綿毛の雪 1




 朝日が昇るとともに目覚める…のならば、それが早すぎる時間帯だったとしても、今よりは清々しいかもしれない。けれど、朝日でも雀の声でもなく、自分の腹の虫の音で目覚めた俺は、その日の朝、最悪な気分で眉を思い切りしかめた。
 そして、自分の寝転がった畳の上に、同じように転がっているモノを見つめる。
 だが、それはいくら見つめても…、食べられそうもなかった。

 「拾ってきた所で、縫いぐるみじゃ腹の足しにもならない」

 じーっと畳の上に転がっているモノを見つめながら、ため息混じりにそう呟く。
 すると、それと同時に、ぐ〜…っという腹の虫の音が誰も居ない室内に響いた。
 ・・・・・・・腹減ったな。
 昨日から思い続けている事だが、部屋には食べ物らしきものはない。
 手持ちの金がすでに底をついてしまっているため、もしかしたら昨日だけではなく、今日も何も食べられないかもしれない。それどころか今居る下宿も家賃を二ヶ月滞納しているので、追い出されてしまうかもしれなかった。
 今日こそ、どこか働く場所を見つけなければとわかってはいるが、その望みは薄い。こんな事態になるまで気づかなかったが、どうやら俺は世間知らずで役立たずらしかった。

 『悪いけど、お屋敷の坊ちゃんにして頂けるような仕事はウチにはないんでね』

 そんな言葉で拒絶され、断られ…、
 働き口が決まっても失敗ばかりで、すぐに首になってしまう。
 なんとかしなければと思うものの、今の俺にはどうしようもなかった。
 そう…、どうにもできない…。
 父と母が亡くなった時と同じように…。
 気づけば、借金だなんだと財産を親族達に奪われ、屋敷を追われた時のように…。
 大人達はいつも口々に大人びていて、しっかりとしていると俺の事を言っていたが、いくら大人びてはいても、俺はただの13歳の子供でしかない。自分でも飽きれてしまうほど、嫌気が差すほど…、俺はただの子供だった…。
 そう思い、ため息をつくと、畳に寝転がっていたモノがムクッと起き上がる。
 そして、手を上へと上げて、大きく伸びをした。

 「ふぁあ〜…、よく寝た」

 俺の目の前でアクビをしたのが、ただのクマだったら、なぜココに居るのかという別ににしてだが、今よりはまだ驚きは少ないだろう。けれど、アクビをしたのはただのクマではなく、縫いぐるみのクマ…。
 色は白で長く風雨にさらされでもしていたのか、かなり汚れている。
 そんなクマの姿は、とても憐れに俺の目に映った。
 せめて、動かぬ普通の縫いぐるみなら何も感じず何も思わずにいられただろうにと…、わずかにクマから目を逸らす。そして、大きなため息をついた。
 「昨日も思ったが、とうとう空腹のあまり幻まで見えるようになったか…」
 眉間に皺を寄せると、そんな言葉が口から漏れる。
 すると、トコトコと歩いて近寄ってきたクマが、ポンポンと軽く俺の腕を叩いた。
 「信じたくない気持ちはわからなくもねぇけど、コレって現実だからっ。なっ、松本」
 「・・・・確かにこうやって触れられていると、夢を見ている気はしないな」
 「だろ?」
 「だが、そのセリフを縫いぐるみに言われたくない気がする」
 「縫いぐるみじゃなくてっ、俺の名前はミノルっ。それに世の中には不思議なコトがいっぱいあんだし、たまには縫いぐるみが喋ったっていーじゃんかっ!」
 「なら、たまにしか喋らないでくれ」
 「う・・・・っ」
 昨日、下宿へ帰る途中で見つけた縫いぐるみ…ミノルは、どうやら本当に動いて喋れるらしい。腕に触れているクマの手の感触は縫いぐるみそのもので、手を伸ばして持ち上げてみると予想以上に軽かった。
 「ちょっ、何やってんだよっ! 降ろせよっっ!!」
 「この感触だと、中身はやっぱり綿だけか…」
 「ま、まさか…、俺様を窓から捨てたりするつもりじゃねぇだろうな?」
 「・・・・・・・・」
 「おーいっ!」
 ずっと持ち上げたままでいると、ミノルが叫びながらジタバタと暴れる。
 その姿は可愛いと言えなくもないが、やはり非常識だ。
 縫いぐるみのクマが動くなんて…。
 窓から捨てるなと言われたが、捨てた方がいいかもしれない。昨日は驚きすぎたせいか、そんな風には思わなかったが、今見ると縫いぐるみが動くというのは少し気味悪い。
 俺は持ち上げた縫いぐるみを持って、窓へと向かった。
 「うわっ、ま、マジでかよ!?」
 「縫いぐるみだから、窓から落ちても平気だろう。上手く着地してくれ」
 「ぎゃーっ、待てっ、早まるな!」
 「じゃあな」
 そう言ったのは半分冗談で、半分本気。
 その時はたぶん…、空腹で頭まで麻痺していたんだと思う。
 けれど、ミノルを窓から捨てようとした瞬間、胸の辺りが切られたような妙な破れ方をしているのに気づいて俺は手を止めた。
 「何かに引っ掻けた? いや…、何かで切られたような…」
 俺がそう言うと、ミノルは暴れるのをやめ自分の胸の辺りを見る。
 そして、おどけたような仕草で軽く肩をすくめた。
 「ちょっと前に、お前みたいに俺のコト拾ったヤツがいてさ。けど、目の前で動いてみせた途端、バケモノって言われてコレだもんなー。まぁ、俺って縫いぐるみだし、そうしたい気持ちもわからなくもねぇけど、ホントまいっちまうぜ」
 「・・・・・・・・」
 「その点、松本はすげぇよな。一応、驚いてたみてぇだけど、まともに俺と話してくれたし、そーいうヤツって実は初めてだったからさ…」
 「・・・・・・・・」
 「ん? どうかしたのか?」

 「・・・・・いや、なんでもない」
 
 自分の事だけで精一杯で、同情している余裕はない。
 こんなの置いていても何にもならないし、うるさいだけだ。
 ミノルの胸の辺りの切られた跡を見ながら、俺はそう思っている。けれど、そんな俺の意思に逆らって、持ち上げていた手はゆっくりと下へと降りて…、畳の上にゆっくりとミノルを着地させていた。
 「松本?」
 たぶん、本気で窓から放り出されると思っていたのだろう。
 畳に着地したミノルが、不思議そうに首を傾げて俺を見ている。
 けれど…、不思議なのは俺も一緒だった。
 早く窓から捨ててしまいたいと思っているのに、なぜ、今もこの縫いぐるみと向き合っているのかわからない。俺は小さく息を吐くと、目の前に立っている小さな縫いぐるみの前に膝をついた。

 「お前は・・・・・、いつから一人でいるんだ?」

 どうして縫いぐるみ相手に、そんな事を聞いてしまったのだろう…。
 言ってしまってから、また口から小さなため息が出た。
 だが、そんな俺をじっと見ていたミノルはうれしそうに…、俺の目にそう見えただけかもしれないが、マコトについて話し出す。マコトというのはミノルと同じクマの縫いぐるみで、雑貨店のウィンドウに並んで飾られていたらしかった。
 ミノルは白で、マコトは黒…。
 どうやら、このクマはもう片方と対で作られたらしい。いつ、どこで誰に作られたのかは本人も知らないようだが、その頃は今のように動いたり喋ったりはできなかったようだ。
 そうする事ができるようになったのは…、対のクマと離れてから…。
 ある日、ずっと一緒だと信じて疑わなかった片割れと離れ離れになってから、動け、動けと毎日念じている内に動けるようになった…と、そこまで語ると、ミノルは小さな手で俺の足に触れた。
 「アイツは青い目をしてるヤツに、買われてったんだ。なんとなくだけど、イギリスってトコに住んでるヤツだって、店のヤツが話してたのを覚えてる」
 「・・・・・・・」

 「だから、俺はイギリスに行きたい…」

 強い意志を秘めたミノルの声が、俺の鼓膜に響く。
 だが、俺は何を言うつもりだ…と心の中で呟き、何も聞かないフリをした。
 実際に耳を塞いでいた訳ではないが、話を聞く気はなかった。
 しかし、そんな俺の態度を見てもミノルは話し続け、俺を真っ直ぐに見つめてくる。
 クマの作り物の…、目で…。
 けれど、作り物だとわかっていながら、俺はその目に見つめられたくなかった。
 「アイツに会いたいんだ。でも、どうやったら行けんのか、俺にはわかんねぇ。なぁ、松本…、お前なら知ってんだろ? 頼む、知ってたら教えてくれ」
 「・・・・・・・・・」
 「俺とまともに話してくれそうなヤツ…、お前しかいねぇんだ」
 「・・・・・だから、それがどうした」
 「え?」
 
 「うるさいっ、縫いぐるみのクセに喋るなっ!!」

 俺の叫び声を聞いたミノルの身体がビクッと震え、叫んだ俺自身も自分の声に驚いて目を見開く。そんな事を言うつもりなど、微塵もなかったのに…、気づけば俺しかいないと言ったミノルの手を振り払い、酷い言葉を口にしていた。
 俺はなぜか…、自分で拾ったクセに、この縫いぐるみに酷い事をしたり言ったり、そういう事しかできないらしい。けれど、どこかに行ってしまえと叫ぶ前に、階段を上って来る足音が耳に届き、俺はクマを乱暴に掴んで押入れに投げ入れた。
 「ま、松本?」
 「黙ってろ…、良いと言うまで喋るんじゃない」
 さっきとは違う意味で、俺がそういうとミノルは黙りおとなしくなる。
 すると、階段を上ってきた足音が俺の部屋の前で止まり、それと同時に廊下と部屋を隔てている襖が勢い良く開かれた。
 「弱っていると聞いて来てみたが、ずいぶんと元気そうだ。話し声がしていたようだが、友達でも来ているのか?」
 そう言って無遠慮にズカズカと部屋に入ってきたのは、俺の叔父。
 財産を奪った親族の中の一人で、俺をここに放り込んだ人物。俺はこんな事になる前から、いつも嫌な笑みを浮かべながら俺を見る、この叔父を嫌悪していた。
 俺が何も答えないでいると、叔父は俺に向かって紙袋を差し出す。
 だが、俺はいつものように、それを受け取らなかった。
 すると、叔父もいつものように軽く肩をすくめ、畳の上に袋を置いた。

 「相変わらず可愛げのないガキだ」

 叔父は来たくて、この下宿に来ている訳ではない。
 財産もなく用済みの俺を、父の弟だという理由で面倒を見なくてはならないからだ。
 しかし、今はそういう理由ではなく、父と交友があったという男が、俺を養子に貰いたいと申し出ていて…、それを了承させるために機嫌を伺いに来ている。だが、その話には何か裏があると、俺はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる叔父の顔を眺めながら感じていた。
 このままだと餓死してしまうかもしれない。
 けれど、それでも絶対に叔父の口車に乗らない。
 叔父の言いなりになるくらいなら、死んだ方がマシだと思った。

 「何度来ても答えは同じだ。俺は何があろうと、松本の名を捨てるつもりはない」

 もう二度と来るなと叫びたい気持ちを抑えながら、出来る限り感情を表に出さず静かな声でそう言う。すると、叔父はカッと頭に血を上らせ、俺の顎をぐっと右手で強く掴んだ。
 「本当にお前は兄貴に、親父にそっくりだな。俺を見下したような、その目が特に…」
 「そんな風に見えるのは、貴方の心が歪んでいるせいだろう」
 「黙れっ!何もできないガキのクセに、偉そうな口を利くなっ!」
 更に強く力を入れられ、掴まれた顎が痛い。
 だが、その痛みに負けまいと、俺は歯を食いしばる。
 食いしばって叔父を睨みつけ、生意気だと殴られた。
 「お前みたいな役立たずを養うのも、ただじゃないんだ」
 「養う? いつ、誰が誰を?」
 「こいつ…っ!!」
 「ぐ・・・っ!!」
 再び殴られた瞬間、ミノルを閉じ込めた押入れの襖がガタガタと揺れるのが目に映る。
 その瞬間、俺は心の中で、バカ…っ、出てくるなっ!!!と叫んだ。
 この叔父に見つかったら、たぶん胸の穴どころじゃすまない。どうにかしなければ…と思ったが、叔父は俺を殴ったり蹴ったりするのに夢中で、運良く揺れている襖には気づかなかった。
 そして、しばらく殴って頭に上っていた血が治まってきたのか、正気に戻った叔父は慌てたように俺から離れる。バツが悪そうな顔をするくらいなら、始めから殴らなければいいのにと思ったが、口に出して言う気力はなかった。

 「と、とにかく…、また来るからな。それまでに、自分の置かれた状況と例の話をよく考えておけっ」

 叔父の捨てゼリフを聞きながら、俺はまた畳の上に転がっている。殴られた頬や蹴られた腹が痛くて、でも…、すぐに立ち上がれないのはそれだけじゃない。
 けれど、それでも歯を食いしばり立ち上がると、俺は置かれた紙袋を乱暴に掴んだ。
 たぶん、この中にはわずかな…、けれど当座、生き延びられるだけの金が入っている。でも、俺が紙袋を見て感じるのは、安堵ではなく屈辱と怒り…。
 その感情のままに部屋の片隅にあるゴミ箱に近づいた俺は、手にした袋を投げ捨てようとする。しかし、そうしようとした瞬間、いつの間にか押入れから出てきたミノルの手が引き止めるように俺の足を強く押した。
 「・・・・なんの真似だ?」
 冷たい声で俺がそう聞くと、ミノルは首を横に振る。
 そして、押していた小さな手を離して、俺の前に差し出した。
 「捨てるつもりなら、俺にくんねぇか?」
 「・・・・・・・」
 「捨てるつもりなら、俺にくれてもいいだろ?」
 縫いぐるみは腹なんか空かないだろうし、金も必要ないだろう。
 第一、使い道なんかない。
 だが、それでもいると言うのなら渡してやればいい、俺には必要ないものだ。そう思った俺はミノルの小さな手に、ゆっくりと紙袋を乗せてやる。
 しかし、紙袋を乗せた小さな手は、なぜか下へと降ろされずに…、はい…と俺の方に向かって差し出された。
 「コレ…、お前にやる」
 予想もしなかったミノルの言葉に、俺は一瞬だけ固まる。
 だが、すぐに持ち直して、ミノルに向かって冷たい言葉と視線を放った。
 「人間の言葉が理解できないのか? それは今、俺がお前にやったものだ。いらないのなら、ゴミ箱へでも捨てればいいだろう」
 「違う、そうじゃなくてっ、俺からもらったモノなら捨てなくて済むんじゃないかって…」
 「・・・・・・・・」
 「この袋、ホントは必要なんだろ? だったら、ゴミになんかしないで、あんなヤロウじゃなくて、俺の手から受け取っとけよ」
 ミノルに向けたのは、冷たい視線と言葉…。
 なのに、俺に向かって返ってきたのは、暖かな優しさだった。
 純粋にただ俺を助けたいと思う…、そんな気持ちだった…。
 けれど、俺はそれに少しも気づく事もなく、行き場を失った怒りをぶつけるようにして、ミノルに酷い嘘をついた。
 「・・・・・・この袋をくれた礼に、良い事を教えてやる。さっき行きたいと言っていたイギリスに行くには、船に乗らなくてはならない」
 「船って、あの海とかにある?」
 「そうだ。そして、船に乗るには金が必要だ。いつから動けるようになったのか知らないが、金くらい知っているだろう?」
 「じゃ、じゃあ金を集めたら、アイツのトコに行けんだな?」
 「・・・あぁ、もしも集められたら、俺が連れて行ってやるよ」
 「ホントか?!」
 「本当だ」

 ・・・・・・・・・ウソツキ。

 心のどこかで…、そんな声がした。
 だが、俺の心は凍りついたまま動かない。
 手の中の紙袋を握りしめながら、冷たい心で喜ぶミノルを見ていた。
 こんなわかりやすい嘘に、引っかかる方が悪い。
 縫いぐるみに金なんか稼げるはずはないし、第一、俺のような子供がイギリスなんかに行けるはずがない。それに、もしも奇跡が起きて行けたとしても、誰の手に渡ったかも知れない黒いクマの縫いぐるみなんて探し出せるはずもない。
 少し考えればわかるのに…、馬鹿なヤツだ。
 でも、本当の馬鹿なのは、そんな嘘をついた俺自身だと…、
 自分のついた嘘の残酷さに気づくのは、もう少し後になってから…。
 その時、自分の事だけで精一杯だった俺は、必ず会いに行くと張り切るミノルの横で、唯一、自分の手元に残された、屋敷を出る時に奪われまいと必死に抱きしめていた…、持っていても腹の足しにも何にもならない…、
 
 ・・・・・・そんな一冊の本を眺めていただけだった。
 



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                                           2008.7.21