスへと行かせてやる事さえできれば、もう他には何も望まない。
だから…、もしも神や仏が存在するなら、どうか奇跡を起こしてやって欲しい。
あの寂しがり屋の縫いぐるみを、ミノルをマコトに会わせてやって欲しい。
一人きりなのは、一人きりになるのは俺だけで十分だから…、
どうか…、あのクマだけは一人きりにしないでやって欲しい…。
俺と違ってミノルは、手も身体もボロボロになるくらい頑張ってきたから…、
とても一途で優しいクマだから…、どうか・・・・・、
・・・・・・・・・・幸せに。
そう願いながら、顔に貼り付けた笑みを深め、叔父との交渉を始める。
この交渉は弱気になり、こちらの弱味に付け込まれたら、お仕舞いだ。
だが、失うものなど無い、今の俺には弱気になる要素は一つもない。
逆に妻や娘の居る叔父は、弱点だらけだ。
証拠など無くとも、妻や娘の存在が足枷になる。
俺は心理的に叔父を揺さぶるために笑みを顔に貼り付けたまま、何の前置きも無く、唐突に養子の件ではなく、別件を目の前に突きつけた。
「貴方が作った借金の額は、一体いくらだ?」
「な、何を言っている。今はそんな話ではなく、養子の話を…っ」
「養子の話? 金の話の間違いだろう? だから、その前にこの話をしている」
「な・・・っ!」
「曲がりなりにも貴方は松本家の人間…、それなりの資産はあっただろうが、この洋館は不相応。いくら金を借りたのか知らないが、半端な額ではないだろう。まったく、こんな悪趣味なモノを建てるために、一体、何を担保にしたんだか…」
俺がそう言うと、叔父の顔が急激に青くなり引きつっていく。
噂で聞いた話では、叔父や親戚達は俺の両親が亡くなってから、財産をかすめるように奪っていったらしいが…、噂はあくまで噂だ。
何もわからないまま、呆然とした状態で下宿に放り込まれてしまった俺は、今まで何も知らないでいたし、考えもしなかったが…、
俺が今居る洋館が建てられたのは両親が亡くなった後ではなく、前の話。
今まで役立たずだった、大人達にとても子供とは思えないと言われてきた頭を使って考えをめぐらせながら、俺はおどおどと視線を彷徨わせている叔父を冷静に見つめた。
「あの強欲で傲慢な叔母のために、破産寸前に追い込まれ…、哀れなものだな。借金の事を知った途端、離縁するだろう女のために、なぜそこまでするのか理解に苦しむ」
「こ、子供のお前に何がわかるっ!! 次期当主として守られ、ぬくぬくとあの屋敷で育ったお前に、俺の何が…っ!!!」
「だから、さっきからわからないと言っている。人の話はちゃんと聞くものだ。それに、今の俺は誰にも守られてなどいない。後見人である叔父にも、見捨てられているのだからな」
「・・・・・っ」
冷静に見つめる俺の視線の先で、叔父の顔が醜悪な形に歪む。おそらく、様々な思いが胸の中で交錯しているのだろうが、俺にはわからないし理解する気もなかった。
もしも俺の予想が正しく、それが真実で、父の作ったという借金が本当は父のものではなかったとしても、屋敷が抵当に入り売りに出され、財産も奪われた後では、今更何を問うたところで無駄だろう。たとえ何らかの証拠が残っていたとしても、俺一人の力ではどうする事もできないし…、いくら大人ぶってみても俺には知識も何もかもが足りない…。
今の俺にできる事があるとすれば、それは借金の事を叔母に、自分の犯した罪を誰にも知られたくないという叔父の恐怖心を掻きたて利用し…、
イギリスへ人、一人が行けるできるだけの金を手に入れる事くらいだ。
俺は叔父を心理的に追い込むように、浮かべた笑みを深くする。
すると、叔父の額に汗が滲み、イライラしたように足が小刻みに揺れ始めた。
「貧乏揺すりをすると、ますます貧乏になるらしいが…。なるほど、本当らしい」
「・・っ! たかが12歳のガキのクセに…っ!!!」
「残念ながら、二ヶ月前に13になった」
「うるさいっ、また殴られたいのかっ!!?」
「殴りたければ、殴ればいい。だが、殴って困るのは、俺ではない貴方の方だ。俺を養子にしたいというのが、どんな人間なのかは知らないが…、渡す前に傷つけてはまずいだろう? 殴られた頬を、その養父とやらに見せたら、何と言うか楽しみだな」
「この・・っ!!」
「俺は貴方と言い争いやケンカをしに来た訳じゃない。膨大な借金を少しでも軽くしたいのなら、その拳を収めた方がいい」
俺を殴るために振り上げた叔父の拳が、俺の言葉で始めて止まる。
子供の俺の言葉で、叔父は唇を噛みしめ身体を震わせている…。
そんな叔父を憎む気持ちは、ずっと俺の胸の中にある。
今も憎んでいる、間違いなく。
だが、ミノルに出会ってから、俺の中で何かが変わってしまったのか…、
なぜか、そんな叔父の姿が…、とても哀れに見えた。
「では、自分の立場を理解した所で俺を養子…ではなく、買いたいと言っている人物が何者なのか…。そして、俺はいくらで買われる予定なのか、洗いざらい吐いてもらおうか」
両親は亡くなり、家には財産もなく、松本家はこの辺りでは名の知れた旧家だが、それほど地位が高い訳ではない。そんな俺を養子にした所で何の得にもならないのに、叔父が飛びつくほどの大金をはたく人物がいるとすれば、それはやはり…、善人ではあり得ない。
俺の言葉を否定せず気まずそうに俯いた叔父の姿を見ると、俺は風呂敷の中の本を右手で撫でながら覚悟を決めた。そして、早く叔父との話を終らせて、ミノルを探してやらなくてはと…、絶対に必ずイギリスに行かせてやるからと…、
顔に作り物の笑みを貼り付けながら、そればかりを考えていた…。
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2009.10.17再改定
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