綿毛の雪 14





 ・・・・・おめでとう、どうかお幸せに。


 俺はそれだけを言うために、ここに来た。
 橘と美和の結婚式が行われる、その会場に…。
 本当は来ない方が良いのだという事は、会場に集まった人々の視線を浴びるまでもなくわかっている。だが、それでも一言だけ言いたかった、自分の目で見届けたかった。
 橘が幸せそうに微笑むのを、目に焼き付けておきたかった。
 泣くのでもなく、哀しむのでもなく、笑顔を浮かべて…。
 だから、招待状を渡した真田の思惑など、俺にはどうでも良い事だった。
 いや、もしかしたら…、本当はそうではなく、そんな事を考える余裕がなかっただけなのかもしれない。その証拠に会場の人々のざわめきが、今の俺には何か別の世界の言葉のように聞こえた。
 「どうやら、この会場で君は、花嫁よりも人々の興味を引く存在らしい。誰もが君に視線を向け、君の噂話をしている」
 「・・・・・・・・」
 「だが、そんな些細な事は、君には関係無いようだ。では、君の興味はどこに、誰にあるのか…」
 「俺は美和の…、従妹の結婚式に来ただけだ。それは誰の目から見ても普通の事だし、別にどこにも誰にも興味はありはしない」
 質問にそう答えた俺に向かって、おそらく真田は嫌な笑みを浮かべているだろう。
 だが、今日はそれを見る気分にはならない。そして、本当にそうかね…と問いかけてくる声にも、もう返事をする気にもならなかった…。
 
 笑え…、笑え・・・、笑うんだ・・・。

 招待状を見た日から、俺の中で繰り返される言葉は、まるで呪文のように今も繰り返され続け…、鏡やガラスに映る自分の顔を見て笑みを浮かべる。
 そうして、いつものように、笑顔を浮かべられる自分を見て安心した。
 従妹の結婚式に顔を出すのは、この場にいる誰が何と言おうと普通の事だ。だが、幸せになって欲しいと思っているのに、笑顔でおめでとうと言えないのはおかしい。
 そう思っている相手が従妹ではなく、その結婚相手だったとしても…、
 幸せになって欲しいと思っているのなら、それを願っているのなら、笑顔で言えるはずだった。たとえ、それが自己満足でしかなくても、俺はあの懐かしい庭で見た橘のように、穏やかに優しく微笑みながら言いたかった。

 「な、なぜ…、お前がこんな所に…っ」

 会場の人ごみを抜けた先で、俺に向かってそう言ったのは花嫁の父である叔父。そして、その横に居る花嫁の母である和子が、鬼のような形相でこちらを見ていた。
 だが、それは予想していた事で、意外でも何でもない。
 元々、俺は結婚式自体に出席する気はなかった。
 ただ、お祝いの言葉を一言だけ、橘の幸せそうな姿を一目見に来ただけだ。
 だから、すぐに帰る事を叔父夫婦に伝えようとしたが、その前に和子の金切り声が俺の声を掻き消す。相変わらずのその様子を俺が静かに見つめていると、俺をせなかに隠すように、横に居た真田が一歩前へと出た。
 「本日は結婚式にお招き頂き、ありがとうございます、松本夫人。娘の美和さんの美しい花嫁姿を一目拝見させて頂きたいと、楽しみに参りましたが…、私の息子が何か貴方に無礼を?」
 「え…、息子? で、でも確か真田さんには息子なんて」
 「おっしゃる通りですが、最近、養子をもらいましてね」
 「その養子…というのは、ま、まさか後ろにいる生意気で可愛げのない…っ」
 「ほぅ、ありませんかな? 私にはとっては素直で、可愛い息子ですが?」
 「…っ!」
 真田の言葉に、その気持ち悪さに鳥肌が立つ。
 だが、和子については何も思わなかった。真田と和子の間で青い顔をしながら、おろおろしている叔父の事もどうでもいい。
 彼らが見ているのは昔から、俺ではなく父だった。
 憎んでいるのも嫌っているのも、俺ではなく父だ。

 そして…、これから会おうとしている橘も・・・・、

 なのに、俺はどうしても忘れられなかった。
 あんな約束は嘘だとわかっていたし、もう待ってもいなかったのに…、
 名前も存在すらも忘れられて、もうとっくにさよならを告げているのに…、
 それでも俺は…、橘を想わずにはいられなかった。
 なぜ、好きだと思うのだろう。
 なぜ、こんなにも好きだと思うのだろう。
 ミノルの言っていた白い羽など、決して降らないのに…、なぜなのだろう。
 いくら繰り返し胸の奥で、そう問いかけても答えは出ない。けれど、辺りを見回していると新郎控え室という文字が目に入り、目的を果たすために歩き出した。
 
 「おいっ、待てっ! そちらへは行くなっ!」

 真田の横を、和子の横をすり抜け、叔父の制止を振り切り…、
 俺は一直線に橘の居る場所を目指す。
 けれど、それは間違いだった。
 橘に会う…、それだけしか考えられなくて気付けなかった。歩き出し、走りだした俺の背中を眺める真田の口元の浮かぶ笑みが、いつもよりも更に深かっただろう事に…。
 本当に橘の幸せを願うのなら、二度と会うべきではなかった。
 たった一言でも伝いたいなどと、思うべきではなかった。
 その事に気付かず過ちを犯した俺は、目指す先でドアを勢い良く開ける。
 すると、タキシードを着た橘の驚く顔が、俺の目に飛び込んできた。
 
 「・・・・・・隆久、君?」

 驚いたままの顔で、橘が俺の名前を呼んで…、
 それを聞いた俺は、あんなに練習した笑顔を忘れた。
 おめでとうと言おうとして開きかけた唇からは、なぜか声が出なかった。
 だが…、きっと微笑んでいただろうと思う。
 おめでとうと伝えるために、幸せそうに微笑む顔を見るために来たというのに…、
 ただ会えた・・・、それだけでうれしいと感じていたのだから…。
 けれど、突然、後ろから伸びてきた腕が、俺から微笑みも喜びも何もかもを奪い去り、大人の大きな手のひらが俺の視界を覆い尽くす。そして、そんな暗闇の中で俺はベッドを軋ませる夜の気配を背後に感じ、反射的に身体をビクリと震わせた。

 「…思ったよりも、随分と遅い登場ですね。しかも、こんな目立つ場所に出てくるなんて、どういう風の吹きまわしです?」
 「私の息子が、どうしても君に祝いの言葉を贈りたいと言うものでね。丁度、あの小男から招待状も来ていたし、暇つぶしに来てみたのだが…、お邪魔だったかね?」

 橘と真田…、二人の会話は今日、昨日、知り合った人間のものではない。
 もうずっと前から知っていた…、そんな人間同士の会話だった。
 多くを語らなくても、それでも二人の間では会話が成立している。橘の声は冷やかで嫌悪に満ちて硬く、真田の方の声は何かを楽しむように、からかうように笑みを含んでいた。
 そんな二人の会話を聞きながら、胸の奥に押し寄せてくるのは不安…、
 そして焦りと・・・、恐怖に似た何か・・・。
 これ以上、話を聞けば後悔する…、そんな気がするのに俺は耳を塞ぐことが出来ない。自由であるはずの両手は、身体の両側に落ちたまま動かなかった。

 「君は、何か勘違いをしている」
 「勘違い?」
 「そう、私はただ暇つぶしついでに、君に祝いの言葉を贈りに来ただけだ」
 「嘘つきな貴方のそんな言葉を、僕が信用するとでも?」
 「信用してもしなくても、別に構わないがね。こうして、私と君が会うのも話をするのも、今日で最後になる」
 「・・・まさか」
 「本当だ。君からの例の約束の品は、確かに受け取らせてもらったのでね。君の身代わり、人身御供…、可哀想な彼を…」

 そんな真田の声に言葉に、俺はいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げる。
 だが、相変わらず視界は暗闇に覆われていて、何も見えない。
 橘の顔も姿も周囲の状況も見えないなのに、俺は人形のように動けないでいる。
 よりにもよって、真田の手のひらが作りだした暗闇の中で…。
 やっと、自分の今の状況を正確に認識した俺はギリリと歯を噛みしめ、不安も焦りも恐怖も押しのけると、落ちたままの両手をあげて暗闇を追い払おうとした。
 だが、その瞬間を見計らったかのように、また真田の声が耳に響く。
 しかし、今度の声は鼓膜だけではなく、俺の心まで震わせた。

 「君が松本家の当主に取り入り、すり替え手に入れてくれた土地や建物の権利書、証券や実印に至るまで、本当に随分と役に立ったよ。君の義理の父君の前でチラつかせたら、すぐに食いついてきた。憎んでいる兄の持ち物で金が手に入るとなれば、懐具合が良くなるばかりか、復讐も出来て一石二鳥。くくく…っ、どうやら、それをきっかけに金銭感覚が狂ったらしくてね。今では膨れ上がりすぎた借金の形に、未だ幼い甥まで差し出す始末だ」
 「貴方という人は…っ」
 「今更、善人のフリをして、どうしようというのかね? これは私ではなく、君が望んでいた事だ。だから、君は松本家に入り込み、私の指示通りに動いていた。その結果、彼はこうして君の代わりに私の腕の中にいる」
 「・・・・・・・」

 「おめでとう、橘君…、君の役目は今日で終わりだ。君にとって、これ以上の祝いの言葉は無いはずだろう?」
 
 ・・・・・真田の言葉を、橘は否定しなかった。
 何一つ否定せず、やがて沈黙する。
 そして、ゆっくりとゆっくりと真田の手が離れて行き、暗闇に覆われていた視界が開かれると見えなかった橘の顔が見えてくる。だが、暗闇に慣れていたせいで光が眩しく…、俺は目を細めた。
 真っ直ぐに向けた、俺の視線の先にいるのは橘だけ。
 しかし、やがて見えるようになった視界の中で、橘は微笑んではいなかった。無表情で何を思っているのか、何を考えているのか、まったくわからない。
 まるで、別人のようだった。

 「たち・・、ばな・・・・」

 無意識に橘を呼んだ自分自身の声に驚き、反射的に真っ直ぐに向けていた視線をわずかにそらせる。すると、橘は今まで見た事のない冷たく暗い瞳を、背後に立つ真田ではなく、俺の方へと向けた。
 「・・・・本当ですよ」
 「え?」
 「今、真田が言ったことは偽りではなく、すべて事実です。僕はその昔、今の貴方と似た状況の中に居た。だから、そんな状況から抜け出すために、自分が助かりたいがために、幼く無邪気な貴方を騙し欺き陥れた」
 「・・・そのために、父に近づいたのか?」
 「ええ、そうです。そして、好都合な事に僕が屋敷に出入りする理由を作るため、貴方の父君は遊び相手として僕を貴方に紹介した。本当に…、何もかもが順調すぎて怖いくらいでしたよ」
 「・・・・・・・」
 ようやく、口を開いた橘の言葉に、今度は俺が沈黙する。
 橘は・・・、父の事を好きなのだと思っていた。
 あの本は、そういう意味で渡されたものだと思っていた。
 けれど、それは俺の勘違いで、橘は父を利用しただけ…、
 そして、父の息子である俺も同じように利用されただけ…、
 橘は真田の言葉を認め、俺の知らなかった事実を語り、目の前に突き付けた。
 嘘だと思いたい、嘘だと言って欲しい…、そんな真実を…。
 しかし・・・、俺はその場に立ち尽くし、ようやく上げる事の出来た手で掴みかかる事もせず、嘘だと叫ぶこともなく、橘を静かに見つめる。すると、真田の両腕が後ろから包み込むように俺の肩を抱いた。

 「さあ、君も早く彼に祝いの言葉を贈りたまえ。そのために冷たい視線や言葉にされされながら、ここまで来たのだろう?」

 真田の言葉に、抱きしめられた肩が心が揺れる。
 けれど、頭の中は白く、目の前は黒く暗く染まって…、何も言う事が出来なかった。
 おめでとうと、どうか幸せにと、それだけを伝えるために来たのに…、
 俺はあんなに練習した笑顔も忘れ、ただ茫然としていた。
 すると、真田は俺を後ろから抱きしめたまま、楽しそうに短く笑う。そして、抱きしめた手を片方だけ離し、その手で俺の頭を優しく撫でた。
 
 「せっかく、ここまで来たというのに、彼は君への憎しみのあまり声も出ないそうだ。それに加えて、気分も悪いようなのでね。私達はこれで失礼させてもらうよ」

 真田にうながされるままに、俺は橘に背を向ける。
 そうして、来た道を戻りながら、橘から遠ざかりながら…、
 人々の冷たい視線と、冷たい言葉を浴びながら…、
 俺は突然、落されてしまった暗闇の中で、白く染まった頭で考えていた。

 誰を恨んで憎むべきなんだろうか…、と…。

 そんな俺の耳に真田が、また俺の知らなかった事実を囁き…、
 今度こそ、完全に俺の思考が止まる。
 そう・・・、俺がした事は何もかも無意味だった。
 祈ったはずの幸せも白い羽も、そんなものはどこにもありはしない。
 橘に裏切られ、ミノルもいなくなり、俺の手に残されたのは誓約書と契約書。楽しそうに笑う真田は俺の背を押し屋敷に戻ると、昔、橘が居たという部屋に俺を閉じ込めた。

 暗い暗い・・・・、闇の底に・・・。




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  2009.12.31