綿毛の雪 5




 「今、ここで溜まってる下宿代まとめて払いな! もしも払えないなら、今日中に荷物をまとめて出てってもらうよっ!」
 
 目の前に立っている家主は、そうヒステリックに叫ぶ。
 しかも、大きな声で朝っぱらから…。
 そんな状況に俺は頭痛を感じて眉をしかめたが、何も言う事ができなかった。
 たとえ一ヶ月でも滞納は滞納…。どんなに怒鳴り声がヒステリックでも悪いのは家主ではなく、下宿しているのに払わっていない俺だ。
 この前に来た時に、叔父が滞納していた分を払っていったらしいが、どうやら今度一ヶ月でも滞納したら追い出すと、俺の知らない所で宣告されていたらしい。つまり事前に知っていたにも関わらず滞納したという事は、つまりは…、そういう事だ。
 いつまでたっても養子の件について、首を縦に振ろうとしない俺に痺れを切らし…、最終手段に出る気になったのだろう。追い出されかけた俺が、自分に泣きついてくるのを待っているのだ。
 
 『と、とにかく…、また来るからな。それまでに、自分の置かれた状況と例の話をよく考えておけっ』

 前に来た時に、叔父の残した捨てゼリフ。
 それを何度も頭の中で繰り返し聞きながら、俺は未だ決められないでいる。
 一人で生きていかなければとわかっているのに、仕事の事や自分の年齢の事や、色々な事が俺の目の前に立ちふさがり…、決心がつかないでいた。
 叔父の言いなりになってしまえば、財産や屋敷だけではなく、今度は松本の名まで奪われてしまう。そうすると、まるで亡くなった両親との縁まで切られてしまう気がして、追い出されても餓死しても、それだけは絶対に嫌だった。
 松本の名は、今の俺に残された唯一のものだから…、失くしたくない。
 それに、あの叔父の言いなりになど、誰がなってやるものかと思っていた。
 しかし・・・、現実はあまりにも厳しく、俺はただ沈黙するしかない。
 今は朝で、今日も空は綺麗に晴れ渡っているというのに…、
 ・・・・・・・俺の目の前は真っ暗だった。

 「下宿代を払えるお金は、今ありません。無理なお願いだとわかってますが、あと二週…、一週間だけ待ってもらえないでしょうか?」

 沈んだ暗闇の中から、俺はそれだけをやっと口にする。でも、一週間待った所で下宿代を支払うには、叔父に泣きつくしかないとわかっていた。
 握りしめた手はどんなに見つめても、やはり子供の手でしかない。
 大人と呼ぶには程遠い、小さな・・・、子供の手だ。
 そんな風に思っていると、ヒステリックな家主の声がして俺は握りしめた手に力を込める。そして、自分が子供だという事がくやしくて…、唇を噛みしめた。

 「とにかく、出て行きたくないなら、急いで叔父さんを呼ぶんだよ。子供のアンタじゃ話ならないからねっ」
 
 俺が子供だという事なんて、改めて言われなくてもわかっている。
 俺では話にならない事も、ちゃんとわかっている。
 だが、もう…、これ以上、何かを失うのは耐えられない。
 これ以上は、絶対に嫌なんだ。

 嫌だ…、嫌なんだ…、橘。

 知らないと言われたのに、優しい橘は俺の思い出の中にしかいないのに…、
 苦しくてたまらない胸の内で叫ぶのは、やっぱり橘の名前で…、
 一人きりだと、そんな現実を硬い布団の中で認めたはずなのに、それでも俺は無意識に橘の名を呼んでいた。昨日は本を捨てようとまでしたのに、まだ、俺は橘との約束と想い出を捨て切れずにいた。
 だが、そんな想い出にしがみついた所で何もならない。
 そして、同じように松本の名前にすがりついた所で、何も変わりはしない。
 その名を持っていようといまいと…、父も母も帰っては来ない…。
 
 もう・・・・・・、二度と会えないのだ。

 名前だけは絶対に捨てたくないと思っていたはずなのに、それに気づいた瞬間、何もかもが意味のないものに思えて、俺は握りしめていた手のひらをゆっくりと開く。それから、細く長く息を吐きながら…、もうどうでもいい…と心の中で呟いた。
 腹を空かせて仕事を探して町を彷徨う事にも、負けまいと歯を食いしばり拳を握りしめ続ける事にも疲れ…。俺から色々なものを奪っていった親戚連中や叔父を憎む事にも、疲れてしまった。
 何もかもに疲れ…、ただひたすらに眠りたかった。
 もう、何も考えたくない。
 辛いのも苦しいのも、もうたくさんだった…。
 でも、そう思い心の中で呟きながらも、それはただの弱音だとわかっていた。
 まだ…、この手も指も身体も動く…。だから、あきらめるには早いと…、もう少し頑張れば生き延びられる道があるかもしれないと、あきらめては駄目だと思っていた。
 だが、虚しさと脱力感が俺を襲い、開いた手のひらを再び握りしめる事ができない。
 そんな俺の頭の中では、昨日、俺を知らないと言った橘の声がずっとしていて…、
 その時は気づかなかったが、もしかしたら、その声が俺から立ち上がる力を、気力を奪っていたのかもしれない。俺は懐かしく哀しい声を聞きながら、ぼんやりと掴むモノのなくなった手のひらを見つめた。

 「わかりました…、すぐに叔父を・・・・・・」
 
 叔父を呼ぶという事がどういう事なのか知りながら力無く…、家主に向かって、そう言いかける。だが、その瞬間に俺に足に何かがコツンと当たった…。
 まるで、俺の言いかけた言葉を止めさせようとするかのように、走った小さな衝撃。それに気づいた俺が足元に視線をやると、そこには見覚えのある瓶が置かれていた。
 しかも…、その中にはお金が入っている。
 硬貨だけではなく、紙幣まで…。
 驚いた俺は手を置かれた瓶に向かって伸ばしかけたが、それよりも早く横から伸びてきた手が瓶をさらった。
 「何だ、持ってるじゃないか。まったく、ちゃんと持ってるなら、グズグズせずに早く出しなよ!」
 「ちょっ、ちょっと待ってくれっ、それは!」
 「少し足りないようだけど、今月はこれでカンベンしてあげるよ。それが嫌なら、この瓶を抱えて、ここを出てってもらうしかないね」
 「・・・・・・っ」
 「元は大そうな屋敷のお坊ちゃんだったらしいけど、子供一人で、こんな下宿に押し込められてるくらいだ。どうせ、行く当てもないんだろう?」
 
 ・・・・・・・・家主の言う通りだった。

 叔父の家に引き取られる予定だった俺がここに連れて来られたのは、叔父の妻である女が拒否したから…。そして、父の弟である叔父の他に誰も俺の引き取り手はなかった。
 だから、ここを追い出されてしまったら、叔父に見捨てられれば行く当てがない。
 俺が黙り込んだまま金の入った瓶をじっと見つめていると、家主は片眉を上げて、まったく可愛げのない生意気なガキだと悪態をついてから部屋を出て行った。
 すると、それを待っていたかのように、物陰から小さな影がひょっこりと姿を現す。
 そして、俺の所へトコトコと走り寄ると、足にぎゅっとしがみついてきた。

 「大丈夫かっ、松本っ。ま、まさか、また殴られたりとかしてねぇよなっ!?」
 
 そう言いながら俺を心配しているのは、縫いぐるみのクマ。
 非常識な動いて喋る、クマのミノル。
 けれど、見慣れたはずのミノルを見て、俺はわずかに目を見開いた。
 そう言えば最近夜に動いているようで、あまり姿を見る事はなかったし、見る事があっても、うっとおしいと感じていたから、視線をそらせてまともに見ていなかったが…、
 このクマは・・・、ミノルは・・・・、
 こんなにボロボロだっただろうか…?
 出会った時、胸の辺りに穴が開いてはいたが、右手から綿がはみ出したりはしていなかったような気がするし…、他にも足や色々な部分の布が擦り切れて、今にも破れそうにはなっていなかったような気がする。けれど、ミノルはそれを気にした様子もなく、ただ…、ぎゅっと足にしがみつき、俺を心配そうに見上げていた。
 「瓶を拾ってきたのは知ってたが、お前…、あのお金はどうしたんだ?」
 ボロボロになったミノルを見つめながら、俺がそう問いかける。
 すると、ミノルはお金も瓶と同じで拾ったと答えた。
 「縫いぐるみじゃ働けねぇし、稼ぐ方法がねぇから、落ちてるの拾って集めたんだ。持ち主だったヤツには悪りぃけどさ、ちょっちカンベンってヤツで…」
 「・・・・・・・縫いぐるみの片割れに会うために?」
 「お金集めて船に乗ったら、マコトに会えるって松本が教えてくれただろ? だから、何が何でも集めてやるって決めたんだ」
 「・・・・・・・・」
 
 ・・・・・・・・ミノルは俺のウソを信じていた。

 あんな話…、すぐにウソだと気づくと思っていたのに…、
 ミノルは今も俺の話を信じていて、お金を集めれば会えると思っている。
 本当にバカな縫いぐるみだ。
 その上、その集めたお金を下宿代も払えない俺のために差し出すなんて…、
 どう考えても…、バカとしか言いようが無い。
 訳のわからない憤りと怒りを覚えた俺は、足元にいるミノルを掴み上げる。
 そして、ジタバタ暴れるミノルを鋭く強く睨みつけた。
 「・・・・・ウソだ」
 「へ?」
 「金を集めて、船に乗れば会えると言ったのはウソだ」
 「・・・・・・っ」
 俺が告げた真実に驚いたミノルの手足が、突然、バタつくのを止める。すると、狭い室内がシン…と静まり返り、ミノルは丸いボタンに似た黒い目で、じっと俺の顔を見つめた。
 「ウソって…、ホントにウソなのか?」
 「そんなのは考えるまでもなく、すぐにわかるだろう。一体、イギリス行きの船に乗るのに、いくらかかると思っている? そんな拾ったぐらいのはした金で行ける訳がないだろう。それに運良く行けたとしても、黒いクマの縫いぐるみだという特徴だけで探し出せるはずもない」
 「・・・・・・・・」

 「お前と片割れは、二度と会えない。金を探して集めて、そのために布が擦り切れて綿になっても、もう二度と会えないんだ」

 俺が冷たく言い放った言葉は、きっと…、すでに穴の空いているミノルの胸を更に鋭く貫いて…、そして、深く傷つけただろう。じっと俺を見つめ続けるミノルからは、表情らしい表情は読み取れなかったが…、俺の胸には苦いものが広がった。
 自分で言ったクセに、傷つく言葉を選んでわざと言ったクセに…、
 胸に広がるたとえようもない後味の悪い苦さに、俺は顔を醜く歪ませる。
 その時の俺は最低だった。
 きっと…、俺を殴った叔父と同じくらい最悪の人間だった。
 けれど、そんな俺の顔をしばらく見つめた後、ミノルは自分を掴みあげている俺の手を軽く優しくポンポンと叩いた。
 「ソレってさ、可能性ゼロなのか?」
 「・・・・え?」
 「お金集めて船に乗れたとしたら、マコトに会える可能性って…、ほんのちょびっとでもねぇの? たとえばさ、アリとか…、米粒とか砂粒くらいでもねぇのかな?」
 「・・・・・・」
 さっきは俺の言葉にミノルが動きを止めたが、今度はミノルの言葉に俺が動きを止める番だった。
 アリとか米粒とか砂粒とか…、この縫いぐるみは何を言ってる?
 あったとしても、そんな可能性が何になる?
 砂粒の可能性なんて、無いも同然だ。
 けれど、俺が何も言わないのを肯定と取ったのか、ミノルはまるで夢見るように窓の方を見る。そして、そこに広がる青い空を…、イギリスへと繋がっている遠く遠い空を、縫い付けられた糸が少し緩みかけているボタンの瞳で見上げた。

 「砂粒でも可能性あるなら俺は会いに行く…、必ず行く…。たとえ、カラダが擦り切れて綿になったとしても、その綿が…、いつか見た白い雪みたいに小さなカケラみたいになってもいいから、俺はマコトにそばに行きたいんだ…」

 マコトが好きだと…、とても好きだと…、
 大好きだから、会いに行きたいんだとミノルは夢見るように言う。
 なのに、そんなに会いたいのに、集めた金を俺なんかのために使って…。
 初めて話した時から、バカだバカだと思っていたが…、
 本当になんて底抜けで、バカなクマだ。

 本当でバカで…、大バカだ…っ。

 何度も何度もバカだと言った。
 心の中でも声に出しても、何度もバカだと叫んだ。
 でも、本当にバカなのは、イギリスに連れて行く気もないのに、あんな事を言った…、ミノルがこんなになってしまうまで、何も見ようとしなかった俺だった。
 苦しくて辛くて…、自分の事だけしか見えなくて…、
 俺よりも小さな手を擦り切らせ、綿をはみ出させて、こんなにしてしまった俺だった。

 「俺は…、俺はいつから、こんなになってしまったんだ…。何もできないと嘆きながら、傷つける事だけ上手くなって…」

 今、鏡を見たら…、俺は物凄く醜い顔をしているだろう。だから、こんなにも醜く歪んでしまったから、きっと橘も俺を見て知らないと言ったんだと…、
 そう納得したら、記憶に残る橘の微笑みが遠くなった気がした。
 もう二度と、橘はあんな微笑みを俺に向けてはくれないだろう。
 けれど、そんな醜い俺の頬を小さな擦り切れた手が撫でてくれていて、体温などあるはずもないのに…、その手はなぜかとても温かかった。
 「泣くな…、松本」
 「・・・・・俺は泣いてなどいない。俺のように冷たい人間には、涙なんかないんだ」
 「何言ってんだよ、俺を拾ってくれた松本が冷たいワケねぇじゃん。松本は優しいし、いいヤツだって、俺が保障するから信じろよ」
 「・・・・・・・」
 父も母も亡く…、橘との約束も消え…、
 何もかも奪われて…、俺の手には何も無い。
 さっきまで、何も無かった。
 だが、まるで最後に残された希望のように、今、確かなぬくもりを感じる。
 何も無いと思っていた手の中には、小さな優しいぬくもりが残っていた。
 俺は無言でクマを足元へ降ろすと、下宿している部屋から出て階段を降り、下の階に住んでいる家主の元へと向かう。そして、中から金を取り出そうとしている家主の手から瓶を奪い取った。
 
 「俺は今日で、ここを出て行きます。今まで、お世話になりました…。この瓶のお金は友人の物なので返してもらいますが、払っていない一ヶ月分は必ず払いに来ます」

 いきなり現れた俺に驚く家主に向かって、俺はそう言い頭を深々と下げる。
 そして、ちょっと待ちなと叫ぶ家主を置いて、ミノルのいる二階へと戻った。
 それはとても衝動的な行動だったが、後悔はしていない。
 罪滅ぼしなどではなく、自分のためにした事だから、後悔などするはずがない。
 俺は待っていたミノルに瓶を渡すと、出て行くために部屋にあった荷物を片付ける。だが、荷物は屋敷から持って来た着替えが数着あるだけだった。
 「おい、何してんだっ、松本っ!」
 「今日でここを出て行く…、もう決めたんだ」
 「えっ!?」

 「俺が必ずお前をイギリスに行かせてやる。だから、お前は少しでも会える可能性が増えるように、砂粒が米粒…、アリくらいにはなるように祈っていろ」

 イギリスには一緒には行けない。
 だが、行かせてやる事ならできるかもしれない。
 俺は自分の手に唯一残されたものを…、ミノルの温かな想いと願いを少しでもマコトへと続く空へと届けるために下宿を出て、真っ直ぐ前へと歩き出した。




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                                            2008.8.31