綿毛の雪 2




 『必ず帰ってきますから…、貴方に会うために…』

 まどろむ夢の中で、とても懐かしい声を聞いた。
 けれど、目の前に立つ人の表情は、ぼんやりとしていてわからない。
 微笑んでいるのか、それとも哀しそうな表情をしているのか…。
 おぼろげな記憶の中で、俺はその人の指と指切りをしていた。
 そして、今よりも小さな手で、また会う日までと一冊の本を受け取り約束をした。
 だが、その約束は未だ果たされず、すでに 6年の時が過ぎ…、
 その時の長さは、あきらめるには十分すぎる時間だったように思う。
 指切りをしてから1年が経ち、2年が過ぎ…、3年が流れ。
 あきらめの悪い事に4年の時が過ぎて、やっと、もう会えないのだと理解した。
 俺が11歳になった頃の事だ。
 俺と指切りをした人が行った場所が、船に乗り海を越えなければ行けない事は本人から聞いて知っていたが、そこは思っていたよりも、ずっと遠く…、そう簡単に会える場所ではなかった。
 
 針を千本飲ませたくても…、遠すぎて飲ませられない。

 もしも、それが優しさから出たウソだったとしても、会える日を楽しみにしていた俺にとっては…、ただ、残酷なだけのウソだった。
 だから、本当はあんな本は捨てられても、捨ててしまっても構わない。
 ここに持ってくる必要は、少しもなかったはずだ。
 だが…、なぜか本は今も手の届く場所にある…。
 夢から覚め、ゆっくりと目蓋を開いた俺は、本を置いている机の方に視線を向けた。

 「・・・・・・橘遥」

 本の裏表紙に書かれた名前を、ため息と一緒に吐き出す。
 父と母が急死してから、色々な事がありすぎて…、最近は見る事もなくなっていた夢。それを見てしまったのは、おそらく、あのクマのせい。
 あのクマがイギリスにいる片割れと会いたいと言ったからだ。
 会える可能性など、微塵もないというのに…、

 「本当に馬鹿なヤツだ…」

 しかし、そう呟いた瞬間に…、何者かの声が俺の耳を打ち、驚いた俺は声のした方向へと反射的に視線を向ける。すると、そこにはなぜか鏡があって、睨みつけるようにこちらを見ている俺自身が映っていた。

 ・・・・・・・・馬鹿なのは、お前だろう?

 鏡の中の俺が、ゆっくりと人差し指を突きつけ…、
 俺に向かってそう言った瞬間、心臓がドクンと大きな音を立て…、息ができなくなる。そして、俺はあまりの苦しさに胸を押さえ、大きく目を見開いた。
 
 「・・・・・っ!!!」

 夢から覚めていたはずだった。
 けれど、それもまた夢だったのか、閉じた覚えのない目を開いた俺は荒く息を吐く。それから、今度は夢ではない事を確かめるために、自分の頬を胸を押さえていない方で強くつねった。
 ・・・・・・・痛い。
 頬から伝わってくる痛みと、息苦しさ…、
 そして、夢見の悪さに、俺は思い切り顔をしかめる。
 どうやら、今度こそ本当に目覚めたらしいが、まだ夜は完全に明けてはいない。窓から差し込む薄明かりが、もうじき朝が来る事を教えてくれていたが…、今日の目覚めもやはり最悪だった。
 
 「やはり、あんな縫いぐるみ…、拾わなければ良かった」

 どうでもいいと思っているはずなのに、苦しい息と一緒に吐き出した言葉は、なぜか俺の胸を重くする。ようやく、本当に夢から覚め開いた目で室内を見回せば、やはり今日もミノルの姿はなかった。
 寝床になっている押入れにも、たぶんいないだろう。
 どこに出かけているのかは知らないが、ミノルは夜に出かけて朝帰ってくる。
 これが人間だったら、何か怪しい場所にでも行っているのではないかと思うが、アイツは縫いぐるみだから、それはあり得ない。きっと目立たないように行動しているだけだろうと、俺は思い気にしない事にした。
 イギリスにいるという片割れに会えない事も、すぐにわかるだろうし…、
 そうすれば、きっとあきらめるだろう。
 それに、俺には縫いぐるみよりも、もっと他に考えなくてはならない事がある。
 だから、縫いぐるみなどに構っているヒマはなかった。
 俺を養っていると言った叔父を嘲笑ったクセに、結局、空腹に負け…、
 拳を握りしめ震わせ、強く唇を噛み締めながらも、その金で生き延びるしかない俺に、そんな余裕など、あるはずがない。
 認めたくはなくても…、それが現実だ…。
 いつも俺が空腹に耐え切れなくなる頃を見計らって、叔父はここにやってくる。
 粗末な紙袋に、当座、生き延びられるだけの金を入れて…。それから、亡くなった父の姿を俺に重ね合わせながら、気に入らないと俺を撲って蹴って帰っていくのだ。
 けれど、それもいつまでも続かない。
 今は生かさず殺さず、俺が助けを求めて縋り付いてくるのを…、養子の話を承諾するのを待っているが、そろそろ時間切れだろう。おそらく、今度来る時が最後だと、叔父の焦った様子を見ていると、そんな気がしてならなかった。

 「それまでに、ここを出るしかないのかもしれない。だが…、俺はここを出て生きていけるのか?」
 
 俺は一人で生きていかなくてはならない。
 そういう状況に俺はいる。
 しかし、拳を握りしめても歯を食いしばっても、不安ばかりが胸の奥から沸き…、
 不安を押さえ込もうとすればするほど、自分以外の何もかもが怖くなる。けれど、今、そう思った所で、この部屋には誰もいないのだから問題はない。
 本当に何も…、何一つ問題はなかった。

 どうせ・・・、一人じゃないか…。

 そう思いながら、逃げるように寝ていた薄く固い布団の中に潜り込もうとすると、ふいに廊下と部屋とを仕切っている襖がすーっと静かに開く音がする。そして、猫でも犬でもない独特の軽い足音が耳に届いた。
 この足音は間違いなく、ミノルだ。
 けれど、目を閉じ寝たフリをして、小さくただいまを言う声にも返事はしない。俺は目を閉じ思考を乱した足音が、寝床である押入れの中に消えるのを待つ。
 しかし、ミノルのただいまを聞いた瞬間、なぜかほんの少しだけ…、

 ・・・・・泣きたくなった。








 起こるのは悪い事ばかりで、良い事など一つもない。
 どんなに歯を食いしばっても、今の状況は変わらないし、俺の身長が急に伸びたり大人になったりする事もない。その頃の俺はそんな事ばかりを考え思い、いつも進歩のカケラもなく、ため息ばかりをついていた。
 今の状況から抜け出そうと歯を食いしばりながら、拳を握りしめ…、
 そうして、いつの間にか自分でも気づかぬ内に俯く事しかできなくなっていた。
 この狭い下宿の部屋から抜け出したいのに、片隅でずっと膝を抱えてうずくまっている。けれど、俺はそんな自分に気づく事もなく、日々を過ごしていた。
 自分に似ていると感じたミノルから目を逸らし、何も見ないフリをして…、
 じりじりと迫り来る叔父の足音に、何も変わらない日々に焦りを感じていた。
 
 「今日も何も変わらない。屋敷で暮らしていた頃は、変わらない事が当たり前で何も感じた事がなかった。けれど、今はそれがつらくてたまらないんだ…、橘」

 自分を雇ってもらえないかと頼みに来た呉服屋の店先で…、そう呟き…、
 久しぶりに声に出して言った名は、なぜか哀しく胸に響く…。
 そうして、少しの間、店先で立ち止まっていると中から邪魔だと怒鳴られた。
 この店は母がとても気に入っていて、俺の住んでいた屋敷にも出入りがあったため、店主も店員の顔も見覚えがあったが…、その頃とは俺を見る時の表情が違っている。落ちぶれた俺を蔑むか哀れむか、昔を知っている人間の大概はそのどちらかだ。
 しかし、そんな彼らの視線に慣れた今は動揺したり、傷ついたりする事はない。
 金も権力も何の後ろ盾もない…、ただの子供に媚びへつらった所で何の利益にもならないのだから…。彼らの反応も行動も、当然の事だと理解していた。
 だが、屋敷に居た頃とでは、あまりにもすべてが違いすぎていて…、
 どちらが夢で、どちらが現実なのだろうかとくだらない事を考える。

 どちらも現実でしか、あり得ないというのに…。

 まだ日は高いが、今日は下宿に帰ってしまおうかと思い、俺は深いため息をつく。
 そして、なんとなく自分の小指をじっと眺めた。
 この小指と指切りをした事があるのは父と母と…、橘遥と…。
 けれど、指切りをした人は皆、俺のそばから居なくなってしまった。
 だから、俺はもう…、誰とも指切りはしない。
 
 『必ず帰ってきますから…、貴方に会うために…』 

 そんな言葉は、もう信じていない。
 信じる事も待つ事もやめてしまった。
 なのに、俺の目は今でも…、無意識に橘に似た人の影を追いかける。
 そして、それが橘ではない事を確認すると、わかっていた事なのに…、
 信じても待ってもいないのに・・・・、いつもガッカリした…。
 ガッカリする必要など、どこにもないのにガッカリして…、
 また、ため息をついて足元の石を蹴り、その石が思いも寄らず前を歩く人の足に当たる。それを見た俺は、子供みたいな事をしてしまったと激しく後悔した。
 「すいません…っ、お怪我はありませんか?」
 俺はそう言いながら、慌てて石を当ててしまった人に近づく。
 だが、振り返った人の顔を見た瞬間、俺は驚き目を見開いて立ち止まった。
 
 「まさか・・・・、そんな事が…」

 ・・・・・信じられるはずがない、こんな偶然があっていいはずがない。
 けれど、たとえ何年経とうとも見間違えるはずがなかった。
 いつも屋敷に来て、俺の勉強を見てくれたり遊んでくれた年上の…、今はたぶん25歳くらいになっているはずの人の事を…。
 でも、今はもういない父や母のように、また橘も消えていなくなりそうで…、俺はゆっくりと手を伸ばし橘の袖を掴む。すると、幻ではない事を示すように、掴んだ布の感触が指先から伝わってきた。

 「橘…、会いたかった」

 そう言った俺の声は、小さく震えていて情けなく…、
 軽く唇を噛むと、目の前に立つ橘が「足は大丈夫です、心配ありませんよ」ふわりと優しく微笑んだ。それは何年経っても変わらない…、優しくて綺麗な微笑みだった。
 しかし、袖を掴んだ俺の手に自分の手を重ねた橘は、なぜか軽く首をかしげる。
 そして・・・・、少し屈み込んで俺の顔を覗き込んだ。
 「ですが、僕は君を知りません」
 「え?」
 「僕の名前は確かに橘ですが…、君は? どこかでお会いした事がありましたか?」
 「お…れの名前は、松本隆久で…」

 「残念ですが、その名前に心当たりはありません」

 俺は橘の事を、信じても待ってもいなかった。
 けれど…、こんな風に忘れられてしまうなんて思わなかった。
 橘にとって俺の存在が、こんなに小さなものだったなんて…、知りたくなかった。
 確かに信じても待ってもいなかった…、でも、こんなのはあんまりじゃないか…。
 あんまりだ…、あんまりだよ…、橘…。
 そう心の中で呟いた瞬間、自分の顔がくしゃりと歪むのを感じた。

 「どうやら、人違いだったみたいです…、すいません…、でした」

 表情と一緒に潰れたみたいになっている胸の奥から搾り出すように、それだけ言って俺は走り出す。そして、走って走って逃げるように下宿にたどり着くと、机の上に大切に置いていた本を乱暴に掴んで、少し前にミノルを投げ捨てようとした窓を開いた。

 こんな本なんか捨ててやるっ!!
 こんな本があるから、俺は・・・っ!!!

 だが、何度投げ捨てようとしても、なぜか途中で手が止まって捨てられなくて…、
 俺はくやしくて歯をギリリと食いしばる。
 それから、なぜだ…、なぜ捨てられないんだと胸の中で何度も繰り返し叫んで…、
 歯を食いしばったまま、また捨て損なった本を抱きしめた。

 「これできっと…、本当に一人きりだ…」

 一人きりになっても、俺の目から涙は出ない。
 父と母が死んだ時も、やっぱり涙は出なかったから…、
 俺はきっと冷たい人間で…、だから一人きりなんだろう…。
 ぼんやりとそう思い、本を抱きしめたまま畳に転がり目を閉じる。すると、なぜか雨の日に拾ったミノルが、同じように畳の上に転がっていた姿を思い出した。




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                                            2008.8.5