綿毛の雪 11





 『ココを出て、二人でどっかに行こう』


 ぼんやりと窓から空を見上げていると、聞き覚えのある声がする。
 だが、今、この部屋には誰もいない…、いなくなってしまった。
 部屋が広くなったのは少しだけ、ほんのわずかだというのに、その空間がやけに気になって…。ふと、視線を窓から室内に戻すと戸棚が見えた。
 その戸棚はいつも夜・・・、俺のたった一人の友人を閉じ込めていた場所。
 だからなのか、今も無意識に見つめている事があって…、
 それに気づくたびに、なぜか胸に穴が開いてしまったような、そんな気分になる。本当に穴が開いているのは俺ではなく友人の…、ミノルの方だというのに…、
 だから、俺はそう感じるたびに気のせいだと呟き、穴の開いてない胸を押さえた。

 「・・・俺自身の望んだ事だ。何もかも望んで、その通りになって…、なのに胸に穴など開くはずがない」

 俺がこの部屋に…、この屋敷に初めて来た日、真田と名乗った男は口元に見る者を不快にさせる笑みを浮かべながら、叔父ではなく俺に選べと言った。しかも、養子になるかならないかではなく、叔父を見捨てるか見捨てないのかを選べと…。
 しかも、自分の立場をわきまえろと踏み潰されるか、嘲笑われるかのどちらかだろうと思って出した二つの条件に対して、同じく二つの条件を出してきた。

 『・・・・一体、今の俺にどんな価値が?』

 条件を出す事で借金の形に売り飛ばすのではなく、養子にしたいと申し出た真田の意図を探ろうとしていた俺は、そう言って大げさな仕草で肩をすくめる。すると、真田は口元に浮かべた笑みを少し深くした。
 『私が君を気に入っていて、手に入れたいと思っているだけだと言ったら、信じるかね?』
 『・・・そう言う貴方は信じられると思いますか?』
 『くくく…、まだ幼い君を助けたいなどという偽善的なセリフより、信憑性があると思ったのだが、やはり少し無理があったようだ。しかし、気に入っているのではなく、興味がある…と言えば、少しは信じられるだろう?』
 『・・・俺には、俺自身が貴方の興味を引くような人間とは思えない』
 『賢いな、君は』
 『からかうだけなら、今日は帰ります』
 『私は最初から、真剣に話しているつもりだよ…、未来の私の息子と』
 『・・・・・・・・』

 ・・・・・・興味。

 真田はそう言ったが、信じられるはずがなかった。
 父が生きていた頃ならいざ知らず、今の俺にも松本の家にも利用価値はなどあるはずがないし、不細工だとは言わないが、俺は人目を引くような容姿をしていない。つまり、そういう意味でも興味を引くとは、とても思えなかった。
 しかも、真田とは今日が初対面…。
 何か裏があると考えるのが、普通だろう。
 真田が俺に出した二つの条件は、俺の出した同じ数の条件、それぞれに何かの意図を持って不自然に対応していた。
 養子になる事を承諾して、書類にサインをするなら、留学の件を…、
 その上で、養父である真田に絶対服従を誓うのなら、借金の件を…。
 真田の出した条件は、まるで俺に叔父を見捨てるよう勧めているようにも思える。
 俺がここに来た目的は、ミノルを片割れの黒いクマに会わせるため…、イギリスへ行かせるためだ。それを真田が知っているはずはないが、俺の置かれた今の状況を知っているのなら、二つ目の理不尽な条件を飲むとは誰も考えないだろう。
 迷う必要はない…、少しも…。
 養子になる事だけを、承諾すればいいだけだ。
 だが・・・、それでも俺はすぐに返事をする事ができない。
 隣で青い顔をしている叔父ではなく、従妹と結婚するという婚約者の顔が脳裏に浮かんで、どうしても消えてくれなくて…、拳を硬く握りしめ、俯き唇を噛みしめる。
 すると、そんな俺を眺めながら、真田はまるで何もかも知っているかのように口元に笑みを浮かべたまま、俺の前に契約書と誓約書を差し出した。

 『さぁ、選びたまえ。すべては私でも、そこにいる小男でもなく、君の意志に委ねられている』

 真田の意図がどこにあるのか、何をしようとしているのかわからない。
 そして、俺自身も目を見開き驚く叔父の前で一枚ではなく、二枚の書類にサインをしてしまったのかわからない。
 けれど、俺はその時も今も最後に聞いた橘の言葉を、声を聞いていた。

 『今に貴方はきっと、本当に好きな人と出会って恋をして…、キスをする。そして、その人と一緒になって…、必ず幸せに・・・』

 そんな偽りで無意味な言葉を繰り返し繰り返し呟きながら、それから俺は好きでもない男とキスをして…、ベッドが軋む音を聞いている。ミノルが片割れの黒いクマに会える事を、それだけを祈っているはずなのに、まるで祈るみたいに幸せにと何度も呟いて…、
 胸にあの本を抱きしめながら、白い羽の降らない空を見上げ続けていた。
 
 「俺は逃げない、逃げる訳にはいかないんだ…、ミノル。お前のためでも、他の誰のためでもなく、自分のために…」

 真田の手を借りて募集した留学希望者を何人も面接をして、イギリスへ連れて行くだけではなく、きちんと面倒を見てくれる人物も見つけて、ミノルを無事に送り出す事が出来た。
 たった一人の友人の願いを叶える事が、俺の一番の望みだった。
 けれど…、その望みが叶ったというのに俺の心は、決して届かない場所へ向かって伸びていく。それが誰の目から見ても馬鹿で愚かな事でしかなくても、俺には伸びていく自分の心を止める事が出来なかった。
 見ないフリをしても、目を閉じても…、その想いは止まらない。
 白いシーツの波に身体を沈めるたび、遠く遠くなっていくだけで…、
 それを知っていても、それがわかっていてもなお、俺は橘の姿を脳裏に想い描き続けていた。最後に見た月の夜を、遠く戻らない日々を…、胸に抱きしめ続けていた。

 『俺が父さんに頼んでおくから、橘もここに住めばいい。そうしたら、いつでも会えるし、きっと毎日楽しいし…』
 『・・・・・・それは、できません』
 『橘は・・・、俺と一緒にいたくないのか?』
 『いいえ』
 『だったら…っ』
 『いいえ、僕にはその資格がないんです…。だから、どうかそんな顔をしないで、笑っていていてください…、お願いですから』
 『橘?』

 『・・・・・せめて、今だけは』

 松本の屋敷の庭と橘と…、明るい空。
 広すぎるベッドの上で目を閉じて見る夢は、いつも同じ。
 周囲に居るのは大人ばかりで遊び相手が居なかった俺に、ある日、父が橘を連れてきて…、それからの楽しかった日々の夢をいつも見る。けれど、そんな俺を現実に引き戻す声が部屋の外からして、俺は反射的に視線をドアへと向けた。
 「具合が悪いそうだが、大丈夫かね?」
 「・・・・・・」
 「くくく…っ、そんな顔をしなくても、今日はただ見舞いに来ただけだよ。だが、期待して待ってくれていたのなら…」
 「用がそれだけなら、出て行け」
 「屈辱に歪む顔を見るのも良いが、息子の反抗期というのも、なかなか新鮮で良い」
 「黙れ」
 俺を見る真田の口元は、いつも嫌な笑みを浮かべている。
 だが、本当に俺に興味があって、こんな真似をしているのかどうかはわからない。ただ、俺を自分の下に組み敷く事を楽しんでいるようにも見えるが、なぜ、それが俺なのかが、今も不思議でならなかった。
 それは借金の形である俺を、わざわざ養子にした理由も同じ。
 しかし、俺のその問いかけに、いつも真田は笑みを浮かべるばかりで答えない。けれど、今日はきまぐれなのか見舞いだと、まるでカードを投げるように睨む俺に向かって、一枚の白い封筒を投げて寄こした。
 
 「私宛てに届いていたものだが、君を連れて行っても構わない。行くか行かないかは君の自由だ、好きにしたまえ」
 
 行くか行かないかは、俺の自由…。そう真田に言われて手に取った封筒を開けると、そこには橘と美和の名前があった。
 ・・・・封筒の中にあったのは、三日後に行われる結婚式の招待状。
 それを見た瞬間、わかっていた事だというのに俺の手と心が大きく揺れた。
 
 「・・・何を哀しむ必要がある。橘が幸せになるのなら、こんなうれしい事は無いはずだろう?」

 橘は俺の事を…、覚えていない…。
 庭で二人で遊んだ事も、指切りをした事も何も覚えていない。
 橘は父に恋して、美和を愛して…、その瞳に俺の姿が映ることはない。
 そんな事は誰に言われるまでもなく、知っていたしわかっていたはずだった。
 だから、ただ遠くから祈っていた…、幸せを…、
 馬鹿でも愚かでも、この手で橘の幸せを守りたかった。
 なのに、橘の横に並ぶ美和の名前を見ると胸に痛みが走って、苦しくてたまらない。幸せになるのを見届けて、笑って微笑んでおめでとうと言いたいのに…、なぜか頬は硬くこわばっていくばかりだった。
 そんな自分が今、どんな顔をしているのか…、
 どんな醜い顔をしているのか気になって、俺は窓に映る自分の姿を見る。
 けれど、そこには虚ろな眼をした子供が居るだけだった。
 虚ろで表情もなく、まるで…、人形のようで・・・、
 そんな自分に初めて気づいた俺は、なぜ、ミノルが必死に俺の裾を引いていたのか、ここから出ようと必死になっていたのかを知った。けれど、俺はそれでも外へと続く窓を開けずに、そこに映る自分を見つめ続けた…。

 「笑え、笑うんだ・・・、笑ってくれ・・・。頼むから…、そんな顔をしないでくれ…」

 なぜか笑う事が出来ないでいる顔に、頬に手で触れて…、
 笑え、笑うんだと…、無理やり口の端を上げる。
 けれど、何度やっても瞳は虚ろなままで、笑う事も泣く事も出来ない。
 軋むベッドの上で身体を揺さぶられて、突き上げられている内に、何かがミノルの右手のように擦り切れて、気付かない内に壊れてしまったのか…。ずっと会いたかった人に…、その人が幸せになるというのに微笑むことすら出来なかった。
 しかし、それでも俺はあきらめずに何度も何度も、笑えと念じながら笑顔を作り続ける。そうして、俺は自分の顔に壊れては作り、壊れては作り、それを繰り返して笑顔を張り付けた。


 大切な人に…、大好きな人にどうか幸せにと告げるために…。

  



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 2009.11.26