綿毛の雪 6




 今、俺の目の前に建っているのは、白い洋館。
 表札には松本と記されているが、俺の住んでいた古いが趣のある松本本家とは随分と違う。以前、父に連れられて来た事があるが…、やはりいつ見ても玄関前にある天使の噴水も、必要以上に華美な外観も、この上なく悪趣味。
 いわゆる成金趣味という奴の典型だ。
 ここに住む叔父の趣味なのか、それとも妻の趣味なのかは知らないが、見た目だけでも足を踏み入れたいと思えるような場所ではない。そして、そんな場所に住む叔父にも、その妻にも、二人の間に生まれた俺より5歳上の従姉妹にも会いたいと思った事はなかった。
 だが…、それでも俺はここに来た。
 自分の手を眺めながら、無力さを嘆くよりも…、
 やらなくてはならない事があるから、ここまで来た。
 俺の抱えた風呂敷の中にある…、その中に溜まった小銭…。
 その想いを片割れの黒いクマに届けるために、俺はすべてを賭ける覚悟だった。
 
 「だが、これは罪悪感を感じているからでも、同情しているからでもない」

 目的地の前で小声で呟き、俺は腕の中のミノルを見る。すると、ミノルは普通の縫いぐるみのフリをしていろと言ったのに、手で洋館を差しながら俺に話しかけてきた。
 まったく、少しはじっとしてられないのかと思いながらも、そんなミノルに前のように怒りを感じる事はない。それだけではなく、今の俺は叔父のいる屋敷を前にしながら、感情の波に心を乱される事はなかった。
 「なぁ、コレって誰の家? すっげぇ、でっけぇな」
 「ああ、これは叔父の家だ」
 「叔父って…、まさか松本のコト殴ってた…っ」
 「その、まさかだ。だから、近くの草むらにでも隠れていろ。後で迎えに来る」
 「ば…っ、ココまで来て置き去りにすんなよっ。一緒に行くに決まってんだろっ」
 「・・・・・・・」
 「まーつーもーとっ!」
 正直な所、連れて行くのも心配だが…、置いて行くのも心配だ。
 俺の居ない間に何かあって、これ以上、ボロボロになってしまったら…、
 黒いクマに会う前に綿になってしまうような事があれば、後悔しても仕切れない。そう思い少し綿のはみ出したミノルの手を見た俺は、少し悩んでから小さく息を吐いた。
 「まったく…、仕方ないな。風呂敷の中でおとなしくしてるなら、連れて行ってやってもいい。だが、絶対に出て来たり喋ったりするなよ」
 「俺は荷物じゃねぇっつーの」
 「嫌なら…」
 「う、ウソウソっ、ちゃんと風呂敷の中でおとなしくしてっからさっ」
 「本当だろうな?」
 「ホント、マジっ。だから、連れてけよ」
 なっ?…と、ミノルの黒いボタンの瞳が俺を見上げてくる。
 その瞳は初めて話した日から、いつも一生懸命で真っ直ぐだった。
 真っ直ぐに前だけを見つめて、ボロボロになりながらも真っ直ぐに走っていく。
 縫いぐるみだから進む距離なんて、子供の俺よりも小さくわずかなのに…、
 それでもミノル行く…、俺よりも小さいクセに笑いながら…、
 ただ、ひたすら片割れのクマに会いたいがために…。
 そんなミノルを見つめていると、何も掴むモノの無くなったはずの手に力が湧いてくるのを感じた。

 「マコトに、お前の片割れに会えるといいな…、本当に会えるといい」
 
 俺が唐突にそう呟くと、ミノルが不思議そうな顔で俺を見る。
 だが、呟いた俺自身も不思議でたまらない。道端でクマを拾った時には、心の底からこんなセリフを呟くようになるなんて思いもしなかった。
 子供の俺が言うのも妙かもしれないが、人生なんてわからないものだ。
 こんな小さなきっかけでも、進む道が右にも左にも変わる。
 しかし、だからこそ…、俺はミノルの進む道を変えたかった。
 俺と出会ったことで少しでも、明るい方向へ…、
 やがて、破れ崩れ綿になってしまう前に、マコトに会わせてやりたい。

 けれど・・・、きっと俺はお前がいなくなったら・・・。
 
 そう思った瞬間、なぜか橘の姿が脳裏を過ぎる。
 だが、その橘の姿は昔ではなく、この前、会った時の姿で…、
 ああ、俺はもう…、美しい想い出さえ失くしてしまったのかと、胸に大きな穴が空いてしまったような錯覚に捕らわれる。けれど、そんな俺の手に、綿の詰まった柔らかいミノルの手が触れた。
 「大丈夫か? 松本?」
 空いてしまった穴は…、塞がらない。
 だが、心配そうなミノルの声と触れる柔らかな手は、とても胸に染みて温かかった。
 その暖かさを感じていると、今は一人ではなかった事を思い出して…、
 ミノルの柔らかな手をそっと…、出来る限り優しく握りしめる。
 やがては、また一人になってしまうのだとしても、今はそうじゃない。
 だから、失ってしまった想い出よりも、手に触れたぬくもりを守りたいと…、そう強く思った俺は目の前の悪趣味な洋館を睨みつけた。
 「大丈夫に決まっている、心配するな」
 ミノルにはそう言ったが…、この門を潜るには目的を果たすには、この屋敷で何かを見つけなくてはならない。
 今の俺の立場で状況で、叔父と対等になれるだけの何かを…。
 ここまで来て何も出来ずに叔父に良いようにされ、今度は下宿ではなく、見知らぬ家に放り込まれる事だけは避けたかった。

 「・・・必ず、掴んでやる。誰の手でもなく、俺自身の手で…」

 そう呟くと俺はおとなしくしていろと再び念を押し、ミノルを風呂敷に収めて歩き出す。そして、この上なく悪趣味で成金趣味な洋館の門を潜った。











 「誰が門を通したの!? 早く追い帰しなさいっ!」

 悪趣味な洋館で、まず俺を出迎えたのは叔父の妻である和子の金切り声。
 父が生きていた頃は、機嫌を取るように猫撫で声でうっとおしく話しかけてきていたのだが、本家が没落した今は俺に用は無いらしい。何か汚いものでも見るような目で俺を見ながら、和子は雇っている下男に俺を追い出せと怒鳴る。
 すると、その騒ぎを聞きつけたのか、焦った様子で叔父が出て来た。
 昔からそうだが、叔父は惚れた弱味なのか、妻の和子の尻に敷かれている。
 和子は両手を胸の前で組み、下男を見る時と同じ目つきで叔父を見た。
 「まさか…、貴方が呼んだんじゃないでしょうね?」
 「違うっ、俺は呼んでないっ。来たのは、隆久が勝手に…っ」
 「なら、さっさと追い出してくださいな。お金の無心に来たのなら、適当に握らせてやればいいでしょう?」
 「あぁ、わかった。わかったから、お前は自分の部屋に戻っていてくれ」
 「まったく、顔を見ているだけで気分悪いわ。本当に見れば見るほど、嫌になるくらい義兄さんにソックリ」
 「だ、だから言ってるんだ。部屋に戻れば、顔を見なくてもいいだろう」
 「そうね、そうさせてもらうけど、絶対に中に入れないでくださいね!」
 和子に怒鳴られ、叔父は一家の主らしくなく、情けなく小さくなっている。そんな叔父は、実は妻だけではなく、娘の尻にもしかれているらしい。
 つまり叔父が俺を殴るのは、そういう鬱憤晴らしも兼ねているのだろう。
 まったくもって、迷惑な話だ。
 もしも、俺の顔が父に似ていなかったら、今より少しは風当たりが穏やかだったかもしれないが、それでも俺は父に似ていて良かったと思っている。叔父達に何と罵られようとも、俺は厳しく、そして優しい父が好きだった。

 「お前のせいでっ、俺はいつもいつも…っ!!」

 俺なのか父なのか誰に対してなのか、わからない言葉と共に俺の頬に拳が飛ぶ。だが、俺はあえて避ける事はせずに無抵抗で殴られ、歯を食いしばり足を踏ん張り倒れずに持ちこたえた。
 殴られようとも蹴られようとも、今は抵抗してはならない。
 抵抗は・・・・、この屋敷で掴むべきものを掴んでからだ。
 俺はゴソゴソと動く風呂敷を軽く押さえながら、怒りのあまり息を荒くしている叔父を静かに見つめる。憎しみも怒りも何も込めずに静かに見つめ、叔父の怒りが収まり、話しが出来る状態まで回復するのを待った。
 すると、いつもと違う俺の様子に気づいた叔父が、殴るために振り上げた腕を止める。そして、無抵抗な子供を殴る自分を見ている下男の視線が気になったのか、バツの悪そうな顔で落ち着き無く周囲を見回す。
 そんな叔父の様子を見ていた俺は、そろそろ良いだろうと思い…、
 殴られても呻き声一つ上げなかった口を開き、穏やかにここに来た理由を叔父に告げた。
 「連絡もせずに来た非礼は詫びる。だが、俺は叔父さんのしたい話をしに来たつもりだ。それでも追い出すというのなら、このまま、おとなしく帰るよ」
 穏やかな口調で殊勝にそう言うと、叔父は珍しい俺の態度に驚いたように目を見開く。
 それもそうだろう。父が亡くなってから、いや、亡くなる前から叔父に対して、こんな態度を取った事はなかった。
 「したい話とは…、何の話だ?」
 聞かなくてもわかっているはずなのに、確かめるようにそう言った叔父に、俺は意味深な微笑を浮かべてみせる。すると、叔父は俺の腕を乱暴に掴み、奥へと続く長い廊下を歩き出した。
 「アレに見つからない内に、早くこっちへ来るんだ。奥の書斎なら、アレも誰も入って来ないからな…」
 「それは、なぜ? 俺の話を聞けば、叔母さんも喜ぶんじゃないのか?」
 「・・・・いいから、早く来いっ!」
 俺の言葉に過剰に反応した叔父に、俺は何かを探るような視線を向ける。
 どうも…、何かがおかしい。
 てっきり知っているものだと思っていたが、叔父の様子を見ていると、和子はこの件について何も知らないような気がしてならなかった。
 しかし、俺が居なくなれば良いと思っている和子に、養子の話を隠す理由が無い。
 なのに、叔父はそれを隠している。
 
 一体…、なぜ?

 だが、唇だけでそう言葉を紡いだ瞬間、俺は大きく目を見開く。
 すると、叔父と俺が向かう先から、奥の方から聞こえてくる声が…、
 聞き覚えのある…、忘れられない声が胸に開いた穴に鋭い痛みを与え…、
 激しく鳴る鼓動が思考を奪い、俺の頭の中を白く染めた。 
 信じられない…、信じたくない…。
 心の中で何度も何度も、そう繰り返し…、
 俺は声には出さず唇だけで、こちらに向かって歩いてくる二人の内の一人の名を呼ぶ。けれど、胸に走る痛みは…、通りで出会った時とは違っていた。
 でも、それがわかっていても、どうしてなのかがわからない。
 俺はただ苦しくて、苦しくてたまらなくて、救いを求めるようにミノルの居る風呂敷を抱きしめる腕にわずかに力を込めた。
 しかし、そんな俺を断崖から突き落とすように、従姉妹の美和がにこやかに隣に立つ人物を紹介する。そして、紹介された人物の目の前の優しい穏やかな微笑みが、俺の胸を冷たく鋭く切り裂いた。

 「隆久がここに来るなんて珍しいけど、ちょうど良かったわ。貴方にも紹介しておくわね、この人は橘遥さん、私の婚約者なの」

 婚…、約者…。
 美和がそう俺に紹介すると、橘は通りで会った時と同じように、まるで知らない人を見るように俺を見て…、

 ・・・・・・・・・・始めましてと、挨拶をした。




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                                            2009.9.16